番外編:竜の子供
白の竜王が赤い仔を拾った話
その人間の街にその日彼が降り立ったのは、取り立てて理由があったからではなかった。
彼としてはいずれ訪れたいと思っていて、近くを通る機会を得たので寄ってみただけの話である。
敢えて言えば、乾いた大地を貫くように流れる大河の周辺に大きな国が興った事を噂で聞いて、いつものごとく強い好奇心が沸き起こっただけの話だ。
人間は不思議な生き物だとつくづく彼は思っていた。
その祖であるダーナ族と外見は似ているが、あの凶悪なまでの変動の力を持たず、ただその脆弱な身体的特徴だけを受け継いだ種族。
当初は、彼らはただ他の種族に狩られるのみのか弱い獲物であると、大多数の狩猟種族からは思われていた。
だが、驚くべき事に、やがて世界を覆い尽くさんとするかのように繁殖し、文明という種族的な能力によって地上を席巻したのは、その脆弱だったはずの種族であったのだ。
一度ならずも彼らと深い関わりを持った経験のある彼、白の竜王たるセルヌイは、飽く事のない強い興味を彼らに対して抱いていた。
人間達が次から次へと紡ぎ出す創造の産物、特に、彼らが空間を越えて他者へと何かを伝えようと文字なるものを作り出した事に、震えるような感動を覚える。
個であり、同時に個ではあるまいとする生物、他の熱い血を持つどの種族よりも、その有り様は群れを作る昆虫の方に似ていると言う者もいた。
だが、そうではない。と、セルヌイは思っている。
昆虫は理にかなった完成された姿を持つ生物だ。その有り様もある意味完成されている。
だが人間は、呆れる程脆弱で、そのくせ恐ろしく貪欲で、常に何か新しい物を求めていた。
その姿さえ、不安定で未完成で脆い。
まるで幼児がそのまま成体になったかのような生物。
未完成であるがゆえに、いずれ完成される未来を貪欲に求め続ける生物。
それが彼の人間に対する認識であった。
― ◇ ◇ ◇ ―
都市へと入る為の整備された街道へと降り立ち、門を潜って人の喧騒を感じ取ると、彼は、まず周囲の匂いを確認する習慣が付いている。
人間の都市というものは大概鼻をつく異臭にまみれているものであるが、この都市は乾いているせいか、他に比べて不快な匂いが薄かった。
何よりもその事にほっとしながら、セルヌイは人間の姿にゆったりとした布を巻きつけた現地の者に近い出で立ちを、体の周りを取り囲むように存在する力場を物質として形作って見せ掛ける。
布というのは人間の創造したものの一つで、彼らが外界からの刺激に弱い体表を守る為に作り出した取替えの利く仮の外皮だ。
人間の創造物を収集する事に並々ならぬ情熱を持つセルヌイは、当然、人間の作り出したそれら体を覆う為の布をいくつか持ってはいたが、この土地向けの物はまだ入手していないので、現在はそうやってそれらしく見せ掛けるしかない。
人間の社会ではとにかく異分子と思われる事が一番危険でやっかいな事だと学んでいたので、彼はこういった現地への適応については、色々と臨機応変に対応出来るだけの知識を培って来ていた。
とはいえ、いくら人に似せても、その特出した容姿からどうしても他者から浮いてしまう彼ではあったが、彼自身が編み出した、ちょっとした理の条件を変化させる技によって、他人が自分に注目しないようにもしていたので、目立ち過ぎる事もない。
完全に姿を消す事も力さえ使えば簡単ではあるが、それでは肝心の買い物が出来なくなってしまうので意味がないのだ。
「活気があるな」
雑多で混沌とした思考と熱気。
発展の途上にある都市という物は基本的に皆似通った空気を持っている。
穏やかさは鳴りを潜め、そこかしこにピリピリとした緊張した気配があり、常に誰かが誰かを出し抜こうとして意識を研ぎ澄ませていた。
彼は竜族にしては穏やかだとか、酷い時には竜珠に瑕が入っているせいで腰抜けなのだろうとか同じ竜族には言われていたが、それでものんびりと穏やかな風情よりも、雑多な危険を孕むこういう雰囲気の方が心身に馴染む。
とは言っても、実際、人間社会に在って彼にとって危険なものなどそう有りはしないのだが。
セルヌイは、複雑に立ち並ぶ幌に覆われた店を流し見て、目的の店を探した。
彼の目的は言わずと知れた書物である。
乱暴に言うなら何がしかの素材に文字を配した販売物であれば良く、そういった物を求めていた。
だが、ここの文化ではどんな素材がそれに当るかがまだ分からない。
