第三十一話 嵐の季
パラパラと降り出した雨に、ライカは慌てて手に提げたカゴに蓋を被せた。
濡れてしまっては意味がない。
街のあちこちには、月下草の花が確認されると同時に風読みの旗が掲げられていて、パタパタと風を受けてはためく音が、まるで鳥の羽音のように街を埋めていた。
「こんにちは、じいちゃんの使いで隙間塞ぎ用の水草持って来ました」
頼まれた最後の場所である門前の詰所に飛び込むと、その広い空間を埋める警備隊の人々の中に、一人異彩を放つ人物を見つけて息を呑む。
「おお、ありがたい。よっしゃ野郎ども!雨漏りのない快適な詰め番を目指してひと働きだ!」
「よっしゃ!」「やったるぜ!」
到底品が良いとは言えない勢いの良い声があちこちから上がり、そこらに転がされていた一本梯子を担いだ男達が飛び出して行く。
「ぼうず!ごくろうさま、茶ぐらい出せるから飲んでけよ」
今の周り番である水の隊の班長がライカの頭を撫でると、留守番役らしき人間に茶を用意するように声を掛け、本人も突き込み棒を握って外へ飛び出て行った。
ライカはそれを見送ると、一人悠然と座って先に茶を啜っているその人をそっと窺った。
相手は最初から気付いていたらしく、にこりと笑うと片手を上げる。
それに勇気付けられて、ライカは挨拶をした。
「こんにちは領主様、どうしてここに?」
「良い日だなとは言えないが、作業日和ではあるな。ようこそ、ロウスの孫のライカ。閉門の指示は俺がしなけりゃならん決まりなのだよ」
どうやらラケルドはなぜか既にライカの身元を知っているようだった。
「街の門を閉じるんですか?」
手招かれて向かいの席に座り、気になる事を問う。
「そうだ。閉じなければそこから風が入り込んで酷いありさまになるのでな。風を防ぎ切るには低い壁だが、ある程度は風の力を殺ぐ事は出来る。ああそうか、ライカは神の抱擁は初めてか」
水の隊班長に彼らのもてなしを任された留守番役の男は、二人がいつの間にか同じテーブルについて話していたので驚いたようだが、ライカに新しい茶と、ラケルドのカップに継ぎ足しをして無言で一礼して二人の元を離れた。
「神の抱擁ですか?」
ライカはもてなしに応えるように一礼を返したが、ラケルドは軽くうなずくようなしぐさをしたのみでカップに口をつける。
「ここは年に二度酷い嵐が来る。それが神の抱擁と神の呼び声と呼ばれているものだ」
「なぜそんな呼び名が付いてるんですか?」
「神の抱擁は春と夏の間に来る嵐だ。激しい雨と共に恐ろしい風が吹き荒れる。だがそれは夏の王の春の女王への愛の証と言われているんだ。それが激しければ激しい程、夏の終わりの実りは大きくなるという事でね」
「夏と春の王ですか、そういえばそういう神様の話を本で読んだ事があります」
「ほお、お前は本を読むのか、それはまた博識だな」
ラケルドは面白そうにライカを見つめる。
「あ、いえ、たまたま機会に恵まれただけですよ。それで神の呼び声は?」
「神の呼び声は冬の嵐だ。これは乾きと共にやって来る。狂えるめしいた神が愛する者を呼ぶ声であり、その間は生ある者を見つければその神は手当たり次第命を刈り取ると言われている」
「それは、すごく怖い話ですね」
「そうだな、確かに神の呼び声は恐ろしいが、神の抱擁も十分恐ろしいぞ。なんせ人には神の抱擁は受け止めきれんものだ。嵐は数日続き、長引く時は両手で数えきる日数を越える。食料を貯め、水を家の中心に集め、家族で身を寄せ合って耐えるしかない。何があろうと決して外に出ては駄目だぞ。例え悲鳴を聞いても耳を塞いでじっとしているんだ。扉を開ければ間違いなく家は破壊されるだろう」
出された茶は少し濃く淹れすぎた茶だったが、走り回ったライカには丁度良い濃さだった。
領主も、ここの隊員達もそうなのだろう。だからこそこの濃さなのだ。
「実は心配な事があるのですが」
「なんだ?」
「レンガ地区に友達がいるんです。あそこの家はとても脆いし、そんな嵐が来て危なくないんでしょうか?」
「ああ、レンガ地区か」
ラケルドはニヤリと笑う。
