第七十二話 魔王は夢を見ない
メランは久方ぶりの帰宅に屋敷を見渡した。
久方ぶりと言っても、帰宅の間隔自体はそんなに空けている訳ではない。
あまり長く帰宅しないと母の具合が悪いと家から知らせが来るからだ。
メランは母の精神が安定していられるギリギリの期間を見極めて帰宅していた。
メランの生家である屋敷は王都の貴族街と呼ばれる地域の中で東の山側に位置する場所にある。
この辺りにある家はそのほとんどが訳ありの屋敷だ。
貴族の妾の家、お披露目前の継嗣を隠して育てている屋敷など、秘密を抱えた者が多い傾向にある。
地理的に王城の門から最も遠い場所となっていて、他の貴族が近くを通る事が無いというのが一番の大きな理由だろう。
そして各屋敷の塀も高い傾向にあり、この辺りの道はまるで迷路のような雰囲気があった。
その中でもメランの生家は独特の屋敷だ。
庭から屋敷から徹底的に北方の建築様式で造られているのである。
実際、この国では北方の文化を尊ぶ風潮があったが、それでも土地の気候に合っている開放的な造りの屋敷が多い。
一部に様式を取り入れてもここまで徹底する事はないのだ。
この屋敷はただただ、その全てが北方出身の女主の為に造られているのである。
メランは一般的な貴族の子弟のように友人を屋敷に呼んで歓待するという事を考えた事すらない。
この屋敷はあくまでも母の為のものであり、自分はその片隅に存在する事を許されているのみという気持ちを小さい頃から抱いているからだ。
ほんの幼い頃から自分はどこにいても邪魔者でしかないという居場所の無さをメランは感じていた。
最近になって、実は父が自分をそれなりに気にかけているようだという事に気付いたが、長年の疎外感が払拭された訳ではない。
だが、友人であるライカに感化されつつあるメランは、もう少し両親に対してきちんと向き合って見る気持ちになっていた。
「話してみなければ何も分からない、か」
幼い頃から「世が世ならあなたは偉大なる王家の者として」というのが口癖だった母と会話するという考えをメランは持った事が無かった。
母の言葉は常に一方通行で、こちらからの言葉が届くとは思えなかったのもある。
長く屋敷を空けていた時に錯乱した母の狂気が怖かったという事実もあった。
「母上はどちらですか?」
とりあえず部屋で身支度を整えたメランは影のようにひっそりと動く召使に尋ねた。
この屋敷では物音を立てる事が厳禁とされているので誰も彼もがひっそりと動いていて、まるで影の住人のようだとメランは常々思っている。
「いつものサロンに」
「わかりました」
メランの母の行動範囲は狭い。
自分の部屋か母の為の専用のサロン、そしてそこから降りる事の出来る庭、大体この三箇所の内どこかにいる。
食事時ですら食堂に顔を出すことなく、部屋かサロンで食事を摂っているのだ。
サロンを訪れるとメランの母はいつもと変わらぬ様子でいつもの椅子に腰掛けて庭を眺めていた。
メランが入室する際に声を掛けたのにもほぼ無反応だ。
「母上ただいま帰りました」
「おかえりなさいませ。お勉強を頑張っておられますか?世が世なら大国の王族なのですから他者に遅れをとってはなりませんよ」
「はい」
普段なら会話はここで終わり、メランは断って退室して部屋へと引き上げる。
しかしこの日は違った。
メランは今まで決してやらなかった事を行う。
華奢なテーブルに二脚付きの椅子の片方にいつも母が座っているのだが、その向かいの席に誰かが座る事は無かった。
父は少し離れたソファーに座って母を眺めるか、母の後ろにうやうやしく控えるかのどちからで、決して一つのテーブルに同席する事をしない。
それゆえ、その向かいの席は今の今まで誰に使われる事もないままとなっていた。
そこにメランはこの日初めて腰を下ろした。
「メラース殿?」
母がいぶかしげにメランを見る。
メランはそっと微笑んでみせた。
「母上、少しお話をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「……もちろん、かまいませんよ」
答えた母の言葉が震えている。
メランは母に狂乱の兆しが無いか注意しながら会話を続けた。
「母上にとって、今の生活は心地の良いものですか?」
「もちろんです」
「父上や私を愛していらっしゃいますか?」
最初の問いに即答した母が、次の問いには言葉を詰まらせた。
メランは答えを急く事なく、母の言葉を待つ。
「私にとって、愛するものというのは失われるものなのです」
やがて静かに母が語り出す。
「故国も、両親も親族も、付き従った騎士、幼いころから世話をしてくれた侍女、二心無き家令、全て焼かれて灰になりました。これは呪いなのです聖なるものを冒涜した報い。私が愛したものは灰になるのです」
