011.[魔界]と[再会]
『――この世界の事は、[切り取られた場所] 、[森の断片]、[果てなき樹海]、……そのように、私たちは呼んでいます。その名の通り、この世界には何処まで行っても、森しか存在しない……牢獄、なんです』
森人の少女から聞かされた、この世界の姿。それは自分がここに来てから考えていた物よりも、ずっと荒唐無稽なものであった。
『そして、この世界にはもう一つ、呼び名があります。――この世界を切り取った存在、魔王が支配する場所……[魔界]、と』
『……魔王……?』
『はい。私が生まれてすぐ、この子たちが生まれるよりも昔、平穏だった世界に突如として現れた魔王 、それが、世界を砕き、[断片]へと変え……今も支配し続けています。そして――』
彼女はそこで言葉を区切ると、世界樹の方角に視線を向けた。
『――そして、あの[生命の神樹]を……私たち森人の聖域を、穢し続けているのです……!』
その眼には、暗い憎しみの色が宿っていた。
『改めまして、先ほどは助けて頂き、有り難う御座いました。私は、命の精霊エフィルが末裔、ヴィリジアンの長子、ベガと申します。後ろの二人は我が妹、シェリアとスーラです。この二人はまだ魔声での会話に慣れておりませんので、どうか、ご容赦ください』
『私は……私はアキラ。朱臣 晃という者だ。……[魔声]とは、この話し方のことか?』
『はい。……ご存知では、無いのですか?』
この、自身の心を曝け出すような、思っていることをそのまま伝えられる魔法のような話し方。なるほど、[魔声]と言われるのも頷ける。彼女たちの言葉も、あの女性の言葉も、最初は理解できなかった。あれは、彼女たちの話すこの世界の言語なのだろう。現状、それを[魔声]によって無理に意思疎通を図っているに過ぎない。
『……ああ。私は、この世界とは、異なる世界から来た。この世界のことは、何も知らない』
『――それでは、アキラさんは元の世界から訪れたという訳では、無いのですか……?』
『元の世界、がどういう意味かは、分からない。けど、私にとっての元の世界は、あなたの知る世界とは、異なる物……だと、思う』
『そう、ですか……』
『――私は、[黒い裂け目]に落とされて、この世界に来た。何か、心当たりは無いか』
しかし、その問いに対し、意外な答えが返ってきた。
『黒い裂け目……ですか。――――一つ、思い当たる事があります』
『! 本当か!?』
『あれは、世界が魔王に切り取られる直前だったと思います。突然、空がひび割れて、まさしく、あなたの仰る[黒い裂け目]のようになっていたように思います。――それから、それ、から……!』
ベガの様子が突如おかしくなる。頭を抱え、小刻みに震えて出した。目の焦点も合っておらず、口から漏れるのは、言葉にもなっていない嗚咽だけ。明らかに異常である。双子も、慌てて彼女の元に駆け寄る。
「お、おい、大丈夫か!? おい!」
「……あっ、ぁあ……うあぁぁぁあああぁぁぁ!!」
彼女の肩を掴み、正気を戻させようと揺さぶる。その顔と声に浮かぶのは恐怖と混乱。その時、彼女は一体何を見たというのか。尋常では無い怯え方だ。
一向に正気を回復しない彼女を見て、一つとある症状を思い出した。そして、その対処法も。
バッグからある果実を取り出し、ベガの口に押し込む。酸味トマトだ。押し込むと共に、ビクリ、と彼女の身体が跳ねたかと思うと、フラフラとしながらも正気を取り戻したようだ。彼女は双子たちに抱きつかれ、何事か話している。どうやら理性のある状態に戻れているらしい。後遺症のようなものも無さそうだ。
過程はどうあれ、彼女に思い出させるべきで無い事を思い出させたのは俺だ。こんなことで、貴重な情報源を失うわけにはいかない。
「(――けど、魔王と、この世界にも現れた黒い裂け目……やはり、関連があるんだろうか。――魔王の住むという[神樹]……俺が、世界樹と呼ぶ巨木。やはり、あそこへ行かなきゃいけないのか……)」
すると、回復したらしいベガが声を掛けてきた。
『……先程は、大変見苦しい姿をお見せしてしまいました。それに加え……申し訳ありません。黒い裂け目に関して、あれ以上のことは何も……思い出せませんでした』
『いえ、無理を言ったのは、私だ。こちらこそ、すまなかった』
『あれほどの酸味の果実……[気付け酸茄]、でしょうか』
