25. Galata Bridge in Istanbul
「それで、そっちはどんなものなんだ?」
ダニエルを問い詰めるように聞くと、彼は子羊のような怯えたような目をしてみせる。俺の剣幕が彼の心を遠ざけているようだ。
顎には無精髭が伸びている。俺もそうだ。顔は洗ったものの、風呂にはここ数日入っていない。顔に油の感触が残っている。
俺は息を吐き、両手を広げて危害を加えない事をアピールする。ダニエルの身体から警戒心が消えた。面倒なものだ。
今はトルコのイスタンブールのガラタ橋に居る。カイロのホテルでは金を払わず、海路でトルコまで逃げ延びた。
ガラタ橋に立っていると黒海とマルマラ海を繋ぐボルポラス海峡は潮の匂いがする。岸には天井の平たい船が停泊しており、橋のたもとには色彩豊かなパラソルが並んでいた。物売り達が往来を賑やかなものにしていて、それはのどかな船の音と相まって、日常の雑念を取り払ってくれる。
「まあ良い。食えよ。ダニエル」
「言われなくても食うよ」
俺とダニエルはサバサンドに噛りつく。白パンは柔らかく、西洋の味がした。吹き抜けた風に乱れた髪を押さえ付け、街から生えてきたようなモスクの尖塔を眺めた。橋には路面電車が走っており、軌道が対向車線を分断している。真新しい電車が通り過ぎて行った。
ダニエルはコーラで喉を潤わせた後、二つ目のサバサンドを食べ始めた。慌てて押し込む様はまるで飢えた犬のような食べ方で、唾がこっちまで飛んできそうだ。ここ数日、寝る間も惜しんで、ネットでリウの身辺を洗っている。ダニエルが持っている情報、それに武器輸送の責任者。散らばった破片を集めていると、リウの正体がぼやけながらも見えてきた。
「リウの下に居るハッカーはハンパじゃない」
ダニエルが漏らす。彼のプライドは打ち砕かれてしまったのか、どこか寂しそうな目をしている。まるで自分の居場所を失った野兎のようだ。彼は言葉を続ける。
「俺でさえがシナガワの口座を押さえるのに、半年もかかったと言うのに……」
やれやれ、そんな前から俺を狙っていたとは。
「そして、相手は二人だけじゃないと言っていたな?」
ダニエルは言葉なく頷く。散ってしまったプライドを拾い集めるには時間がかかりそうだ。
「だろうな。気にするな」
ミネラルウォーターを飲むと、向こうに見えるブルーモスクから、アザーンの響きが流れ込んできた。祈りの時間のようだ。その中に船の汽笛の音が混ざった。
リウの攻撃は確かなものだった。主だった口座は全てアウト。俺の口座と関係がある連中で金を引き出されている奴が居れば、そいつを巻き込んで、追いつめてやろうかとも思ったが、そこまで相手は間抜けじゃないらしい。手際の良さは相変わらずだ。
「お前がシナガワか?」
低い男の声。乱れた英語だ。取りこぼしそうになった。
振り向くとよれたシャツを着た男が立っていた。口ひげを生やし、眉毛は濃い。落ち窪んだような窪みの中に、油断のない目がせわしなく動いている。
「そうだ。俺がシナガワだ」
「これを手渡しにきた。言われていた金だ」
「ああ、ご苦労」
受け取った紙包みから紙幣をいくつか抜き取り、駄賃としてヒゲ男に手渡す。彼は周囲を見回した後に、丸めてポケットにねじ込んだ。
紙包みの汚れた油紙には、青のマジックで書かれた文字がある。トルコ語ではなさそうだ。
「お前はクルド人か?」
「ああ、そうだ」
言われてみれば、瞳に被害者特有の弱さの光が含まれている。
「ハワラの末端で動いていると、何かと苦労するだろう」
「仕方が無い。ドイツから引き上げたばかりで、職がないんだ。辛くても家族を養う為だ」
ダニエルが視線を男に注いでいる。興味があるようだ。好奇心まで失っていないようだ。多分、彼はまだやれるだろう。状況に負けてしまっているのなら、切り捨てるしかないと考えていた所だ。
「最近のドイツはどうなんだ?」
「俺達外国人にとっては滅茶苦茶な国だ。どいつもこいつも出て行けばっかりだ」
話が長くなりそうなので、適当な所で彼の肩を叩いて励ました。彼は無表情のまま、橋の向こう側へと消えて行った。
「なあ、シナガワ。それが金なのか?」
「そうだ。ハワラに置いておいた金だ」
流石に連中も地下銀行までは襲えない。ほとんどの財産はスリ取られたが、全てという訳じゃない。ハワラと呼ばれるイスラームの地下銀行組織に預けていた金を引き出した。
クレジットカードは緊急再発行をしている。だが、それも引き落とし日まで。残された時間に余裕がある訳じゃない。
「俺はどうなるんだ」
ダニエルは欄干に身を投げ出すようにしている。丸まった背中から、くぐもった嘆き声がした。
連日徹夜の作業を心をもすり減らせる。気力がすっかり萎えているようだ。俺でさえ、風呂に入る間も惜しんで、二十時間はVRにダイブしている。背中には疲労が溜まり、手足は鉛を入れられたかのように重い。思考に弛みが出そうになるのを、自覚しないと引き締められない。そんなザマだ。
