第五十八話 君と一緒に
まるで空気が鋼の固まりにでもなったかのように、ミアル以外の全ての者は居竦んだ。
同時に、ミアルはまるで体に熱が吹き込んだかのような熱さを感じていた。
だが、その突然の体の変化をミアルに意識的に切り離す。
今なら敵の姿が見える。最大限のチャンスを逃す訳にはいかなかったのだ。
その男はひょろ長い手足を器用に使って猿のように移動していたが、突然の咆哮にほんの一瞬その動きから連続性が途切れたのである。
森に鎧姿で斬り込もうとした寸前で怯えて凍りついた兵達程ではなかったものの、その咆哮はミアルを襲っていた男にも畏怖を感じさせるものだったのだ。
ミアルはその一瞬に合わせて剣を振るった。
ヒュウと音が鳴って太い枝がバサリと落ちる。
ミアルは舌打ちをした。
普段のミアルの動きより心持ち剣の振りが早く、踏み込みが強い。
そのせいで勢いが強すぎた。
衝撃で相手を落とすつもりが枝を切ってしまったのである。
「おお、こええ!しかしよ、この森、バケモンでもいたんかね?しばらくここにいたけど出会わなくて良かったなぁ」
相手は軽口を叩く。
彼にとって恐ろしい聖叉は既にミアルの手から遠く離れた。
もしそれを取ろうとしても男の方が早くミアルを殺せるという自信だ。
ミアルは何も答えず、素早く移動する男の様子を窺っている。
「やっぱあれだよな、身分もあって自分がつええと思っているお偉いさんを殺す時の感覚ってのは、こう、特別なもんだよな。悔しそうでさ、唖然とした顔もまたたまんねえよ」
男の声はあちこちから移動しつつ聞こえる。
がさりがさりと揺れる樹の枝の音も何箇所もから同時に発せられた。
ミアルは大木を背に剣を足元に突き立て、まるで動きに迷うかのように佇んでいる。
ニヤリと笑った男は致命の一撃を仕掛けた。
細い筒に先の尖った吹き矢、その先には毒が塗ってある。
恐れるべき聖叉が無いのなら敵はもう射程内だ。
男がフッ!と息を吹き入れるとほとんど同時に、地に刺した剣を足場にミアルが跳ぶ。
頭上の枝で体を反転させるとその枝を走って枝先で踏み切る。
そして自分の正面にあった藪の中に落下しながら蹴りを放った。
「ガァッ!」
男がもんどり打って転がり出る。
「なんで、分かった」
「全身を鎧った相手を殺すには目か関節を狙うしかない。関節がダメだったのなら当然目を狙う。狙う場所が分かっているならそっちが来るのを待っていれば良い」
「てめ、はなっから、アレを使う気は、なかった、な」
「当たり前だ、あれはお前を釣る為のエサだ。あんな不確かなものに頼る訳がない」
アレとは聖叉の事だ。
守護者とされた者達の頭には針が埋め込まれ、聖叉の響きによって死の苦しみを味わう。
だが、それは殺そうとするなら時間が掛かる道具だった。
「くっ、は、そんな金属の固まり着て跳びはねるとか、どうかしてるぜ」
「頭が固い奴はそうやってすぐに思考を停止する。重さを固まりで考えるから出来ないと思うのだ。重さはバランスを保てば負担にはならないものだ」
「意味わかん、ね、……くっそ、てめ、騎士じゃ、ねえな、傭兵か?騙された」
「我が国にはもう騎士はいないと言うに、と、もう聞こえぬか」
ミアルの鉛入りのブーツによって男の胸は踏み砕かれ、男は最期に言葉の代わりに血を零した。
「ミ、ミアル様!ご無事で!こ、この山、バケモノがおりますぞ!」
「恐ろしい叫び声が!」
「か、神の怒りやもしれぬ」
森へと入る決心が付かないのか開けた場所でうろたえたように声をかけて来る近衛兵や討伐軍の者達を見やりながら、ミアルは聖叉を拾い、懐にしまうと声を掛けた。
「この男を調べろ。それと賊の砦のどこかに土が新しい所がないか調べて掘り返せ、私は声の主に挨拶をして来る」
「な、なんと!」
ミアルは剣も回収し、先ほどの咆哮の聞こえた方へと駈け出した。
彼女を止める言葉など聞くつもりは最初からない。
ミアルには確信があった。
あの声の主は少なくとも彼女に対して害意のある者ではないと。
しかしさすがのミアルでも全身鎧で大立ち回りをした後に山の中を走るというのはなかなかにキツかった。
ほとんどが下りだったからこそ尚更辛い。
滑り落ちるのを逆に利用して斜めに生える木を足場に更に下へと着地すると言った、都の中ではまず出来ないようなアクロバティックな動きをする羽目になった。
とは言え、足場が土や草で普段とは違うだけで、普段から下町の入り組んだ路地の建物を駆け上ったり塀を走ったりしているので、高低差のある場所に対する恐怖心はミアルにはない。