……頭の中に、聞き覚えの無い単語が浮かんできた。おそらく、酸味トマトのことを言っているのだろう。その言葉の意味を、俺が理解できる言葉に噛み砕いて翻訳しているのだろうか。
――[魔声]による無理矢理な意思疎通では、このような事が起こるのか。覚えておくようにしよう。
『そう、呼ぶのか。以前、泉の近くに生えていたので、穫っていた物だ。珍しいのか』
『いえ、水場の近くであれば見かけることも多いので、この森ではそれほど珍しい物ではありません。ですが、精神的な混乱状態に効果的な薬果の一種です。……先程は、本当に助かりました』
なるほど、だから気付け酸茄というのか。あの時の対応は、間違ってはいなかったらしい。
『――以前、旅の連れが、その混乱状態になってしまったことがある。それで、さっきも、使わせてもらった。……あなたたちに、もう一つ尋ねたいことがある。実は、その旅の連れと、数日前にはぐれてしまった。手掛かりになりそうなことを、知らないか』
『――そう、ですか。はぐれてしまった旅の連れをお探しだと。……その方も、あなたと同じ、基人なんですよね? でしたら……あまり、お役に立てる話は、無いかもしれません』
その言葉は柔らかかったが、意味するところは、拒絶。だが、彼女たちの他に、情報源は無い。必死に食い下がる。
『――なんでも、なんでも構わない。何か一つでも、情報が欲しい。……でないと……!』
しかし、彼女はその言葉を遮り、こう返答した。
『あなたには、私たち三人の命を救ってくださった恩があります。力になりたいのは山々です。けれど……私は、今生き残っている森人の中で、この世界の事を調べる探索隊として、この森を歩み調べていました。 ……ですが、その何十年もの探索の中で、生存している基人に出会えたのは……あなたが、初めてなのです』
◆◆◆◆◆
力が抜け、その場にへたり込んでしまう。彼女は、生きた人間には出会ってこなかった、と言った。その言葉からは、俺も見かけた様な、かつて生きていたであろう残骸には、遭遇してきた。そういう言外の思いが込められていた……。
ぽつり、ぽつり、口から自然と、ミズシロのこと、ミズシロと彷徨いながらも、共に進んできた道程の思い出が溢れ出す。片手で数えるほどしか無い短い時間だったが、それでも俺にとって、心を許せる相手に出会った、大切な時間だったのだ。
彼女に、再び会うと約束したこと。彼女の持っていた、この世界を生き抜くために重要な道具について。それらを彼女から借りたまま来てしまったこと。そして、自分の荷を彼女に預けたままであったこと。
返さなければ、返してもらわなければ。約束を、果たさなければ。
彼女に生き延びてもらうため、彼女を守るため、俺は命を懸ける選択をした。そんな俺が生きて、ここにいるのだ。彼女もきっと生きている。いや、生きているに違いない。もしかすると、すぐそこまで来ているのではないか――
支離滅裂な思考が頭を渦巻く。思い出は願望へと変わり、願望は妄想へと移り行く。視界が曇り、彼女の笑顔が脳裏によぎる。
――あぁ、このまま、このままずっと、彼女の思い出と――――
『――ていっ!』
「もがっ!?」
瞬間、俺の思考は現実へと引き戻された。口の中には、目の覚めるような酸味が広がっている。
周囲を見やれば、俺の両腕を押さえる双子と、酸味トマトを俺の口に押し込むベガの姿があった。三人とも、その顔には不満と怒りの色が見えた。
『ダメ、だよ!』『アキラくん、諦めちゃ、だめ!』
双子の、シェリアとスーラの『声』が、俺の中に届く。その響きはどことなく、ミズシロの声を思い出させる物だった。
『――私の言が、アキラさんに衝撃を与えてしまったことは謝ります。……ですが、なんですかその体たらくは! トカゲ共から私たちの窮地を救ったあなたは、あの勇敢なあなたは何処へ行ってしまったのですか!』
ベガの強い意志の込められた『声』が、俺の心に滲んでいた絶望を払う。視界の曇りが、晴れていく。
『……[魔声]によって相手に伝わる思いに、嘘偽りや誤魔化しは出来ません。それに、その剥き出しの思いは確かに強い影響を相手に与えるでしょう。しかし、それが全てではありません。
確かに、私はこの森を長きに渡り探索しています。ですが、だからといってその全ての現在を把握している訳ではありません。
