第六十九話 警鐘
混沌とした夢と現の狭間に音が聞こえた。
―…カン……カン、カン…
とても硬い、しかしあまり厚みはない物を叩く少し高めの音。
この街の人間にはすっかりと耳に馴染んだ音だ。
それは人に刻を告げる物。
しかし、今、その鳴らされる調子は連続で強く、早く、何かを急かされているような気分になる。
『急げ!急げ!』
「ライカ!」
びくりとしてライカは跳ね起きた。
夢と現実、両方から一遍に怒鳴りつけられたような感じがして、胸の内の鼓動が通常の強さを越えて体内で鳴り響いている。
「ライカ!起きろ!警鐘じゃ!城へ行くぞ!」
「え?なに?」
ライカは慌てて起き上がったが、意識の方はまだいつも起きる時間ではない、睡眠が足りないと訴えていた。
その半ばぼんやりとした状態で窓へとふらふらと歩み寄り、覆い戸を開いて外を見る。
夜明け前の真の闇。
その向こうに見える赤い光は無論太陽ではなかった。
「ジィジィ大変だ!火事だよ!森の奥の方が燃えてる」
「そうか、今回は訓練じゃなく本番という事じゃの。こんな時間に訓練とかほざきおったら一刻ぐらい説教を食らわせねばならんと思っておったんじゃがな」
「え?訓練って?」
ライカは目を擦る、火事とはいえまだ遠い森の奥だ、それほどの危機感は寝起きの頭にはない。
しかし、警鐘と祖父が呼んでいた急き立てるような鐘の音は続いているし、外の通りには人の声が増えてざわめきが聞こえ出していた。
「いいから降りて来い、急げ!」
鐘と共に急き立てる祖父の声に、ライカは慌てて夜着の上に単衣を被り、ベルトを締めると木靴を履く。
床の降り口を開くと、梯子を使わずにそのまま飛び降りた。
「自分の椀と匙を忘れるな、城へ急ぐぞ」
「椀と匙?ご飯?」
「椀はあっちにもあるが匙は無ければ手で食うしかないからの、急ぐと火傷しかねんし、冷めるのを待つと美味くないんじゃ」
ライカの疑問は増えるばかりで答えが全く返ってこない。
「ほれ、急げ!」
「う、うん」
その慌しさにとりあえず答えを得るのを諦めて、ライカは祖父と共に家を出た。
「急げ!分かってると思うが先着の十家族はお楽しみのおまけが付くぞ、反対に半刻以上遅れたら褒美は半分だぞ!」
ざわめく暗闇の中、声が響く、それが誰のものであるかライカには分からない。
祖父が手持ちのランプに火を入れようとして立てる、カチカチという石の打ち合う音が聞こえた。
「俺がやるよ」
そう言って祖父から火打ち石を受け取ろうとした時に、ふと気配を感じて後ろを窺う。
「火種を移しますよ」
先ほど叫んでいた声だ。
姿を見ると警備隊の人間らしい。
「火事か?」
尋ねて、ライカの祖父、ロウスが目を眇めて相手を確かめようとするが、この暗さではさすがに相手の姿はロウスには全く見えないはずだ。
相手の持つカンテラは周囲を照らす用ではなく、指向性を持つ夜警用で、周囲を照らす灯りとしてはあまり役に立たない。
だが、ロウスも先ほどの声で相手を察したのか、情報を求めて問いを発していた。
「はい、森の南の奥の方ですから大丈夫だとは思いますが念の為です」
「ふん、あそこらは油松の多い所じゃ、油断すると大変な事になるぞ」
「肝に命じて、助言ありがとうございます」
その礼儀正しさから彼が風の班ではないとなんとなく分かってしまう。
失礼な話だが風の班だとそこいらで酒を飲んでいる兄ちゃんとあまり変わらない言動なので一目瞭然なのだ。
そこは班を率いる長の影響力の大きさに驚くべきなのかもしれない。
「おんしは水か、鎮火には風が当たっておるのか?」
「はあ、よくお分かりですね」
「風の連中は行儀が悪いが力技向きじゃからの、特にあの化けモンならなんとかするじゃろう」
「はは、お願いですから本人の前で言わないでくださいね」
「バカを言え、本人に面と向かって言っておかないでどうするんじゃ、自覚のないまま他人を自分の力量と同じように考えて対処されたらどうする?化けモンには自分が他人と違う事をちゃんと自覚させとかなきゃならんのじゃよ」
ランプに灯が灯りぼぅっと狭い世界が形を成した。
ライカからすれば逆にその明かりが視界を奪う。
祖父の雑言にすっかり閉口したのか、或いは慣れているのか、その警備隊の男は火種を移すとそれ以上強く注意する事もなく、軽く礼をしてその場を去った。
「ジィジィ、さっきのって風の班のザイラック班長さんの事?」
周りに同じように城へと向かう人が多く居るのは分かるのだが、彼らの持つランプの明かりが小さい為、それぞれの判別が付かない。
皆が手に持つ灯りが暗闇に浮かび上がるその様は、さながら夏の光蟲の群れのようだった。
「ああ、女にもてないんでワシを逆恨みしておる馬鹿もんのことじゃな」
「うん、ジィジィと班長さんがなんだか仲が良いのか悪いのか良く分からない間柄なのは知ってるよ」
