第四十八話 矜持
ポリュボテスが授業に復帰したのは季節変わりを迎える頃だった。
意識が戻ったという話があってから長かったのは体にしばらく麻痺が残ったかららしい。
メランがライカから聞いた所によると、毒というのは初期段階で中和出来れば回復が早いが、そうでない場合は体の中が結構壊れてしまうのだという事だった。
それを癒やすのに時間が掛かるのだという事らしい。
メランはポリュボテス本人に対してはなんら思う所はなかったのだが、今回の事件についてはある程度責任を感じているという少々複雑な気持ちから、噂で彼の復帰を聞いてほっと胸を撫で下ろす事となったのである。
だが、事件はメランの望むようにそのまま平穏には終結する事はなかった。
復帰の噂を聞いてからしばらくした頃、ポリュボテスはサロンで共通の授業について討論を戦わせていたライカとメランの元へと足音高くやって来たのである。
なんと言ってもポリュボテスは事件以来この塾で最高の知名度を誇っている。
彼が姿を見せた瞬間から、あたりには静寂が漂い、全員の注目がその動向に集まった。
「貴様!」
倒れる前よりもかなり痩せた、というかやつれた雰囲気のあるポリュボテスは、メランに一瞥も向けずにまっすぐライカに向かってズカズカと詰め寄るとその胸ぐらを掴み上げる。
さすがにこれにはメランも憤った。
「ウーロス卿、命の恩人に報いるにはなかなか斬新な態度ですね」
その言葉に、ポリュボテスはようやくメランが目に入ったという風情でちらりと一瞥するとすぐにその目を戻す。
明らかにメランを塵芥と同じ、居ても居なくても気にしない相手と認識したという態度だ。
「貴様!俺の命の代価が不具の竜一頭とはいかなる事か!」
その言葉でメランはようやくこの誇り高い武人が何に憤って怒鳴り込んで来たのかを理解した。
しかし受け取る側ではなく支払う側が代価が安すぎると怒るとはなかなかある事ではないだろう。
メランはつくづく誇り高き者という輩に対して呆れた。
一方で当人であるライカは終始キョトンとしていた。
ポリュボテスが何を言っているのか分からないのだろう。
ある意味正しい反応だ。
と言うか、倒れてから復帰するまでずっとその事で憤っていたのだとしたらメランにすらポリュボテスという男は理解の範疇を越える。
「ええっと、何の事でしょうか?」
相手によって態度を変える事のないライカは、相手の状態によっても態度を変えたりはしない。
普通の人間ならこんな病み上がりの熊のような大男に掴みかかられた時点で理由は分からずとも謝ってしまっていただろう。
度胸が座っているというか、鈍いというか、これはこれで才能かもしれない。
もしかするとこの二人、噛み合っていないようで結構噛み合っているのかもしれないとメランは思った。
「俺が迂闊にも毒に倒れた時に、貴様がその毒を吐かせたであろう!」
「あ、はい。あの時は緊急だったので乱暴にした事は申し訳ありませんでした」
そこを謝るんだなとメランは思い、対するポリュボテスもやや怯んだようだった。
どうやらまさか謝られるとは思っていなかったらしい。
あの勢いで来られれば気が弱い人間なら思わず謝ってしまうだろうに、今までそういう経験はなかったのだろうか?とメランは他人ごとながら呆れてしまう。
「違う!この俺、ウーロス家の跡取りである我を救った貴様の功績に報いるに、傷ものの竜などという物で済ませては我が家の沽券に関わると俺は言っているのだ!」
「青は傷ものなどではありませんよ!」
ポリュボテスの言葉に今度はライカが怒りを見せる。
ちょっとずれた同士だから噛み合うだろうと思ったのは盛大な間違いだったなとメランは自分の考え違いを訂正した。
「貴様の竜の話などどうでもいいわ!」
「どうでも良くはないです。家族を馬鹿にされて怒らない人がいますか?」
駄目だ、これは放っておいたら話が全く進まない。
メランはそう判断した。
「二人共、少しお待ち下さい。このような場で貴族の子息たる者同士が声を荒げるなどみっともないとは思いませんか?それこそ家名に関わる不名誉でしょう」
メランの言葉にポリュボテスが言葉と表情を抑えた。
こういう所はさすがに高位貴族である。
ライカの方はムッとしたままだったが、メランの執り成しを一応受け入れるつもりらしい。
「ウーロス卿、そもそもこのような話を従僕を通さず行うのはマナー違反でしょう。貴殿らしくないのではありませんか?」