語っている内容に反して、母の美しい顔には微笑みが浮かんでいる。
「そして私の心も焼かれて灰になった。今ここにあるのは燃え残った躯だけ」
感情の篭もらない言葉に、メランは母の痛みを感じた。
そして理解した。
そうか、この人はもう耐えられないのだ。
誰かを愛する事、何かを悲しむ事、怒りも憎しみも、その全てを抱く事に耐えられない。
だから全てを手放したのだ。
そう思えば、時折生じる狂乱こそが唯一の母に残った感情なのかもしれない。
「母上は私にこの精霊の守りをくださいました」
メランが首から下げている火の精霊の守りを見せると、母は表情無く頷く。
「それは我が家に古くから伝わる守り石だから。私が生き残ったのはきっとそれのおかげなのでしょう」
だから我が子にその加護を願ったとは、母は続けなかった。
それでもメランには十分だった。
「ありがとうございます。平穏をお騒がせして申し訳ありませんでした、母上」
深く一礼をして席を立つ。
母の視線はまた庭に向かい、メランを追う事はない。
そして退室を告げ、開けた扉の向こうに父の姿があった時、メランは自分でも意外な程に驚く事はなかった。
「父上」
父は無言で目線で誘う。
メランは父の後ろを歩いた。
「何か、心境の変化があったのか?」
執務室件書斎に到着すると、メランに着席を促し、自分は窓際に立ち、父はそう息子に尋ねる。
「はい。実は、院を卒業しましたら紋章官になりたいと考えています」
メランの父であり紋章院の長であるスエフ・ナブデ・イシリースはやや意外そうに目を見開いた。
「官吏になるのをあれほど嫌がっていたお前が、な。なるほど子は成長するものだな」
「私はずっと、自分が自分として生きる場所を探していました。ご存知の通り、中途半端な立場です。どこに行こうとどこかが必ずはみ出してしまう」
「そうだな。例え紋章院に来たとしても、私はお前を引き立てたりできん。庶子たる者なれば、己の優秀さを示さずには足を踏み入れる事すら出来まい」
「そうですね」
「どこかの平穏な貴族家の婿に入り、安穏とした暮らしをしたいのならその為の後押しは出来よう」
「そうですね」
「あるいは貴族お抱えの商人となり、その才を活かして自由に生きる道もある。資金に困る事はない」
「なかなか楽しそうですね」
「私が言う事ではないが、紋章官は最も嫌われ、誘惑も多い、魑魅魍魎の巣窟だ。それにお前の兄が私の地位を継ぐだろう。お前には居心地の悪い場所となるはずだ」
「そうでしょうね」
そこまで言って、メランの父はため息を吐いた。
「そんな場所がお前がお前らしく生きる場所だと言うのか?」
「はい。貴族に憎まれ、同時に媚びられ、そして常に誘惑がある。それは即ちそれだけの力があるという事です」
「力を、欲するか?」
「はい。力が必要です。もし、人が誰かの運命を捻じ曲げようと思えば、それは個人を超えた力が無くては出来ぬ事です」
そこで初めてメランの父は驚きを表して我が子を見た。
そして、息子の顔に何一つ激情を感じさせるものが浮かんでいない事を見て、困ったように目を眇める。
「運命を変える力を欲すると言うのか?それは人の手に余る望みだぞ?」
「もし、人がそれぞれの立場を持って生まれた事に意味があるのだとしたら、私はその役割を果たしたいのです。ケチな貴族は民を貧困にし、働かない農夫は家族を飢えさせる。権力を欲しない改革者は何一つ変えられません。ただの夢想家は誰一人として幸福にはしないのです」
「ふ、ふふ」
メランの父は思わずといった風に笑う。
「人の歴史を変える魔王の血は健在という事か、よかろうそなたの好きにするが良い。私は助けはせぬが妨げもせぬ。思うがままに生きろ」
「それは困ります。紋章官になるには最低限身内の引き立てが必要です。あそここそ血統に縛られた世界ですからね」
「……どうやら本気らしいな」
「はい」
メランは父のまなざしに悲しげな色がわずかにあるのを見て取って少しだけ申し訳ない気持ちになる。
父が自分を本当は愛している事、平穏に生きて欲しいと願っていた事を知って、メランは意外な思いと、納得する思いの両方を感じていた。
父の思いに背くのは申し訳ない事だと思う。しかし、
(何一つ望まぬままに、ただ強く独り生きてきたあの方が唯一望んだものを手にする為の力になりたい)
もちろんそれだけではない。
この古くて頭の硬い者の多い国は、このままいけば遠くない未来にきっと行き詰まりを迎えるだろう。
周辺諸国は長い戦いの傷を癒やして大きな変化の波を起こし始めている。
外側から訪れる波に呑まれる前に、内側から波を起こさなければならない。
学院で学ぶ時もあと一年を切った。
まどろみの中でたゆたう時間は終わりを迎える。
何かを望むのならば戦うべき時が訪れるのだ。




