第五十四話 戦いの気配
『はやい!ハヤーイ!』
「ちょ、青、落ち着け!」
王都を出立したライカは自分達とは反対に王都へと向かう旅人の唖然とした目に見送られながら疾走していた。
ライカの騎竜である早駆け竜の青が興奮してうまく走りをコントロール出来なかったのである。
青は普段は早く走るのは苦手としていて、半分跳ねるように走るのが特徴だった。
生まれつき脚のバランスがおかしくてうまくまっすぐ走れないのである。
そもそも年若い竜なのに学生の教練用に払い下げられたのはその先天的な不具合のせいだ。
しかし今、ライカの飛翔術によって限りなく体重を軽くした状態で地面を蹴る事で飛ぶように走る事が可能となり、青はその初めての感覚に酔っていた。
そしてそのテンションは高すぎたのだ。
「青、道から外れてるから!前!そこ立木があるだろ!」
本来ならいくらコントロールが効かなくても竜は本能的に自分にとっての危険は避けるものである。
しかし、青は常には出来ない動きに没頭するあまり無謀な走りをしていた。
もはや障害物など全く目に入っていないその様子に、ライカは仕方なく青に重さを少し戻す。
途端に調子が変わり重くなった足取りに青はひっくり返る事となった。
そしてライカはその青から射出された投石のように弾き飛ばされる事となる。
それは恐ろしい勢いだったが、ライカは元々スピードには慣れていた。それに軽くなっている今は、どれほどスピードに乗って投げ出されてもそれほど勢いは上乗せされない。
ライカは自分の向かっている方向を把握するとくるりと体を丸めて立木に触れ、少しだけ重さを戻すとその木を支点にして体を回し、勢いを殺してまっすぐ地面に降り立った。
「青、調子に乗ったら駄目だって言ったろ?」
一方の青も完全に重さを戻された訳ではなかったので転んだ衝撃は軽めの物で、元々丈夫な体には傷一つ付いていない。
むしろライカに怒られた事でバツが悪そうにうずくまっているようだった。
『ダッテ、はやくて……』
さすがに悪いと思ったのか、青も上目遣いになりながらそう言うと、ライカに甘えるように顔を擦り付ける。
ライカはため息を吐いて、それに応えて青の目の下に自分の頬を擦り付けた。
竜同士の親愛を示す挨拶だが、今回の場合は和解の意味が強い。
「はしゃぐのは良いけど、道を逸れないように注意して進もう。メランの描いてくれた地図で自分の居場所が把握出来なくなったら後は勘で進むしかないからね」
『うん!ワカッタ!』
ほぼ分かっていない口調で青が断言するのをライカは微笑ましく見守って、再びその背に身を預けた。
王都からストマクまでの間の道は主街道と呼ばれていて人々の往来も盛んで道幅も広い。
何しろ巨大な竜車が二台は並んで通れると言われる程だ。
その為むしろ道から外れる方が難しいぐらいなのだが、そんな道を青は斜めに突っ切って低木帯から立木の中へと突っ込んだのである。
「ちょっと急ぎすぎたかな?」
気が急くあまり自分が青をこの走り方に慣らす事を失念していたと気付いて反省するライカであった。
―◇ ◇ ◇―
山中の川の流れを囲む拓けた場所に軍の駐留場所を定めた上層部を責める気持ちはミアルには無かった。
そもそもミアルには軍の指揮権は無いし、完全な客分でしかない。
ただ、地形を見るにすり鉢状になったこの場所はあまりにも無防備であると一応進言はした。
そんなミアルの具申に軍を率いる大隊長は顔を引き攣らせる事すらなく、口元に笑みさえ浮かべながら答える。
「姫君、軍隊規模の行軍となると問題となるのが食料と水の確保です。なにしろ人数が人数ですからね。そこで水場を確保してここを拠点に賊共を狩りたてるという訳です。相手がここに来てくれるというならむしろ願ったりですな」
実際、彼も無能という訳ではなく、崖になっている水場の上の土地に歩哨部隊を配置している。
ミアルの進言はわかっている事をわざわざ言いに来たという嫌がらせに近い受け止められ方をしたのだった。
とは言え、ミアルはこの具申で一応自分のやるべき事はやったと考えて既にその意識は他へ向いている。
ミアルとて自分の意見が受け入れられるとは全く考えていなかったのだ。
これはお互いにとって挨拶のようなものであるとミアルは考えていた。
「あの男、高位貴族の一族であるとは言え、主家の姫君に対してなんという態度であるか!」
それを憤っているのは最近増えて来たミアルの信奉者の方である。
彼らは自ら率先して訓練を行い、共に泥を被って戦った王家の姫であるミアルに感動して彼女の朋友である事を誓った者達だ。