なにしろこの都市で使われている文字すら今の段階では不明だった。
建物や人の身に付けているものにそれらしき物は見えない。
しかし、彼の経験からすると、このような交流を主目的とする都市に文字を使った販売物が無いとも思えなかった。
「問題はその文字を記す媒体が何か?という事だな」
素材が手に入り難い物、加工が難しい物が媒体になると、それは一般の自由にそこらに溢れているような人間の場所では普及していない事が多い。
それら貴重な記録物を取り扱う必要や能力があると思われている地位に在る者だけが、専有して扱っている場合があるのだ。
セルヌイが注意深く人々の様子を窺い、探し物を意識しながら視線を動かしていると、ふいに視界に違和感がある事に気付いた。
「?」
歩を止める。
それは何らかの、理を動かしている気配だ。
しかし、それは彼自身が使うような焦点を絞ったものではなく、周辺にぼやけて広く散り、捉え所が薄い。
彼の感覚に添って言い表すと、いわば局地的な霞が掛かっているような感じだった。
セルヌイは意識をその違和感に合わせるように広げた。
するとその根源は直に引っ掛かった。
なにしろそれは同族の気配だったのだ。
立ち並ぶ人間の店に、行き交う人々、その中にそこだけ霞に包まれた場所がある。
だが、そこに佇む姿は、気配はあれどはっきりとは確認出来なかった。
「女性ではないようですね」
セルヌイはふむとその謎の存在を分析する。
女性の竜であればその発する気配は独特の物があり、近くに在れば気付かないはずがなかった。
男の竜にとっての女性の同族の気配は、蜂や蝶にとっての蜜のような物で、己の精神が自らの制御を離れて激しく高揚するのである。
だが、そこにそういった類のものは無かった。
しかし存在するのがもしも同性となるとやっかいである。
男の竜同士となると、遭遇すると争いを引き起こしかねない。
本来争うつもりがない場合は、いきなり殺し合いになる危険を避ける為に先祖が生み出した色々としたしきたりはあるものの、それが若い、伴侶を探して彷徨っているような竜だと、問答無用で襲ってくる場合もあるのだ。
それ自体に問題はないが、セルヌイとしてはその結果としてこの人間の都市を破壊してしまいたくは無い。
ゆえに相手を慎重に見極める必要があった。
しかし、相手との間に何か空間的な相違があるらしく、相手が居る事は分かるものの接触が全く出来ない。
他者に揶揄される程穏やかな性質のセルヌイも、やはり考えるよりも行動するのが得意な竜族だった。
結局、彼はあまり深く考える事もなく、手っ取り早く強硬手段に出る事としたのである。
セルヌイは、周りの人間の視界から自分を消し去ると、その違和感のある空間に向かって手を伸ばし、その内部へ単純で純粋な力そのものを叩き付けたのだ。
「モグラ獲りのやり方ですけどね」
彼が人間の中で暮らしていた時に覚えた細々とした事の中に、地中のモグラを退治する為に、彼等のトンネルに穴を開け、大音量の爆発を起こして気絶させるというものがあり、彼はそれを覚えていたのである。
その結果はすぐに現れた。
相手と自分を隔てていた淡い、しかし強固な壁が崩れ、元凶が姿を見せたのである。
だが、そこからふらりと現れたのは、想定外の、真紅の少年であった。
人化してはいるが、それは明らかにまだ親の手が必要な雛だ。
それを目にして、これは更に事が面倒になったと彼は思った。
雛に攻撃(らしきもの)を仕掛けられたとなれば親が黙っている訳がない。
竜の親は子の危機には敏いのだ。
もはやセルヌイのちょっかいに怒り心頭で急行して来るのは時間の問題だった。
こうなってしまっては、この都市はもう諦めなければならないかもしれないと彼は覚悟したが、案に相違して親は現れず、その上その雛の様子はおかしかった。
なにやら呆然としたように突っ立ったまま、微動だにせずに彼を見ている。
「お母さんはどうしたのですか?」
とりあえずセルヌイはそう聞いてみた。
相手がどこの巣の出だろうと雛を邪険に出来る成竜はいまい。
成体の竜が雛を保護するのはほとんど本能のようなものだ。
しかし、その赤い少年は彼の言葉を理解しているのかどうかも分からない状態で、先ほどと同じくただ佇んでいる。
近くにいるならとっくに駆け付けているはずの親も未だ見当たらず、セルヌイはその、ぼうっとしたままの雛をとにかく人間の都市の外へ移動させる事にした。
