第十三話・牢屋の中で
どこかで水が落ちた音がした。外は雨が降っているのだろうか。
地下の牢屋で時間の感覚もなく過ごすアントンは静かに、確実に水滴のリズムを感じ取って楽しんでいた。不思議と気分は晴れていた。一度爆発させた影響だろう。
周囲は冷たい石壁と鉄格子に囲まれ、這い出る隙間もない。ここが噂に聞く牢屋という場所か、そうぼうっと思った。
「久々にやってしまったなぁ。死刑とかかな」
しかしまぁ教会の一番偉い人間に口答えしたのだ。貧民出としては中々の快挙ではなかろうか?
勿論アントンとて死にたい訳では無いし、故郷の孤児院が気にかかる。だが、逆に言えばそれぐらいしか執着するものがない。
自分でも驚くほど空虚だった。特別な存在であることや使命など、本当にどうでも良かった。
「カリディスもいないんじゃ、独り言を言うしか無いな」
ネズミを友として、老人になるまで閉じ込められる自分を想像する。魔剣使いや救世主などより余程己に似合っている気がした。
「神様に選ばれて、世界の命運を決める戦いをして、見事成功。拍手喝采か……」
アントンは一人で可笑しくなった。男子なら夢見る展開だが、自分はそんなことを考えたこともなかった。貧しい生まれの者共通のものがあるとするなら、それは夢を見ないということだろう。
嫌になるほど現実を叩き込まれて、終いには現実自体がどうでもよくなる。地面を這いながら、夢見がちな狂信者より地に足が付いていない。
反抗した聖女を思い出す。美しいが、現実感の無い女。結局、上か下かの違いだけで等しく浮いている。滑稽なことだと考えながら、アントンは目を閉じた。
次に目覚めたのは鉄靴の足音を聞いたときだった。自分の隊長であるホアキンだった。考えてみれば部下が牢屋に放り込まれて、彼も迷惑を被った一人だ。
「まさか、隊長が面会に来るとは思いませんでしたよ」
「……聖女様からの命令は絶対だ。加えて途方もない名誉でもある。なぜ、あのような真似をしでかした。騎士団の面子にも関わる」
「その名誉というのは俺には関わりがないことです。俺に御大層な名前が付いたところで、くず鉄拾いのアントンは消えない」
「頭がどうかしているのか!? ヤーバード教団直々の命だぞ! 褒美も思いのままだろう。それが生まれつきの才でぽんと転がり込んできて、なぜ喜ばない? なぜお前なのだ!? どうして、私ではない!」
「俺が隊長の立場ならむしろ喜びますよ。面倒な役回りが自分でなくて良かったってね。貴族に生まれたのに、なぜ更に求めるのか。その方が私には分かりませんよ」
「話にならん!」
足音も荒くホアキンは去っていった。彼はアントンと正反対の存在のようだった。欲にまみれて、そのためなら命だって賭けて見せる。
「色々と卑劣な人だったけれど、多分マトモなのはあの人の方なんだろうな。俺みたいに機会を掴まない者こそ、世界からは愚かに見えているはずだ」
アントンは再び目を閉じた。他にやることもなかった。ただ、仲間たちや孤児院にだけは申し訳なかったが、それも泡と消えた。
ヤーバードを信じることは良きことです。
ヤーバードのために奉仕することは良きことです。
ヤーバードの信徒として生きることは良きことです。
「ヤーバードに選ばれしことは良きことです……」
聖女レオノールは簡単な教義を口にしていた。今まで、そう信じて生きてきた。事実、彼女の周囲はそういう者ばかりだったし、富や栄誉さえもヤーバードを通じて与えられてきた。
ヤーバードの教えと力は絶対だ。レオノールもそうして見出された。
だからだろう。彼女はアントンという存在にひどく動揺していた。
アントンが悪人ならば話は簡単だった。だが、調べられたアントンの素性はむしろ善人だ。故郷の孤児院を支えるために命をかけるなど、中々できることではない。
ゆえにレオノールは彼に神命ともいえる闇の根絶を依頼しに来たのだ。しかし、帰ってきた反応は拒絶だった。ヤーバードの意思に逆らう者がいるとは想像もできなかった。しかもアントンはレオノールと同じ、生まれつきヤーバードに祝福された者だ。
なぜ、彼はヤーバードの使命を拒絶したのか。レオノールはどうしても知りたくなった。
「今日はおかしな客ばかりだ。いくらなんでも貴方が来ることは無いでしょうに」
「どうしても知っておきたかったのです。魔剣使いアントン、貴方は異なる神を信仰しているのですか」
「いいえ、孤児院育ちだし、幼馴染は尼僧見習いです。礼拝を欠かしていたことは認めますが、ヤーバード教徒と言っていいでしょう」
レオノールはその身分に見合わない牢屋までわざわざ降りてきていた。お付きとかは止めなかったのだろうか?
