第八話 精霊祭~祈り~
まだまだ肌寒い風が壁を沿って渦巻き、ぞくりとした感覚を素肌に伝える。
元々薄く灰色の雲に遮られていた日の光だったが、そろそろそれ自体が地平へと向かい、うっすらと暗さが地上へと降りて来ていた。
「人は自分が勝手に考えた悪い未来に勝手に絶望するって事ですか?」
「そうだ、お前も何度か聞いた事ぐらいあるのではないか?『上手くいかないんじゃないかな?』とか『どうせ駄目だろう』とか」
ライカはこの場所で生活し始めてからの事を思い出し、確かにそのような言葉を幾度か聞いている事に気付いた。
「人は何度も良くない事を経験すると、自然にその良くない事が起こるかもしれないという事を真っ先に考えるようになる。健全な者ならばそこからそうならない為の方法を考えるのだが、気力が萎えて来ると人は諦めてしまうのだ。そして絶望する」
ジャラン、ジャンと、壁の向こうから響く音楽が聴こえ、独特の響きを持つ言葉が、この場の二人にはその意味を捉えられないまま、言葉としてではなく、一つの音としてそれに添う。
「この世には絶望だけで死ぬ人間もいるし、絶望に目が塞がれ全てを無くす者もいる」
「だって、それは自分が考えただけで、まだ現実にはなっていないものなんでしょう?」
「そうだ。だが、良くも悪くも人間の、まだ存在しない物を見る力は強すぎるのだ」
ラケルドは足を組み替えて微笑んだ。
その笑みに、ライカはほっとして、自分も緊張していた体を寛がせる。
「だが、人間は大人しく絶望に食われているばかりではない。時に弱き者すらそれを跳ね除ける力を持つ。それが“望み”という力だ」
「領主さまが大事にしているものですね」
ライカの言葉にラケルドの笑みが深くなった。
「人間は望みを持つ。こうなったら良いなと、こうであるべきだと、な。それは絶望に比べれば弱弱しい小さな光だが、人はそれを頼りに見えない明日へと進む。更にそれが強く作用したものが祈りだ」
「祈り」
「そうだ、自分の力のみでは左右出来ない事柄をより大きな力、大きな流れに託す為の行為だ。例えば今そこででっちあげられていた英雄様とか、誰も出会った事のない偉大な精霊、神様とかに対するものだな」
「このお祭りもそういうものなんですか?」
「と、俺は思っているがね。まあ、実はどこかに本当に偉大な神なる者が存在しているのかもしれんし、そいつは会った事もない人間の願いを聞いてくれているのかもしれん。俺が知らないだけでな」
はははとラケルドは笑う。
「ここに英雄が本当に存在したように?」
「俺は英雄ではないよ。ただの諦めなかった人間だ。どうしても諦める事が出来なくて足掻いた挙句にここまで来た。俺だって望みの力がなければ前へ進めなかっただろう」
揶揄するでもなく真剣に聞いたライカに、ラケルドはそう答えた。
「どこかにこことは違う世界がある。これが本当の人間の生き方であるはずがない。俺はずっとそう思い続けていた。見渡す風景には必ず人間の死体が転がり、理由もなく誰かが誰かを殴る。振り返ればそこらの道の端で小さな子供が転がっていて、その目は時々瞬きをする事で生きていると分かっても、その体には虫がたかっていて、あちこちにある傷口から体の中にまでそれが入り込んでいる。……本当に恐ろしいのは、そんな風景を誰もが当たり前で、気にするようなものではないと思っていた事だ。理由もなく生まれて、苦しんで生きて、理由もなく死ぬ。誰もが同じ未来を見て同じように絶望している。そんな世界が本当だとは思いたく無かったんだ」
ラケルドの言葉は淡々としている。
あの己を失った老人と同じように、熱を伴わない遠い過去の幻を目前に見ている者の目をしていた。
「酷いですね」
「あれが酷いと思ってくれる人間が俺は好きだよ。この国の人間の殆どはそんな酷い世界を想像すらしないだろう。だがそれでいいんだ。人と人が顔を見合わせて笑う事が殺し合いの合図ではなく、小さな幸福の証である事が当たり前な世界を見たかったんだ」
ふいにまた、壁越しの男の声が高まりを迎える。
「ご照覧あれ!神よ!
あなたのお心を受けし英雄が偉大なる地上の王と共に誓いしこの時を!
