第三十話・それぞれの準備
かつてアントン達が出会った最前線の町、テレシクア。その国境を守るエルドヘルスの軍勢とキスゴルの軍勢はかつてない激戦地となっていた。
理由は互いに切り札を投入したからであり、それは戦争のあり方を神話の時代へ逆流させているかのようだった。
「敵、赤犬部隊投入!」
「魔剣士団を押し出せ! 一匹も通すな!」
毛のない犬が半狂乱の様子で、兵士とともに突撃してくる。魔犬カーシー……奇しくもアントンの初陣の相手だったが、量産に成功したらしい。
四つ足相手に慣れている兵などいない。飛びかかられて転倒すると同時に、その獰猛な食欲から逃れるために犬の頭を押さえつけるのがやっとだった。
あわや皆食われて終わりかと思わせるような有様だったが、カーシーの突撃は止まり、それどころか徐々に後退していくではないか。
「炎の魔剣だ! 助かるぞ!」
キスゴルが怪物を操るというなら、エルドヘルスは自然を操る。古代の遺物を参考にした魔剣を握りしめた精鋭達がカーシーに挑みかかる。
カーシー達は本能的に炎を恐れ、憎々しい様子で距離を取ってしまう。そして、意気を取り戻した兵たちがカーシーに随伴していた兵達と激しい戦いを繰り広げる。
人間達の争いは日毎に苛烈になっていた。それが何に関与しているかなど、考えている時間は無かった。
一方で考える時間が増えた者もいる。戦場から遠く離れた地にいるアントンである。首都キスゴルにいる間に準備を整え、一気に憑依者を追う手筈だが手続きなどに時間を取られていた。
無論、役人の側はできるだけ急いでくれていることは分かっていた。この時期にエルドヘルス人がキスゴルで過ごせているのはトーバ王のおかげだ。
レオノールもここに至っては政治的に無関係ではいられない。行事などに忙しくしていた。そこでアントンも忙しくなってもおかしくはないのだが、守護騎士をあえて同席させずに心証を良くするというよく分からない胸襟の開き方があるらしく、無聊をかこっていた。
(勝てるのか……アレに……)
取り留めのない思考の最後に浮かぶのは、必ずヴェールに包まれた影だった。ホアキンを連れ去るために現れた存在。アレこそが憑依者であると、アントンは不思議な確信を抱いていた。
現れた時も、去る時も、アントンはどうやって移動したのかさえ掴めなかったのだ。一方で同じように魂を束縛する存在であるアントンだからこそ、思い当たる節もあった。だが、想像の通りなら手に負えない。
(シシシ……戦う前から負けるつもりはよせよ。俺達なら上手くすれば倒せることだって、わかってもいるはずだ。アレは良くも悪くもそうした存在だ)
(だが、可能性が低すぎる。経験の差がどれほどあると思っている)
魂の捕縛者という異能は鍛えようがない。正確には他人の魂を捕らえることでも試せるだろうが、常識的な感覚が邪魔をする。
こうなってくると、過ぎ去ったはずの“なぜ俺がやらないといけないのか”という気分が顔を出してくる。己の小物っぷりが嫌になってくるのも合わせてだ。
「アントン? 今日の祭儀は終わりましたよ?」
「ん……ああ、もうそんな時間か」
気づけばレオノールが後ろに立っていた。思えば、この旅はレオノールに付き合うと決めたからだ。彼女の決意の重さに惹かれたようなものだった。
戦う理由もそれぐらいで良いだろうとアントンは思い起こした。魂だの命だの、そんなものを賭ける使命感は他にやらせておけば良い。
「ロベルトの旦那とミレイア姐さんは、まだ何かしてるのかな……」
「お二人共、先の戦いで思うところがあったようですから……」
「あの見えない移動さえ何とかなればな……追いかけることもできないんじゃ誰がやっても同じだ」
アントンにはできなくとも、相手にはできる。そして、相手からすれば自身を殺せる可能性を持つ敵と、まともにやりあう必要性すら無い。