「あそこはな、最も古い住人達が住んでいる地区だ」
「そう聞いています」
「なので彼らは地の利を弁えている」
「地の利ですか?」
「そうだ、嵐は必ずやや北寄りの西側から果ての山脈を吹き降ろしてやってくる。レンガ地区はこう」
そう言って、ラケルドは剣の鞘で地面に簡単な印をいくつか描いた。
「やや北寄りの西に城、真西に森、南に街の防護壁があって、その全てがレンガ地区にかなり近い。これのせいで嵐の風が入り込み難いのだ。その上、彼らは地下の部屋を持っている。いくつかは繋げて行き来出来るようにさえしてあるぐらいだ」
「そういえば地下に大きな荷物の保管場所がありましたけど、あれが繋がっているんですか?」
「そうだ、この地下の部屋は一つの家が勝手に一つずつ作ったのではない。彼らが皆で協力して作り上げたいわば地下の避難場所なのだ。彼らは嵐の時はここで過ごす」
「そうだったんですか、全然知りませんでした」
ラケルドはいたずらっぽい顔つきをして「そうだろう」と言った。
「彼らの仲間内の秘密だからな。外の人間にはまず教えないはずだ」
ライカは驚いてラケルドを見る。
「それって、領主様はレンガ地区の人達からその話を聞いたという事ですか?」
かの地区の人間が城の人間に対して強い不信感を持っている事を聞き知っているライカとしては、それは少し信じられない話だった。
「いや、聞いたのではない。俺は知らぬ事になっているからそのつもりでいてくれ」
「えっ?」
「俺は知っているが、彼らは俺には知って欲しくないと思っている。だから俺はそう振舞うつもりだ」
「う、難しい話ですね。知らない事にするならどうして俺に話をしたんですか?」
「お前が心配のあまり彼らの所へ押しかけると彼らにとって困った事になるからだ」
「困った事?」
「他人に見せられないのだから、お前がいると安全なそこへ避難出来なくなる」
「なるほど、という事は俺も知らない振りをした方がいいんですね?」
「うむ、物分りが良くて助かる」
「こないだ会った時も感じたんですが、領主様はとても分りにくい方です」
ラケルドは今度は声を上げて笑った。
「そうか、それはすまないな」
「いえ、謎が多い方がお話するのが楽しいです」
ライカの真剣な顔に、ラケルドは笑いの衝動を喉で止めたらしく、空気の詰まるような音が喉から聞こえた。
その反動で咳き込んでしまい、その苦しげな息の下から思わずという風に告げる。
「お前も大概は変わっている」
「それは、とても残念です」
人にはそれぞれの在り方があると理解してからは以前程熱心ではないものの、平凡である事を良しとするライカは少し残念そうにその言葉を受け止めた。
ラケルドはたまらず噴き出してしまう。
「まぁ待て、俺は今ここで笑い死ぬ訳にはいかん。それは今度ゆっくりやろう」
笑いが収まらない様子のラケルドに、ライカは不思議に思いながらもうなずいた。
「それよりお前の住んでいる新興地区こそが一番危険な場所だぞ。大きな木が少なくて家と家の間隔が広いからな」
「家までご存知なんですか?」
ライカは本格的に驚く。
「そりゃあな、お前のおじいさんはいわば俺の恩人のようなものだし」
「え?」
ライカがその言葉の意味を問おうと思った時、ラケルドの雰囲気がすっと切り替わった。
「おっと、詳しい話はまた今度だ。風の音が変わったぞ」
言うが早いか、素早く立ち上がり、その独特の少し跳ねるような足取りで表へと駆け出す。
外に出て見ると、風読みの旗が一斉に東へ向きを変えていた。
「風が変わったぞーーー!!」
「風が変わったぞぉおお!!」
同時に街のあちこちから声が上がった。
声に押されるように通りの店は片付けを始め、もよりの民家からは住人が飛び出し、最後の家回りの点検に入る。
門前に出ていた警備隊員が走って、しかし慌てる事なく門内に入り、まずは班長に告げた。
「目視内に人影ありません!」
「半刻前に確認連絡あり、半徒の内に人影ありません!」
受けて班長が礼を取り、踵を返して領主の元へ向き直る。
「門前確認しました!」
「よし、街門を閉じよ!」