ダニエルは喚き散らす。
「もう、俺は駄目だ。リウの言う通りにしておけば良かった」
「何を言うかと思ったら」
言葉尻を捕えて、ダニエルが体を起こした。眉根は寄せられており、そこから負け犬の臭いがする。死神が好みそうな表情だ。
「ヘイ、シナガワ。お前はそんなザマで勝てるのかよ?」
彼は歯を食いしばり、苦悶が全身から漂ってきそうだ。ダニエルの心は折れかけのようだ。後から続く言葉は泣き言ばかり。
「金も無い。何も無い。エジプトからも逃げるようにして、ここまできた。何て有様だ。どうしてリウに逆らったりしたんだ。俺まで巻き込みやがって」
言葉を手で遮って、ミネラルウォーターを飲む。唇の端から水滴が漏れたので、ハンカチを取り出し口元を拭った。
ダニエルを見ると、サバサンドで手が油まみれだ。放っておくと、またズボンで手を拭くに違いない。ハンカチを渡して手を拭けと顎でうながす。
彼が指先をハンカチに絡ませているのを見ながら、ダニエルに言葉をかける。
「ダニエル。俺は勝つのを望んでいる訳じゃない」
「何だと?」
揺すれば、直ぐに崩れてしまいそうだ。余裕の無さが必要以上に彼を追いつめているようだ。彼には睡眠と休息が必要なようだ。
「俺はリウを潰すんだよ」
呆気に取られた顔をしたダニエル。開かれた口からは何も出て来ない。ぶら下げられたハンカチが風に吹かれて揺れている。ボルポラス海峡から差し込む疾風は俺の熱を冷ますには不十分だ。
青空を雲が覆い始めた。大きく荒れる予感がした。
【Supplement】
物語中での設定や背景の説明。
【イスタンブール】
・イスタンブールの位置:Google Map
https://maps.google.co.jp/?ll=41.017729,28.971891&spn=0.038856,0.084543&t=m&z=14&brcurrent=3,0x0:0x0,1
・イスタンブールの風景(ガラタ橋):Google Map
https://maps.google.co.jp/?ll=41.018767,28.971531&spn=0.009649,0.021136&t=m&z=16&brcurrent=3,0x0:0x0,1&layer=c&cbll=41.018767,28.971531&cbp=12,0,,0,0&photoid=po-79548708
・ガラタ橋からの撮影された動画:いきなり音が大きいので注意(グロ無し)
カメラは旧市街の方を向いた後、新市街の方を向く
http://www.youtube.com/watch?v=gCTLCTYErIc
【サバサンド】
旨い。
http://allabout.co.jp/gm/gc/324652/
【ブルーモスク】
http://allabout.co.jp/gm/gc/377454/
【クルド人】
更に言語や民族で細分化できる。
第一次世界大戦前はクルディスタンという国を主張してきたが、
現在は複数の国に分割統治されている。
地理的にイラン、イラク、トルコ、米軍などの思惑の間に挟まれ、
犠牲者的な立場に居る。
なお、クルド語は表記としては、アラビア語表記、アルファベット表記がある。
・クルド人問題の歴史や概要
http://www.jiia.or.jp/report/keyword/key_0303_matsumoto.html
・近年のクルド人の扱いなど
http://glxy.info/kagyou/ku/kurd.html
【ドイツの外国人問題】
ドイツではトルコからの移住、不法労働者が多く、これらが高失業率、
治安の悪化を生んでいると、一部では問題となっている。
ただ、ドイツは国籍法を改正し、移民を受け入れていたという事もあり、
視点によって見方が変わる非常に微妙な問題。
個人的な見解として倫理では人は平等であるべきとしながらも、それを国の単位で行うのか、
国際的におこなうべきなのかという問題に帰結すると思われる。
・ドイツにおいて外国人労働者募集を行っていたが、家族の呼び寄せなど問題が出てきて、
現在は限定的な募集になっているというドキュメント。
http://ja.wikipedia.org/wiki/外国人労働者#.E3.83.89.E3.82.A4.E3.83.84
国間の経済格差が移民や移住を生み出すのは、自由経済下においては、
コスト低減などの理由で、積極的に求められている。
ただ、現地コミュニティーとの結合は上手く行っておらず、社会問題化しやすい。
・以下は移民量の統計を現す図。
右側の国は移民する側。左側の国は移民される側で、クリックする事で、
図式化できるというもの。
http://peoplemov.in