「守護騎士アントンにはあの力を理解できるのですか?」
「まぁ……半分は憶測だけど幾つかできるかなっていうのはある……俺は試す気にもなれないけど、抵抗が無いなら話は別だ」
「わたくしは単純に闇の力にはそうした術があるのだと思っていました」
「光の魔法にはそういう便利なのは無いのか?」
「いえ……鎮めたり、逆に勇気づけするものがほとんどですね。直接相対できれば徹底的に行動を妨害できると自負していますが、自分達の肉体をどうこうすることはできません」
近くに花壇の石垣を見つけたアントンは座り込んだ。着込んでいる鎧で立ち上がる時に苦労するだろうが、ゆっくりと話したい気分だった。
花壇には白や黄色の花が咲き、この世の汚れとは無関係のようだった。
「俺は魔術を知らんから、悪い想像ばかりしてしまうのかもな。一番可能性が高いのは憑依者は魂だけで移動できるというところだ」
「肉体を抜け出して……!?」
「そこは別に驚かない。可能な距離とか格好がどうなるかとか気になるところはあるが」
内側に魂のストックがあれば、恐らく自分にも可能だという推測は口に出さなかった。敵と同類だとレオノールに思われることが、この時のアントンには何となく嫌だったのだ。
「しかし、そうなると不思議なのはホアキンだ。憑依者はアイツもまとめて連れ去った。あれも普通の人間じゃないのかもな」
「わたくしは魂の移動を制限する方法を探しましょう。歴代の聖女の記録にはきっとあるはずです。完全に止めは刺せずとも、これまで退けて来たのですから」
魔法や魂など随分と不可思議な世界に身を置くようになったものだ。これでは自分が騎士になっても然程不思議でもない気がしてきて、アントンは少し微笑んだ。
「では教会に戻りましょう。あそこにも記録があるでしょう。あ! それに文字の練習にもなりますね!」
「神聖文字はまだほとんど覚えちゃいないのに……はいはい! お付き合いしますよ!」
やる気に満ち溢れた聖女と、憂鬱そうな守護騎士は並んで歩き出した。作法や立場など関係なく、それぞれが気ままな様子だった。歴代でこのような組み合わせは無かった。それゆえに運命は彼らを選んだのかもしれない。
ゆえにもう一方の運命は容赦が無かった。薄暗い部屋の中、物のように落下したホアキンは苦痛に呻きながら、床から立ち上がろうと四肢に力を込めた。
虫のような自分の有様とそれを与えた存在を憎悪して、熱をこめる。しかし、その試みは鈍く成果が出るまでに長い時間がかかった。
「装備の改良は上手くいったようですね。ここまで成果が出れば充分」
響く声音は優しさに満ちていたが、それはホアキンに対して向けられたものではない。いや、ホアキンという道具には向けられているだろう。
辛うじて立ち上がった時、地べたを這いずった恥辱はアントンのせいか、眼前のヴェール姿のせいか、ホアキンはしばし悩んだ。
「しかし今代の魂の捕縛者は経験が浅いと聞いていましたが、そうでも無かったようですね」
「……確かに予想外だった。あの傭兵風情が殊勝にもまだ訓練を続けているとはね。だが、守護騎士といっても所詮は教科書剣術。子供の頃から剣術を叩き込まれてきた私としたことが……油断というのは恐ろしいな。自戒するよ」
「そう。万全を期してもらわねばなりません。また勇者に相応しいように、貴方を改良しましょう」
「不要だ! 私は……! 私なら……!?」
ヴェール姿の奥にある瞳を見たホアキンは、気圧されたように言葉が詰まった。いつもこうだ。こいつらには自分が必要なはずなのに……なぜ対等に感じないのだ?
実際にヴェールの集団は自分を第一に立てているようにしているのに、なぜ不安になるのか。これではまるで、まるで……飼われているかのようだ。
抜け出せない道にはまり込んだようにホアキンの心は晴れなかった。