「ではどうして、ヤーバードの使命を拒絶したのですか? わたくしには分かりません。ヤーバードに奉仕することは良きことなはずです」
「あれは……」
ただブチギレただけだ、とも言えずアントンは自分でも理由を探し始めた。だが喜怒哀楽の感情のどれもしっくり来ない。子供のようにたどたどしく言葉を紡いでいく。
「俺、あー私は常に生まれに振り回されながら生きてきました。まあ貧しい人間は皆そうなんですがね、それが運命じみて魔剣を拾った。それで戦う羽目になったのですが、戦う事自体嫌いです。そうやって過ごす内に、特別な生まれだったから死んでこいと言われて納得はいきませんよ」
「ヤーバードは貴方が使命を果たすことを望んでいるのです。死を望んでいるわけではありません」
「では、その間に起こることは? 私が死なないと誰が保証してくれるんですか。いや、仮に保証してくれたとしても責任までは負ってくれないでしょう」
ヤーバードの使命だから死なない。仮にそうだとしても、実際に体験するのは人間だ。人間の側から神の御業が分かるはずもないし、恐怖や緊張はどうしてもついて回る。報酬があっても割に合わないという考えが生まれるのも自然なことだろう。
「私は魔剣が無ければ強くもありませんし、神の使命はそれに見合う立派な人達にやって欲しいですね。その方が誰だって安心だ。臆病で卑怯と言われようと、それが本心です」
死刑という、より確実な危険が頭をチラつこうと、アントンは言い切った。持っているものが少ない人間は時に開き直れるというわけだ。
困ったのはレオノールだ。神学的にアントンを論破するのも簡単だし、道理や感情で責め立てるのも容易だ。しかし、承知の上でとにかく行きたくないというのは子供の駄々に似て、どうしようもない。
ただ違和感はある。アントンは持っているものが少ないがために、それを捨てるのを良しとしないはずだ。彼は献身という美徳を持っている。
「……任務の成否に関わらずピンカードの孤児院に恒久的な支援を、レオノールの名において約束しましょう」
アントンは臆病でも卑怯でもない。ただ、使い捨てられるかもしれない疑心を権力者に抱いているだけだ。彼はむしろ大の字になって動かないことで、精一杯の抵抗をしているのだ。
「そして、我らが信じられないという気持ちも分かりました。ゆえにわたくしも同道しましょう」
「はぁ!?」
「確かに任務によっては貴方も死んでしまうかもしれない。その不公平さを解消するために、わたくしも一緒にいくのです」
「貴方は死ぬ必要は無いだろう!?」
「そのぐらいの代償で貴方が動くのなら、安いものです。魔剣使いアントン、得にはならないかもしれませんが、貴方が死ぬ時はわたくしも付き合いましょう」
「参ったな……」
関係ないと言った。自分にばかり荷物を背負わせられるのが嫌だった。
子供の駄々に似ているというのは間違いではない。ならばアントンが自分を騙せるだけの理由を作れば良い。
カビ臭いやり方にレオノールは自身を嫌悪したが、アントンという存在を運命に向かわせるためなら仕方がない。
「ハハハッ、いいよ。分かった。任務に従うよ。だから、貴方が死ぬ必要は……」
「いいえ、同行します。聖女たる者、一度言った約束を違えることはありません」
こちらに来てから無かった笑顔がこぼれた瞬間、アントンの口はふさがらなくなった。
前例が無いことではなかった。元々、憑依者に対抗するために聖女自身が立ち向かった例も多かった。
それを用いて周囲を無理やり説得するつもりだ。
「生まれも育ちも違いますが、死ぬ時は一緒です」
結婚の誓いのようなセリフを聞いて、アントンはレオノールを初めて美しいと思った。やけに顔を直視し辛い。照れくささを避けるように、現実の問題に話を移した。
「この任務、あてはあるのか?」
「彼あるいは彼女は現在、キスゴルにいるでしょう。闇の怪物達の存在がそれを証明しています。キスゴルのヤーバード教団の力で、潜入は容易でしょうが……肝心の敵の所在は分かりません。真っ当に考えればキスゴルの中枢となるでしょうが……」
「入ってみないと分からない、か」
最高神だけあってヤーバード教団はキスゴルでも大きな勢力だ。加えて、旅立つのは傭兵。国家間の軋轢は最低限に抑えられる。となれば、キスゴルの影の勢力が敵となるだろう。
「とりあえず……牢屋から出せるのか?」
アントンは鉄格子を握った。
魔剣カリディスの言っていたことは本当かもしれない。俺達は何かを成し遂げられる。それを信じてみるのも一興だと、アントンは思い始めていた。