「閉門!」「閉門します!」
強くなる雨と風をついて、それでも通るように訓練された声が交わされた。
門扉を留めていた止め石を外し、片扉に三人掛かりで閉めていく。
軋むような鈍い音と共に扉が閉じ、閂が掛けられ、更に門前に止め石が置かれた。
「閉門完了しました!」
「ご苦労!詰所に6名を残し、残りは風読みの旗を回収し、後に待機任務に移行せよ」
互いに礼を交わし、警備隊の面々はそれぞれの任務へと動き出した。
邪魔をしないようにじっと様子を見ていたライカは、やっと一人になったラケルドに声を掛ける。
「あの、お聞きしたい事があるんですが」
「どうした?おじいさんの話は今度ゆっくりじゃないと無理だぞ」
「いえ、それは今度お願いします。さっきの半徒っていうのは何ですか?」
「ああ」
ラケルドはまた少し笑ったが問いに答えた。
「半徒というのは歩兵が半日で行軍する基本の距離の事だ。つまり嵐が始まる前に到達出来る距離に人がいない事を確認した訳だ。軍隊用語だから分らないよな」
ライカは彼が少し嬉しそうだと感じた。
「俺が分らないと嬉しいんですか?」
「そうだな。軍の事など平和に過ごす一般の人間は知らないのが当たり前じゃないか?そうだろう?」
何か嬉しそうな彼を見ながら、ライカはまたも良く分らないながらうなずかざるを得なかった。
ラケルドの高揚した声の響きに気持ちが引き摺られてしまったのだ。
「さて、無駄口はここまでだ。急いで家に帰りなさい」
今までと違う強い口調で彼はライカに告げた。
「もう来るんですか?」
「後2刻もあるまい、急いで帰って戸締りをした方が良い。食料は足りているか?」
「大丈夫です!」
「ライカ、お前の住居が危険な地区とは言ったが、お前のおじいさんは腕の良い大工だ。毎年来るのが分っている嵐で吹き飛ぶような家は建ててはいないさ。心配するな」
「はい!」
ラケルドの言葉に、ライカの祖父への強い信頼を込めた返事が返る。
ラケルドはまた嬉しそうに微笑んだ。
「神々だろうが人だろうが愛の語らいに余人が入るのは確かに野暮というものだ。我らは邪魔者。しばし退散するとしよう」
手を上げる彼へ軽く頭を下げて、ライカもまた雨に打たれながら走り出した。
「神々か」
幼い頃から人の書いた書物を読んでいたライカには、人の生み出した物語がとても不思議で魅力的に思えていた。
竜族には信仰は存在しない。
存在しないかもしれないものを自分の心の中に育んで、それに強い想いを託すなどという事は、おそらく他のどの生き物にもない人間種族の特徴だ。
「坊や、急げよ!」
見知らぬ住人が掛けてくれた声に応えながら走り抜けると、家の表に祖父が立っていた。
「何をしとる!年寄りに余計な心配掛けるんじゃないわい!」
「ごめん、じぃじぃ」
「ホレホレ、早く入って着替える着替える」
風の音が遠く尾を引く叫びに聞こえ始める。
「おお、はじまったわい。さぁさぁ夫婦喧嘩の邪魔をすると吹き飛ばされるぞ」
「ええ?夫婦喧嘩なの?抱擁じゃないの?」
「お前はまだまだ青いからのぅ、抱き合う前には一戦やるのが夫婦というものよ。悪口の一つも言えずに夫婦はやっておられん」
祖父の目は真剣だった。
「ああ、うん、そうかもね。ちょっとだけ分かる気がするよ」
ライカは竜族の求愛を思い出す。
圧倒的に強大な女性に対し、男性が果敢に羽根を叩き付けるのが竜族の求愛だ。
女性の激しい反撃にどれだけ耐えられるかが彼女達の男性選びの判断基準となるらしい。
といっても、ライカはそれを実際に見た事はなく、話だけでしか知らないのだが。
「そうか、ふむ、お前も大人になって来たんじゃな」
「そうだといいけどね」
風に背中を押され、転がるように入った家の中は暖かく、安心感があった。
祖父の作った家に不安を感じる事はない。
「それでは、ほどほどにお願いしますぞ」
祖父がうやうやしく戸口へと、いや、愛情を確かめ合おうとする神々へと一礼した。
長い昼と夜を幾度と無く越えて、変わり行く季節をはっきりと指し示す、猛々しい神々の抱擁が始まる。