「らしくない、か」
ポリュボテスは苦々しく言うと睥睨するようにメランとライカを見た。
冷然とした見下す者の目だ。
「本来なら俺は死んでいただろう。らしいもらしくないもそこで終わっていた話だ。それは俺の失態であり償う機会も得られぬまま惨めに家名を穢した者として名を残しただろうな」
毒で殺される事を失態であり汚名と考えるこの男にメランは共感出来ないながらも、貴族としての矜持は感じた。
文官の一族であるメランの家で言うならば敵方の罠に気付かぬままに自らその罠に飛び込んで失脚したというような話なのだろう。
実際そうやって倒れた文官の名家が長く笑い話の種にされていた。
武官たる者が戦わずして倒れるという事がどれほど耐え難い事なのか理解は出来ずともある程度想像する事は出来る。
「それゆえ貴様には本来生涯に渡って返せない程の借りを作ったと言っても良いだろう。だが、俺は貴様が嫌いだ」
「はい」
嫌いだと言い切るポリュボテスもそれに真面目くさってはいと応えるライカも、余人の理解を超えた境地にあると言って良いだろう。
「なぜとは聞かぬか?」
「聞いて変わる事ではないですし、そもそもそれは俺がどうこう考える事ではありません。好き嫌いはその人の自由ですから」
「なるほど、そういう考え方は悪くはないがな。俺は貴様の父君である英雄殿がまず嫌いなのだ。下賤の民でありながら王に取り入り奸計をもって国々を弄んだ。下劣で唾棄すべき男だ。そして貴様も同じように下賤の民でありながら貴族の中に土足で踏み込んで来ている恥知らずだ」
その言葉にライカは眉をぴくりと動かしたものの怒る事は無かった。
普通これだけ真正面から親への非難を浴びせられればそのまま決闘になってもおかしくない。むしろわざと決闘に誘っているのか?と勘ぐっても良いぐらいである。なぜなら家長とはそのまま家名を体現した者だからだ。
関係ないはずのメランですら背筋が寒くなる程の罵倒であった。
しかしライカはいっそ無表情にその言葉を聞き流してみせる。
「だが、貴様は俺の命を救った。これは紛れも無い事実だ」
ポリュボテスはいかにも耐え難いように口元を歪めながらそう告げる。
「それ故に、俺は貴様にこの命と等価の物を差し出さねばならぬ。それが武人としての我が矜持」
ポリュボテスは自らの指に嵌っているおおぶりの指輪を引き抜くと、それをライカに差し出した。
「これを受け取るが良い」
その指輪を見てメランはぎょっとした。
それは家の紋章が描かれた指輪であり、手紙や書類の封に押印する時などに使う重要な物だ。
普通は継嗣にしか受け継がれないものである。
「ええっと?」
ライカは良くわからないままその指輪を受け取った。
「それを使えば一度だけ俺に出来る事ならば何でも叶えてやる。この命を差し出せと言えば差し出しもしよう。それが我が矜持だ。だが、それ以外で俺が貴様を認める事はない。それだけ心得ておけ」
メランは驚きのあまり固まった。
今しがた相手を怒らせるような罵倒をした直後に命をくれてやる権利を渡すというのは自殺行為に近い。
なんという難儀な男だろうと、メランは目眩に似た気分に陥ったのだ。
しかしライカはそんなメランとは別の感慨があったらしい。
ライカはしばしじっとポリュボテスを見上げると、その場で頭を垂れて跪いた。
「その誇りに敬意を」
それは王に拝謁する際の所作に似ていた。
たとえ高位貴族に対する礼としてもある意味王に対する不敬にあたると言われてしまいそうな行為ではある。
しかしそこに相手におもねるような卑屈な関係性は感じられなかった。
逆に跪いたそのライカの姿こそが王者のような誇り高さを感じさせるものに見える。
そう言えば、と、メランは思った。
これまでライカが誰かに、あのミアルにすら、跪いた事があっただろうか、と。
「痴れ者めが、だから下賤の民は好かぬ!」
だが、礼を受けた方のポリュボテスにとってはその態度が逆に苛立ちを促したらしい。
一言吐き捨てると来た時と同じように足音高くその場を立ち去った。
「……ライカ?」
メランは姿勢を正したライカに声を掛ける。
ライカはどこか茫洋とした雰囲気を湛えたまま少し微笑んだ。
「すごい誇りだね。俺、やっと身分っていうものがどんなものか分かった気がするよ」
「へえ」
ライカのその言葉にどっと疲れを覚えながら、メランはライカの手に収まった指輪を見て深い溜息を零すのだった。