先ほどのおかしな空間以外姿を隠す術も知らないのか、周囲の人間が、呆然と佇むやたら目立つ容姿の上にボロボロの衣服の少年に注目し始めている。
放っておけばなんらかの騒ぎになるのは確実で、いくらなんでも幼い相手をそんな面倒に晒す訳にはいかないだろうとの判断だった。
「仕方ない」
乱暴だが、セルヌイは少年に話しかけようとしている人間や注目している人間の意識を纏めて眠りの状態に落とし、ごろごろ転がる人間達の間を縫って、少年に近付き話し掛ける。
「坊や、こんにちは、初めまして。私はセルヌイ、混沌から続く血脈の末、白の竜王と呼ばれる者です」
反応がない。
明らかに何も理解してない相手だが、セルヌイは一応簡易の名乗りを上げた。
意味があってもなくても礼儀というものである。
そのまま竜同士の挨拶であり、意識の交流手段でもある目の下の交感帯の擦り合わせを行い、輪を接触させようとしてセルヌイはまたも驚く。
(この子供、輪に属してない)
それはこの雛が孤児であるという証拠だった。
顔を顰めた彼とは逆に、意識が触れた瞬間、少年はまるで今目覚めたかのように意志を持った眼差しをセルヌイに向け、何かを確認しようとするかのように彼の匂いを嗅ぎ始める。
「基本的な学習すら出来てない。どうやらかなり幼い時分に親を亡くしたのですね。とにかく一緒においでなさい、自分の意思を伝える方法は知らずとも私の言っている事は分かるでしょう?」
竜の糧であるエールが薄い今の時代、母親が子供を育て切れずに死んでしまうのはよくある事だった。
親が死ねばその子供は普通はそのまま飢えて死ぬ。
彼ら天上種族と自称する前時代の生き物達が滅びに瀕しているのも大部分がその、環境の変化ゆえの子供の育ち難さのせいだった。
しかし、どうやらこの子供は、その危うい時期をなんらかの方法で生き延びたらしい。
これは多分に竜という種族の本能的な事なのだろうが、成体の竜は幼体に対する強い庇護欲求を持つものだ。
なので、セルヌイとしてはここでこの少年を放置して自分の嗜好である知識欲を優先させて買い物に戻る事など論外であったし、育児経験皆無の身としては、だからといってどうして良いかの判断が出来るはずもない。
結果として育児経験豊富な年長者に相談するしか無いという結論に達した。
そんなセルヌイの決意など知らぬげに、その少年はというと、未だセルヌイの匂いを嗅ぎながらも、どうやら彼に付いて来るつもりにはなったらしい。
あまりはっきりとした感情の伺えぬ顔で、じぃっとセルヌイを見上げながらもその差し出した手を取った。
セルヌイは相手を驚かせないように注意しながら、しかし周囲からは不可視になるように自分達の周りにある種の空間の壁を作り出して都市の外へと出る。
途中に垣間見える人の暮らしの風景を目にしても、少年の気が逸れる事は全く無かった。
様子からして、この子供は長くこの都市に棲んでいたようだが、人間と関わりを持たずに生きて来たらしい。
どのようにすればそれが可能なのか彼には分からなかったが、先に見た、あの不可思議な空間を常に纏っていたのなら、もしかすると有り得る事なのかもしれなかった。
しかし、学習の度合いと見た目年齢から察するに、彼が孤児となってからかなりの歳月が経過しているのは間違いない。
その間の食事はどうしていたのかが不思議だった。
幼竜の食欲は恐ろしい程である。
放っておけば野牛の群れなら大きいものでも二日もあれば食い尽くす程だ。
母親の与える母乳が無いのなら尚の事、その身の奥から常に力の補給への欲求である飢えが湧き上がり、それを満たさなければ枯れ果てて死んでしまう。
他の種族はともかく、それこそが竜であり、彼らの種族が子供の養育に命を掛けなければならない理由でもあった。
親か子、どちらかが滅びなければならないのなら子の為に親が死ぬ。
具体的に言えば親が子の食料になる事が当たり前のように考える。
竜というのはそれを当然とする種族なのだ。
「まぁ今ここに生きて在るのですから、細かい事は別にいいでしょう」
セルヌイは結論の出るはずもない思考を止めて、十分に都市から離れたと判断すると、本来の姿に戻る。
白銀の鱗が日の光を浴びて煌き、その身近では周囲の景色が光に霞んで見えないという現象を起しながら、巨大な竜体を地上に顕現せしめた。
「!」
真紅の、鮮やかなその髪を、竜の顕現による空間の質量差に伴う風圧に翻して、少年が驚きに固まり、次の瞬間、同じく竜体に変わる。