そうやってしばし走ると、山と山との間にある入り組んだ地形に出た。
そしてその森が途切れて岩場となっている場所にその相手はいたのである。
「まさか?」
「あっ!」
それはそこにいるはずのない者だった。
ミアルは思わず幻でも見たかと思って兜を外して目元をマントで拭う。
そこにいた見知った相手はミアルを見るとたちまち顔を紅潮させて困ったような顔をした後、街中ででも出会ったかのようにごく穏やかに微笑んだ。
「ライカ?」
「えっと、ほら、ミアルが初めて狩りをするって聞いたから、その、……気になって、ね」
「残念ながら初めての狩りと言うならもっと子どもの頃に行ったぞ。まぁ人間相手の狩りと言うなら確かに初めてではあるが」
「あ、ああ、そうなんだ。ええっと、戦争っていうやつ?」
「そこまで行かない一方的な戦いではあるな。いわゆる討伐と呼ばれるものだ」
「色々あるんだね、人と人の戦いも」
「まあな、軽蔑するか?」
「えっ、なんで?」
「弱い者虐めのようなものだからな」
「あ、そうだね、弱い相手を倒しても格好悪いよね」
「クッ」
たまらずミアルが吹き出す。
ライカと話しているとミアルは鬱屈する事なく物事を捉える事が出来る。いつもそう感じていた。
だからこそミアルにとってライカという相手は特別だったのだ。
「先ほどの咆哮、ライカか?」
なんの根拠もなくミアルはそう自然に尋ねる。
普通に考えたら有り得ない話だった。
ミアルも自分がなぜそんな事を聞いたのか分からない。
ただ、自然にそう聞いていた。
「あ!ち、違うんだ!」
ライカは治まっていた顔色を再び真っ赤にすると、慌てて両手を振った。
「そのっ、別にミアルのパートナーだって主張したつもりじゃなかったんだ。本当だよ?つい、ミアルが戦っている気配を感じて、歌が口から出ちゃって」
ライカの言い訳にミアルはしばし首をかしげ、そしてそこでようやくライカの横でグルグル唸っているのか問いかけているのか分からない声を上げている若い竜に気付いた。
この竜と共に山に分け入って来たのだとしたらかなりの無茶と言えるだろう。
本当なら共に討伐軍に合流した方が良いのだが、そうすると確実にライカはなんらかの処分を受けるに違いなかった。
軍隊の行動の邪魔をしたと言いがかりを付けられるし、そうでなくても変に注目されてしまう。
何しろライカは英雄殿の息子なのだ。
「とても励まされたよ」
「あ、うん」
ミアルがそう言うと、ライカは酷く嬉しそうにうなずいた。
「でも前も言ったが、私は今、ライカを受け入れる事が出来ない。足りないものが多すぎる。ついでに余計なものも多い」
「う、うん」
ライカはミアルの言葉に肩を落とした。
共にいる若い竜がその顔を慰めるようにペロペロ舐めている。
その竜をミアルはぎろりと睨んだ。
ライカの竜はビクッとして動きを止める。
さらさらと風が流れ、遠くから今まで途絶えていた鳥の声が響き始めた。
「ちゃんと帰れるか?あんまり無茶をしてくれるな。全くメランのやつは何をしているんだか」
「あ、や、メランはわかってくれてるから!すごく助けてもらったんだ」
「へえ」
ひやりと、ミアルの声が冷える。
ライカはため息を吐いてしょんぼりと肩を落とした。
「ごめんね。でもミアルが無事で良かったよ。勝ったんだよね?」
「ああ」
すっかりしょんぼりとしてしまったライカに、ミアルも自分の言葉が足りない事を自覚して言葉を重ねる。
「ありがとう。私の為に来てくれたんだよね。他のなによりもその事が嬉しい。自分にも心配してくれる人がいるというのは新鮮な喜びだ」
「心配なんておこがましいけど、ミアルの戦いを見守りたかったんだ。これは俺のワガママだから」
「ふふっ、ライカのワガママは面白いな。なんというか、世界が違って見えるよ」
「ミアルって面白い考え方をするよね」
「あはは、少なくともライカにだけは言われたくないな」
「ええっ?」
ミアルの言葉に眉を寄せるライカに、ミアルは明るい笑い声を響かせる。
こんなふうに何の暗い感情もなく明るく笑った事がどれほどあっただろうとミアルは思った。
ライカの言葉に急に夜が明けたような、そんな清々しさをミアルは感じる。
それを常に傍らに置く為にはミアルには越えなければならない障害が多すぎた。
だが、ミアルに諦めるつもりは毛頭ない。
そもそもがミアルの人生は初めから無理を望み望まれてそれを押し通して生きてきたのだ。
足りないものは手に入れる。
それがミアルの選んだ生き方だった。




