番外編:歌う丘
王都にいた彼女のその後。
ちょっとしんみりするお話です。
そこは、私にとってとても居心地の良い場所だった。
新鮮な野菜が育ち、様々な花の咲き誇る庭。
いつも気持ちよく片付けられて掃除の行き届いた部屋。
そして何よりも、彼女の優しい笑顔。
彼女は私が遊びに行くと、いつもとても嬉しそうに笑って手作りのお菓子とお茶を振る舞ってくれた。
小作人の子でありながら不器用で夢見がちで仕事を人並みにこなせない子供だった私は家族との折り合いが悪く、何かと衝突してしまっていた。
それに、彼女に対する家族の、特に父の態度が許せなくてその事でも激しくぶつかったのだ。
父は父で、きっと負い目があったのだろうと今なら理解る。
彼女の事を持ち出すといつも火が着いたように怒り、その後石のように沈黙したものだ。
彼女の名前はフォムといい、私の叔母に当たる。
父の実の妹で、村の外れに一人で住んでいた。
聞いた話でしかないけれど、彼女は若い頃に王都に行って、色街でトップを争う高位の花になったという事だった。
実際、その頃の武勇伝は表も裏も色々教えてもらったものである。
と言っても、どの話も胸のすくような結末で、一つも哀しい話が無いのだから、それはきっと私の為に選んで語られた話であって、それが全てでは決して無いのだと、今の私には理解るようになってもいた。
フォムは、村人から避けられていた。
王都の色街で働き、病気をして帰って来た。
元々はその病気を恐れての事だろう。
でも彼女は、「病気はね、もう治ってるんだ。伝染る状態なら決して外には出られなかったし。あそこはそういう事には厳しい場所だから」と、にこやかに笑ってそう言っていたのに。
「みんなが怖がるのは当たり前。誰も進んで危険を冒そうとは思わないだろうし、それが正しいの」
「でも!フォムはこの村の為に仕事をしていたのでしょう?稼いだお金をほとんど村に送っていたって私だって知っているよ。それに偉い貴族の人に働き掛けて領主様に年貢を元に戻すように言って貰ったって。そのおかげでこの村は助かった。村会の集まりではそういう話がいつも出るそうじゃない。それなのに、みんな分かってるはずなのにおかしいわよ!」
私が幼い正義感で憤ると、フォムはいつも私の頬にちょんと触れて言ったものだ。
「それは私の勝手だもの。私が勝手に望んで、勝手に叶えた夢なの。それに、ふふっ、この世で自分の望みをちゃんと叶えた人がどのぐらいいるのかな?考えてごらんなさい、貴女の叔母さんは幸運な人だよ、メイネ」
「でも、」
「それに、村の人達は本当に良くしてくれてる。この家を用意してくれたり、色々な届け物をこっそり届けてくれたり、ね」
私は彼女が辛い顔をした所や怒った顔をした所を見た事が無かった。
彼女は病の影響で右の目が白濁化してほとんど見えてなかったし、右手の関節もほとんど動かないし、頑張って動かしても震えて上手く物が掴めない。
それでもまったく失敗する事などなく軽々とお茶を入れてくれていた。
庭仕事も全部一人でやってのけていたのだ。
今でも、彼女はとても不思議な女性だったと思う。
当時ですら、こんな人と自分が血が繋がっているのだと考えると、無価値に思えていた自分にも少しは何かがあるんじゃないかと思えて来て、落ち込んだ時は決まって彼女の所に逃げ込む毎日だった。
「私は沢山の人を見た。世の中で善人と言われてる人も、悪人と呼ばれている人も、誰も見向きもしない、暗闇にずっと蹲ってる人もいた」
「うん」
彼女はそんな私のちっぽけな悩みを汲み取って色々な話をしてくれた。