以前のミアルならそんな連中をうざったく感じて歯牙にも掛けなかっただろうが、ライカと話してからの彼女は、そういった味方もまた自らの戦力の一端だと割り切る事が出来るようになっていたのだ。
とは言え、だからと言って特に言葉を掛けたりする事もない。
彼らは放っておいても勝手に自分達の良いように解釈して後を付いて来るのだ。
邪魔な時は撒けば良いので基本は放置がミアルの姿勢である。
いかにもな無骨な鎧を纏った者達の中で、一人だけなめらかなウロコ状の鎧を装着しているミアルは目立った。
その彼女の鎧を男たちは女性らしいファッションとして捉えていて、その利点に言及する者など誰もいなかったが、それもミアルにはどうでも良い事だ。
(崖の上は歩哨隊がいる。川沿いの拓けた土地は障害物がなくて見晴らしが良い。確かに奇襲は難しいかもしれない。……集団ならな)
ミアルは河原の足場を確認しつつ崖の様子を観察した。
(草が生えていない崖から下に降りられる箇所がいくつかあるな。獣の通う道にしては獣の痕跡が薄い。おそらくこの水場は賊も使っていたという事だろう。となれば敵にとってはここは良く知っている場所という事になる)
集団が使いやすい場所となれば当然同じような条件の相手にとってもそうである。
その場所はどうやら何者かが以前使っていた場所であるとミアルは見当をつけた。
そして軍の駐留地からやや離して自分のテントを張る事にする。
主戦力の部隊はもちろんその事を訝しむ事は無かった。
実は本来は大本営の近くにと誘われたのだが、ミアルはそれを断ったのである。
しかしそういったミアルの奇行はいつもの事と受け止められていた。
そんなミアルのテントの近くには近衛隊からの派遣部隊のテントが張られたが、女性であるミアルに遠慮してかそれらもやや離れている。
ミアルは夜になると完全武装のままテントを抜け出して身ひとつで崖沿いの暗闇に潜んだ。
駐留地ではいくつかの篝火が灯され見張りが行き交っているのが見える。
今は風が強く雨の少ない時季であり、川の流れも激しくはない。
周囲の物音は十分に聞き分けられた。
やがて夜も更ける頃、カラカラという小さな音を聞いて、ミアルは眠気覚ましに噛んでいた苦い果物の皮を乾燥させた物を吐き出す。
しばし待ってもそれ以外の音は聞こえない。
駐留地の様子も変わっては見えない。
しかし、ミアルは素早く動いた。
じわりと空気の中に漂う気配を感じたのだ。
(隠す事も考えない殺気とはな)
ミアルはやや呆れて気配を探った。
軍人はその行動を開始する時には殺気を発しない。
条件反射的に訓練通りに動くことを叩き込まれるのである。
戦っている内に血や殺戮に酔って殺気を発する事は良くある事だが、軍人は基本的に殺す事を目的とするのではなく命令を遂行する事を目的としている為、相手を殺害しようとする場合にも殺しへの意識よりも命令を遂行する事への緊張が先に立つのだ。
だが、今ミアルが感じている相手は殺気を周囲に放って潜める努力すらしていなかった。
(これは軍人ではないな)
自らの気配を限りなく薄くしながらミアルは動く。
ミアルの感じた獣のような気配は既に駐留地に向かっている。
まさに獣のような素早さだった。
突然、篝火が崩れる固い音が響き、一箇所の火が消える。
「うわああああああ!!」
篝火の一角が崩れて一拍、大きな悲鳴が上がた。
途端に駐留地が騒然とした様子になる。
「何事だ!」
「どうした!」
いくつかの声が上がって人々の動きが激しくなった。
その騒ぎの中、いきなりミアルの追っていた殺気が消え去る。
ミアルは息を潜めたまま闇の中から周囲を観察した。
しかし結局相手の姿を捉える事が出来ないまま、カラリと小さな物音だけを耳に聞く事となった。
「去ったか。案外と見切りが早い。血に酔うタイプではないという事か。厄介だな」
小石の落ちるその音は、崖から直接飛び降りた時と、そして飛び上がった時の物だ。
河原に通じる道の周辺は歩哨が特に重点的に警戒している場所であり、犯人はそこを使うまいとミアルは睨んでいた。
その一方で下生えが濃い場所も草を踏む物音を嫌い使わないだろうと読み、崖が低く、しかし道は無く草の生えていない場所に当たりをつけて見張っていたのだ。
そして相手はやはりそこを使ったらしかった。
しかし、それに当たりをつけて見張っていたミアルですら、その相手を気配でしか捉えきれなかったのである。
「やれやれ、一筋縄では行きそうもないな」
ミアルはため息を吐くと、騒ぎが大きくなる一方の駐留地へと歩を進めたのであった。