……お恥ずかしい話ですが、もしかしたらあなたの旅の連れのお方のことを、トカゲたちから逃げる際に見落としているかもしれない。そのくらいには、私たちは頼りない存在なのです。――二百年もの間、あの[魔王]を退けられていないのですから』
――どうやら、彼女たちに気を使わせてしまったようだ。『魔声』など関係なく、彼女たちの声からは、「前を向き立ち上がれ」という思いが感じられた。こんな、こんな自分勝手な振る舞いをした俺に、それでも立ち上がれと言ってくれるなら……立ち上がるしか、無いじゃないか。
『――すまない。三人とも。……もう、大丈夫だ』
『それはよかった。……ですが、実はもう一つ、謝らなければならない事があるのです。先程はお役に立てないなどと言ってしまいましたが、アキラさんの旅の連れ……ミズシロさんの、手掛かりを、見ていたかも知れないと』
それは、唐突な申し出であった。
『それは……どういう、意味だ?』
『はい……実は、探索の最中、数多くの森の動物達がその命を奪われ、打ち棄てられている一角を見つけたのです。――あまりに不気味だったため、それ以上踏み込むことはしませんでしたが、木々の隙間から奇妙な物が覗き見えました。……見たこともない鋼の刃、それが、宙を舞っている光景です。』
『それって……』
『ええ……先程のアキラさんの独白を聞いて、思い当たる節が一つありまして。……その宙を舞っていた刃は、ミズシロさんの持っているという[鉈]ではないかと……』
『――その場所まで、案内してもらえないか』
そう頼むと、ベガは少し考えてから、このように返答してきた。
『――実は私たちも、探索隊の仲間とはぐれておりまして……道中の護衛、彼らの捜索。これらを、引き受けていただけるのであれば』
『もちろんだ』
手を差し伸べ、握手を求める。しかし、ベガにはその意図は伝わらなかった。エルフには、握手という文化が無いのだろうか。
『……この手はどのような意味が……?』
『あぁ、握手という、ある種の契約の証……の様な物だ。ただ、別に嫌というなら、無理にするものでも無いが……』
『――いえ、是非[握手]を、お願い致します』
そう言うと、ベガはこちらの差し出した手を握り、何事かを呟いている。そして、シェリア、スーラを促すと、彼女たちにも、俺との握手をさせていた。
『これで[契約成立]、ということですね』
『あ、あぁ……それでは、道案内を頼む』
『お任せ下さい。アキラさんも、どうか私たちを、守ってくださいね?』『――守ってね?』『ね!』
……効果範囲、性能を制限し、なんとか耐えられるようになった『識』を使い、周囲の物音を聞きながら、ベガたちエルフの道案内に沿って森を進む。今度こそ、ミズシロのところへ辿り着けるよう願いながら。
◆◆◆◆◆
ベガたちの道案内に従い、数時間ほど歩いただろうか。どうやら、ここが彼女たちの言う「鉈の飛んでいた場所」らしい。辺りには、深い切り傷を負って息絶える動物たちの死骸が、無造作に転がっている。どれもこの場で切り殺されたのではなく、傷を負ったまま逃走し、失血によって力尽きた物のようだ。どの死骸からも、同じ方向に向かって血痕が伸びている。
その死骸の脇を抜け、血痕を辿り進むと、森の木々が開けた広場に出た。その中心には、人の背丈ほどの、さほど大きくない樹木がある。そして、その傍らには……
「――ミズシロ!!!」
見間違えるはずもない。彼女が、横たわっていた。その手には、俺の預けたバッグがしっかりと握られている。
『あ、アキラさん!?』
エルフたちを置いて、無意識の内にミズシロの下へ駆け出す。しかしその時――
『――アハ、アハハ、アハハハハハハハハハ!!!』
辺りに、そして頭の中に、狂ったような少女の笑い声が響き渡る。――その声には、聞き覚えが、あった。
笑い声の聞こえた方向……右側から、猛烈な勢いで鉈が飛んでくる。ベガの言っていた通り「宙を舞う鉈」である。だからか、とっさの対処も問題なくすることが出来た。
『風壁!』
右腕の前に風の壁を創り出し、鉈を受け止める。しかし、その勢いは収まらない。まるで何者かがずっと鉈を押し付けて、押し切ろうとしているような感覚だ。
『――――識』
眼の感覚を強化する。これを行うことで、「生命力の靄」の流れを、より鮮明に見ることができる。そして、その状態で見たそこにいた者は――
「――何、やってんだよ……ミズシロ……!」
『アハ、アハハハ♪』
まるで、悪霊の如き姿で鉈を持つ、もう一人のミズシロであった。