「仲が良い訳ないじゃろうが、いかに可愛い孫とはいえ、ワシを貶めるような事を口にするのは許さんぞ」
「じゃあ仲が悪いって事でいいや、班長さんが火事を消しに行ってるの?」
「まぁそうじゃろう。だが、消しにというのはちょっと違うの、人の手で森の火事を消す事はまず無理じゃ、わしらに出来るのはその火を街に寄せない事だけじゃよ」
「火を寄せない?」
「そうじゃ、お前は気付いていなかったか?街の周りに百歩ぐらい木や草の全くない場所が囲んでおるのを。あれは防火用の緩衝地じゃ」
「うん、それは警備隊の人に聞いた事があるよ。あそこに燃える物を置いたら罰金だって言ってた」
「そうじゃ、森では時々火事が起こる。それは森の世代交代の儀式でもあって、人の手でどうこう出来るもんじゃない。しかし、それに人が巻き込まれてはたまらんからの、それを防ぐにはどうするかというと、火と街の間から燃える物を排除すればいいんじゃよ」
「燃える物って、木や草をどかすって事?それって凄い時間が掛かるんじゃない?」
ライカがそんな話をしながら祖父と並んで歩く内に篝火を灯した城門が見えて、そこに人々が集まっている様子が分かって来る。
並んだ人は歩哨と軽く何か言葉を交わし、何かを受け取って中へと入っていた。
それがどんなやりとりにせよ、それが流れを阻害する事は無かったようでほぼ遅延なく列は動いている。
篝火の大きな灯りに照らされたくっきりとした人の姿を見て、ライカは少しホッとすると同時に身を震わせた。
この時期にはいささか薄着過ぎる格好だったので寒さがじわじわと身の内に広がって来たのである。
「寒いんじゃろう、ほれ、これでも被っておれ」
祖父は自身の皮の帽子を取るとライカに被せた。
「ジィジィが寒いだろ」
「子供が遠慮するな、なに、中にでかい焚き火があるんでな、ワシはそこでのんびり酒でも飲むから大丈夫じゃよ。どうせお前はあちこち見て回るつもりじゃろうからな」
その帽子には耳当てが付いているので、感覚の無くなりかけていた耳が温まる。
鹿皮を使った祖父の自慢の帽子だ。
ライカは固辞するのを止めて祖父に微笑んだ。
「分かった。ありがとう、すごくあったかいよ」
「そうか、良かったわい」
彼等が列の最後に並んだ時、薄い地響きが足元を震わせ、人々が一様にぎょっとして顔を見合わせる。
やや遅れて、バキバキバキドーン、という生木が倒れる時の独特の音が彼方から響いて来た。
びっくりして振り向いたライカの目に、火事の明かりの中、街の壁越しに望める森の木々の頂である黒い影が、櫛の歯が折れるように倒れていく様が映る。
再び軽い振動と遠くから響く音。
「木が倒れていく。なんで?」
「やれやれ、化けモンも使いようって事じゃな。おっとろしいわい」
「あれってまさか班長さんがやってるの?」
先ほどと今の祖父の言葉を繋げて、ライカは信じ難い思いで尋ねた。
「そうじゃ、あやつが切り倒しておるんじゃよ。まぁ領主様も竜で出ていらっしゃるじゃろうが、あそこまで軽々と倒すのはあやつのみじゃ」
「切り倒すってまさか剣で?あそこらへんの木ってほとんどが大人3人ぐらいで囲めるぐらいの大木だよ?それにジィジィ、剣ってナイフと違ってものを切るようには出来てないって言ってたよね」
「獣ならともかく普通は木は伐れん。そんな真似をしようとすれば折れるじゃろう。だがあやつは斬るんじゃよ。おそらくあやつはそれが岩だろうが断ってみせるじゃろうな。じゃからあれは化けモンじゃというんじゃ。いいかライカ、いかにあやつが人間らしく振舞っていても絶対に気を許しちゃならんぞ。あれは到底まともな人間じゃない。本人とてそれを分かっておるが、一方で普通の人間の感覚が良く分からんのじゃよ。悪意がなくとも猛獣は軽く腕を払うだけで人間なぞ簡単に傷付ける事が出来る。あれはそういうモノなんじゃ」
微かに触れる祖父の真剣な意識に押されるように、ライカは頷き、だが、一言言い添えた。
「でも、分かっていればちゃんと普通に付き合う事は出来ると思う」
祖父はすがめていた目を見開いて孫を見た。
その顔に言いようの無い笑みが広がる。
「お前は果敢じゃの」
「街の人達だって普通に付き合っているんだから、俺にだって普通に出来るってだけだよ」
「なるほど、人は竜さえ手懐ける生き物じゃからな。そう考えればそもそも人間は果敢な生き物やもしれんの」
そのまま地響きは続いたが、最初は驚いて彼方を見ていた人々の関心もやがて目前の城内への入城手続きへと流れた。
異常さは確かに人を怯えさせるが、それが常態になれば恐れは薄れる。
ライカは無意識にベルトに据えられた飾り刀を指でなぞった。
異常と言えば、古き竜の力はその最たるものだろう。
進む程にやや興奮状態の人々のざわめきが城内からはっきりと聞こえてくるようになった。
彼等の頭上では未だ警鐘が鳴り響いている。