「でも、どの人も同じ、人の形をしていて、人の心を持っている。みんな人間以外の何者でもなかった。もちろん完全に理解出来たと言えるような相手は居なかった。でも逆に、全然理解出来ないという人も居なかった。だから手探りでそっと触れ合って、少しずつ理解し合って、そうやって人は繋がって行くのだと思う」
彼女の右手は冷たく、左手は温かい。
「あなたも触れ合う事を恐れなければ、いずれ響き合う心を持った人に出会える。何かをやりたいと思っているのなら、恐れずに望みを求めていれば、少なくとも諦めなくて済む」
冷たい右手には小さな銀青色の指輪が嵌っていて、温かい左手でいつもそれに触れていた。
「いいえ、そう、私なんかが言わなくても、きっと人は誰も、心の奥で知っているのだと思う。自分が何処に行きたいか」
彼女との沢山の思い出が、いつも私を温めてくれる。
どんなに家族に罵倒されようと、私は無価値ではないのだと。
行くべき道がどこかにあるのだと、教えてくれる。
「私も、まだ一つだけ果たしたい約束があるんだ。だから、病気の時も諦めず頑張ったし、こうやって暮らしてもいける。望みは人を強くするよ」
彼女は話の締めくくりにはいつもそう言った。
「約束?」
尋ねた私にお願いを託す為に。
「そう、とても大事な約束。きっと守るつもりでいるのだけど、もし、もしも、私がどうしても約束を守れなかったら、メイネも謝っておいてくれないかな?他に頼める人もいないから、メイネには迷惑かもしれないし申し訳ないけど」
「ううん、大丈夫!私、ちゃんと出来るよ」
私だけにお願いされた事がどれだけ誇らしかっただろう。
まさかそれが、彼女のいなくなった『もしも』の時の事だなんて、その頃の私は思いもしなかった。
― ◇ ◇ ◇ ―
「ん、風が強いなぁ」
村から少し離れた小高い丘の上、そこへの道は途中から遮る物が何もない場所だ。
風が吹くと大地が歌っているように聞こえるから、そこは歌う丘と呼ばれている。
彼女はそこに葬られた。
彼女が生前にそう望んだからだ。
不思議な夢見るような瞳で、この世で一番美しい竜が迎えに来てくれたら一緒に空を飛び回るのだから、一番空に近い場所じゃないと駄目だと言っていたのだ。
「竜だなんて」
彼女は私と違って、夢見がちな所は無い女性だった。
いつだって現実と向き合って、決して強引では無く事を通してしまう。
そういう人だった。
そんな彼女の唯一の現実離れした話が、人に化けた竜と空を飛んだという思い出話だ。
その竜と再会の約束をしたと言って、彼女はあの指輪に触れていた。
「きっと、とても好きな人がいたんだ」
強く想い合う男女の話は、他の女の子がそうであるように私も大好きだった。
彼女は王都で出会った美しい騎士様と激しい恋愛をして、一つの約束を交わした。
そう想像すると、あの静かに温かい叔母が、胸の奥に熱い想いを抱くヒロインのように思えて、いつも胸がドキドキした。
私は叔母の家の庭に咲いた、彼女の好きだった花を胸に抱いて丘を目指す。
こうやって毎日叔母の眠る地に参るのは、唯一の彼女との約束だった。
いや、そうじゃない。それは嘘。
彼女は毎日とは言わなかった。それは私が心に決めた事だったのだ。
またびょうと風が巻いて、私は花を握り締め、ゴミが入らないように目をぎゅっと閉じる。
この辺りに危険は無いし、最も見晴らしの良い場所に行くのだから不安もない。
そうしてやっと丘の上を望んでほっと息を吐き、そして直ぐにはっとした。
人がいる?
ううん、あれは、人、なの?