「おや?」
そのあまりにも簡単な変化に、セルヌイは戸惑いつつも、それこそがこの少年が本能任せに生きて来れた証でもあると理解した。
相手の姿に刺激されて、本来の姿に戻るなど、それこそ反射的な動作のようなもので、まともな思考が出来る状態ならばもう少し考えるはずである。
セルヌイ自身の半分もない、いや、それどころか彼の前肢の先程しかない体躯の竜の雛は、人間の時に印象強かった髪と同じ体色の燃え盛る炎のような色で、まだその鱗は柔らかく、滑らかに輝いていた。
「地竜族の火竜ですか」
竜族は主に地竜、飛竜、水竜がいて、その中でも血筋で色々な特徴を持って細分化している。
竜は元々肉体を持たなかったせいでその姿を変えやすく、その為その見掛けは多様化した。
セルヌイ自身は自分でも名乗ったように地竜の内の混沌の血筋で、基本的に地中の闇に潜む事が多いとされる隠棲の性質持ちだ。
対してこの雛は地竜の中でも最も気性の荒いと謳われる火竜の血筋と見て取れる。
セルヌイの一族は地中の鉱物に縁が深い為、鉱物がそうであるように色々な体色を持つ者がいるが、火竜の一族はほぼ皆赤い。
その色こそは地中の火のような内面の猛々しさのせいだとも言われている程に、酷く攻撃的な一族なのだ。
「私の手に負えない予感がひしひしとしますね」
愚痴るものの、だからといってその子を放置するという考えは浮かばない。
「キャウ!キャウ!キャウ!」
己の考えに沈んでいたセルヌイは、足元に縋って来る雛の勢いに思考を破られた。
両の翼を細かく震わせ、首をもたげて鳴き縋る様子は、雛が餌を催促する時の行動だが、どう見ても幼年期の半分を既に超しているであろうこの雛には幼すぎる行動である。
どうやら竜の姿を見た事で幼児退行を起してしまったか、彼を母親と錯覚したかであるようだった。
「キャウ!キャウ!」
その動作は、本能に訴え掛け、竜が成体になると安全の為に封印する感情を、封印を脅かす程に強く揺り動かす。
その火竜の雛は、必死に彼の頭に向けて鳴き掛けて来る。
母親の授乳は口の中で行われる為、それを求めているのだろう。
だが、セルヌイに乳を与える事が出来るはずもなく、深く困惑する以外ない。
竜の乳は母親の血から体内で精製されるのだという知識はセルヌイにもある。
しかし、だからと言ってその代わりに自らの血を、という訳にはいかないのだ。
なにしろ竜族の血は、その体内から出ると結晶化して、決して砕けなくなってしまう。
気軽に子供の栄養に出来る代物ではないのである。
もしどうしても与えようと思うのなら、その体ごと食わせてやるしかないのだ。
しつこく鳴き縋るその雛を、セルヌイが仕方なくひょいと嘴に銜えると、びっくりしたのかその子はやっと鳴き止んだ。
「色々と常識外な子だが、巡り合ったのも何かの縁でしょう。お前を綻びなく我が輪の内に迎えます。名を受けるが良い。赤き深遠のきざはし、『エイム』、天空に吹き上げる焔の名を」
ぴくりと、その雛は身を震わせると、セルヌイの顔をしげしげと見て、一言「キャウ」と鳴いた。
どうやら受け入れたという事らしい。
「やはりこれは運命という物ですか?王に転身はしても、番う事も子育てをした事もなかったツケが今になって回ってきたのでしょうね」
酷く人間臭い事をぼやきながら、その翼を空に振るった。
ふわりと一瞬の滞空の後に満ちた力が、強くその巨体を押し上げる。
「キュウ、キュウ」
「まぁ大体の言いたい事は分かりますが、とにかくまずは言葉を覚える事から始めましょうね。なに、うちには竜族の中でも古参中の古参がいるんで、足りない知識は彼に埋めて貰えば良いでしょう」
セルヌイに口から離してもらうと、その元孤児の竜、エイムは、ジタバタともがくように体をうねらせた。
天の一部を切り取るように飛ぶ白銀の巨体のその下で、真紅の小さな竜が必死に翼を動かしている。
その姿は端から見る分には微笑ましいものだ。
尤も、竜を見て微笑ましいなどと思うようなのんき者がいればの話だが。
「いいですか、翼で飛ぶのではないのですよ。あなたにだって分かるはずです。竜なんですから」
「ウー」
「唸ってどうしますか、自分で飛ぶと言ったのでしょう。それとももう一度銜えましょうか?」
「キュウ、キュウ」
「はいはい」
新たに家族となった竜達は、地上の生物が思わず身を伏せるような風を巻き起こしながら、太陽を背に天の間を飛び進んだ。