今、この時に咲き誇りし地上の華を!世界の歓喜のきらめきを!」
セタンの情熱的な響きがその声の余韻を引き継ぎ、高みに押し上げられた音はやがて一際力強い音と共に断ち切られた。
半拍の間を置いて、人々のどよめきが大気を震わせる。
「どうやら語りが終わったようだぞ、俺の話ばかりでろくに聞けなかったな。悪かった」
ラケルドは本当に申し訳なさそうな顔をしてライカに謝った。
「いえ、領主様のお話を聞けて良かったです。とても為になりました」
そのライカの生真面目な顔を見て、ラケルドはふと遠い目をして笑う。
「俺もそうやって礼を言ってたっけな」
問うような眼差しに、ラケルドは頭を振った。
「いや、俺の子供の頃の話さ、色んな人間に話を聞いて回っていたなと思ってな」
「領主様も?」
「何かを知るには他人に聞くしかなかったからな。……ああ、さて、もう日が落ちてきたぞ。せっかくの祭りを俺とこんな隅っこでこそこそ過ごしても仕方あるまい。そろそろ覚悟は出来たんじゃないのか?」
「う、そうですね」
ラケルドに祈りの話を聞いたからか、ライカは自分の着ている衣装をそれ程恥ずかしい物だとは思えなくなっている。
人が絶望を振り払う為に色鮮やかなこの衣装に願いを込めているのなら、それは決して恥ずべき事ではない。
来た道を逆に辿りながら、そういえばと、ライカは疑問を口にした。
「さっきの語りですけど、あれってまだ話の途中じゃありませんでした?英雄と王様が出会って誓いをする所までしかなかったですよね?」
「なんだ、ちゃんと聞いていたのか。あれは彼等の商売なんだ」
「商売?」
「そう、わざと気になる所で切って続きは明日という風にする。そうすれば続きを聞きたい人は多めに金を払うし、色々奢ったりする人間も出るだろう?」
「ああ、なるほど。そういえば終わった後、滞在に費用が掛かるとか、今夜良い酒を飲まないと明日は良い声が出ないとか言ってましたね」
「上手いやり方だろ?」
「芸人って代金は見る人次第なんですよね。それなら確かにそういうやり方が良いですね。そういえば女の人が自分の家に来てくれればとびっきりの料理と酒と寝床を提供するって言ってましたよ。宿代や食事の代金も浮くし、有り難いでしょうね」
「美人なら最高だろうな」
「俺はご飯が美味しい方がいいと思いますけどね」
「それは子供だからだ」
「まあ子供ですけど」
膨れっ面で壁を抜け、城の外に出る。
「ははは、無邪気に祭りを楽しめるのも子供ならではの特権なんだから、子供らしく楽しんでおいで」
「う、はい。領主様、長い間相手をしてもらってありがとうございます」
「こちらこそ、可愛らしい姿で楽しませてもらってありがとう。それなら本当に精霊が引っ掛かるかもしれないぞ」
あははと乾いた声で笑って、ライカは領主と別れて水路の方へと向かった。
「合図があったら水路に行くんだぞ、見逃すと勿体ないからな」
「はい、本当にありがとうございました」
振り返って、再びぴょこりと頭を下げ、ライカは目前で踵を返すラケルドを見送る。
城の裏手に向かうその姿に、ラケルド自身は祭りを楽しまないのだろうか?という疑問も沸くが、彼は領主なのだからそれなりに仕事が忙しいのかもしれないと思い直した。
日頃自由奔放なようで、実際は忙しい身のはずなのに自分に付き合ってくれたのだと思うと、感謝の気持ちが再び湧き上がって、もう一度見えなくなった姿に頭を下げる。
ライカは、そのまま今度は堂々と人混みに向かって歩いた。
色々な匂いと、人の声と何かの音。
全てが拡散して渦巻いている。
しかし今度は前のように意識がぶれる事もなく、一人一人の表情やテントで売られている物を楽しみながら歩けた。
時折、通りがかりに、「お、精霊を招く乙女か、大物をとっ捕まえてくれよ」等と赤ら顔の男に声を掛けられたりもしたが、心にそれを楽しむ余裕が生まれてもいた。
「乙女に」
道の端でセタンを抱えて座っていた男が、杯を掲げるとそう呟いて歌を歌い始める。
「雪の止んだある日、大地の精霊は最初の花を探して世界を巡る。
春の言祝ぎと恵みの約束、
ならば彼の者よ乙女を見よ」
ライカは一瞬足を止めたが、最後まで聞くとお金を払わなければならないと思い、慌ててそこを離れる。
手持ちの資金は少なかったし、出来れば何か食べる物を買いたかったのだ。
「命の赤と大地の黄色、それを纏いし乙女は無垢なる者。
未だ罪を犯す事なく、未だ欲の飢えを知らず、差し伸べし手は白く輝く」
遠ざかる歌をなんとはなしに聴きながら、少し悪かったかな?とは思いはしたが、ライカは良い匂いのする大きなテントを目指した。
「偉大なる者よ、その手を拒む事なかれ。
我等、祝宴にぞ御身を招かん」
そのテントの周りは、買い食いする人間が溜まっているせいか、人の動きが緩やかで、ぽつりぽつりと空いた空間に座り込んで飲み食いしながら歓談している人々の姿も見える。
「飲み物も売ってるのかな?」
ライカが考えながら懐からお金の入った物入れを取り出そうとしていると、ふと、何か強烈な意識が自分を捉えた感触を感じて手が止まる。
『ライカ』
ぎょっとした。
それは決してここで聞くはずのない声であり言葉である。
咄嗟に振り返ったライカであったが、そこに求める姿はなかった。
ただ、そこには一人、恐ろしい程に周囲から浮いている『人間』がいる。
青の光を弾く銀色の髪、濃く深い紫紺の瞳。
この辺りの服装からすると微妙に違和感がある丈の長い上着と裾の膨らんだズボンは、濃紺に白い縁取りと銀糸で何かの模様が縫い取られていた。
その人間の周りの大気は、実際に重さを持っているかのように濃く、僅かに陽炎じみた揺らぎを作り出している。
どこをどう見ても、ライカにはその相手に見覚えがないはずだった。
しかし、同時に、とても良く知っている相手であると意識の奥で何かが囁く。
『こりゃまた、その名の通りリャヤ・カムのようだな』
リャヤ・カム(小さな花)とライカ(花となるもの)はその語源を同じくする竜の言葉だ。
『えっと、もしかして』
ライカは無意識に、音として発する言葉ではないもう一つの言葉、心声を発していた。
相手はさっさと近付いて来ると何のためらいもなく互いの目の下を擦り合わせる。
途端に途切れていた輪が復活した。
ライカの中の沢山の感覚がクリアになる。
『会いたかったぜ、暫く見ない内にえらく華やかになっちまって、発情でもしたのか?』
『えっ?やっぱりサッズなの?』
色々と混乱したまま、やっとライカが言葉に出来た名は、懐かしい家族のものだった。