丘の上に立っているその人はどこか途方にくれたように見えた。
光の透ける青銀の髪。
あまりにも似合わない素朴な旅装が、むしろ現実感を奪ってしまう。
いや、この存在が人の訳が無い。
あんな星のような目を、いったい誰が持っているというのだろう。
「精霊?」
一番に頭に浮かんだのは、この世の源を司るという存在だった。
彼らは一様に美しい姿をしていて、時折幻のように姿を現すという。
私の声に気付いたのか、彼はふいっと顔を上げて頭をこちらに向けた。
その胸に下げた大きな琥珀の塊がキラリと陽の光を映して、そのまま幻想の世界に旅立とうとしていた私の心を現実に引き戻す。
「誰だ?」
言葉を掛けられて、私は掛け値なしに飛び上がった。
今の今まで人以外の何かと思っていた相手が、急激に血肉を持った相手として存在感を持ったのだ。
「あの、そこに私の叔母が眠っていて」
「叔母?」
彼はしばし私と足元を交互に見ると、やがて私に視線を固定した。
「お前の叔母っていうのはエッダの事か?」
「ええっと……」
エッダという名前に覚えが無かったけど、よくよく思い出してみると、彼女は時々言っていた。
『あの頃の私は英雄の冠なんて呼ばれていたの』と。
エッダというのは古詩の中で歌い上げられる唯一の王の冠の事で、なるほどそうなんだと納得出来る。
「違うのか?」
いつもの通り、妄想の彼方に突き進もうとしていた私に、再び彼が呼び掛ける。
「あ、そう、昔はそう呼ばれてたかも。本当の名前はフォムというんだけど」
「ん?ああ、そういえばそんな事を言っていたな」
ふと、全ての事柄が私の中で結び付き、まるで天啓のようにそれを口にせずにはいられなかった。
「あの、もしかして竜の人?」
酷い呼びかけもあったものだが、彼は別段怒るでもなくそれを受け入れた。
「そうだ、彼女に聞いたのか?」
「う、うんそう」
口がカラカラに乾いていく。
伝えなければ、伝えなければ、彼女に、大好きな叔母に頼まれた約束を。
「あの、ね」
「ああ」
彼は全てをもう知ったのだ。
その目を見た途端、私はそれを悟った。
だけど、私の約束はまだ果たされていない。
口をしっかり開いて、声を出す。たったそれだけの事なんだから、出来る。
「叔母は、ううん、フォムは、ずっと貴方との約束を果たすつもりだったけど、どうしても果たせなくなったから、謝っておいてって、私に」
ようやく、それだけの言葉を震えずに言い切り、私は相手の反応を待った。
怒るだろうか?
もし竜が怒ったら、うちの村はどうなっちゃうんだろう。
変な考えが頭をグルグルと回り、足は貼り付いたように動かない。
「ああ、うん。そうだよな、そうだった。伝言ありがとう。そんなに怖がらなくても大丈夫だぞ?」
「ご、ごめんなさい!」
「いや、謝らなくて良いから」
彼はまた足元に視線を戻すと、何かを呟いたようだった。
キラリと光る何かがその手に飛び込む。
「あ」
指輪だ。なぜかそう確信して、私はそれを目で追った。
叔母はその指輪だけは一緒に埋葬するように固く言い残していた。
普通ならそんな装飾品は形見分けで分けてしまい、死者には花や柔らかい布地で作った飾りが供される。
でも、誰も彼女の言葉に異を唱えたりはしなかった。
誰もが彼女の死を悼み、生前に言えなかった礼の言葉を口にした。
人間って、なんて愚かな生き物なんだろう。
死なれてから後悔するなら生きている内に伝えるべき事があるはずなのに。
しばし彼はその指輪を両手に包んで、黙祷するかのように頭を垂れて目を閉じる。
「色々ありがとう。それと、彼女は約束を破った訳じゃないさ」
体ごと振り向いてそう言った彼の胸元で、いびつに銀の鎖に巻かれた大きな琥珀が揺れていた。
場違いな事に、私はそれがとても綺麗だなと思っていた。
ふいに気付くと、彼の姿はいつの間にか消えていた。
それはあまりにも唐突だったので、やっぱりいつもの私の妄想かと思えてくる。
彼のいたあたりに近付いてみると、更にその考えが現実味を帯びた。
その辺りに草を踏んだ跡が全く無いのだ。
「フォム。あの人なの?貴女がずっと待ってた人、ううん、竜の人は」
答えが返るはずもなく、捧げた花は風に舞って空高くに彩りを撒く。
― ◇ ◇ ◇ ―
あのひとときが幻だったのか現実だったのかは未だもって分からない。
私は十八の年を待たずに村を訪れた歌うたいに弟子入りし、慣れた家族の罵倒に見送られてあの丘を後にした。
おそらく私はもう彼女との約束は果たしたのだ。
胸の奥底でそれは確信となってあの青銀の色で飾られてたゆたう。
この世界は不思議で美しい。
フォムがいつも言っていたように、私もまた、心を動かす美しい物を見てみたかった。
そして彼女には無かったもう一つの望みが私の胸を焼いている。
この目で見て、耳で聞いた輝けるものたち、それを語る人間になりたいという衝動。
私はその衝動に従って生きる事にしたのだ。
それは間違っているかもしれない。
だけど、望みは叶えようとしなければ、決して叶わないのだから。




