第二十三話 歪な尊さ
メランは家への道を辿りながら周囲を窺う。
貴族の屋敷が立ち並ぶこの周辺は、相変わらずの塀と門と道同士を繋ぐ中庭という単調な構成で変化はほとんどない。
メランはふと、以前ミアルに聞いた事を思い出した。
どうやら下町は、家と家との間に塀が無く、家の形や大きさも様々で何がどこと繋がっているのか良く分からない通路や階段が存在するらしい。
いわゆる貴族街や、その出入り商の店ぐらいの行動範囲しか持たないメランには、どうもそれらの話はまるで見知らぬ別世界の話にしか思えなかった。
そんな、メランにとって慣れた単調な道程でなぜ今更周囲を確認していたかと言うと、自分の周囲に護衛の影が見えないか?と探っていたのだ。
メランは父が自分をひっそりと護っているという自分の立てた仮説を確認してみたかったのである。
「ミアルの言うような人間の気配とかいう代物は俺にはさっぱり分からんし、木立や塀の影とかにはいかにも何か潜んでいそうで逆に思い込みという事もありそうだ」
しかし、とメランは考える。
護衛というものは諜報活動を行う、いわゆる影に潜む仕事とは違う。
護衛対象を守る事は当然として、護衛対象を狙う連中に対する牽制となる事も大事なのだ。
つまり完全に姿を隠してしまっては、その役割が半端にしか果たせなくなってしまうという事だ。
そうであるならば、ある程度訓練を積んだ人間になら簡単に見つかるぐらいの隠れ方をしているに違いないのである。
メランは道の途上で大きく背伸びをして周りの様子を再び窺った。
ふと、視界のすみでちらりと何かが動いたように見える。
そちらへ顔を向けると、今度は逆側の視界の端で動きがあった。
「うん、まあそういう事なんだろうな」
貴族の屋敷を訪問する時に事前に通知をしておく事は当たり前のマナーである。
体面を重んじる貴族にとって、準備不足で客を迎えるなどとんでもない話だし、なにより下働きの者達の予定が狂ってしまうと、混乱が生じて彼らに負担を掛けてしまう。
全ての物事を予定通りに進めるのが、ある意味貴族という存在の特徴なのかもしれない。
知らせを受けた貴族家では様々な準備をしてお客を迎える。
護衛を付けるのもそういった準備の一環と思えば変な話とは言えないだろう。
「腹芸が得意な人間ってのは悪意はもとより好意も隠すって事か」
メランはもはや呆れて良いのか感心すべきかすら分からなかった。
普段と違う時間に屋敷に戻ったメランを、屋敷の人間はまるで毎日行っている事のように粛々として出迎えた。
一旦部屋に戻って学生らしいトーガ姿から部屋着に着替える。
控えた側付きの使用人に両親の場所を聞くと、テラスのある部屋にいて、そのままそこで食事にするという事を聞かされた。
母の為に設えられた異国風の調度品と異国風の庭、この屋敷の中でさえ、母の行動範囲は狭い。
部屋に着いておとないを告げて扉を潜る。
この瞬間にメランは精神的な覚悟を決めるのが習慣だった。
そうやって意識を切り替えないと、耐えられないものがあるのだ。
まだ陽が沈んでしまってはいない庭は、まるで単色の絵の具で塗りたくったように薄いオレンジの色合いに満ちている。
その庭を眺めながら、メランの母は手仕事をしていた。
小さな何本かの棒に糸を通して花のような形を作り、それらを組み合わせてストールのような物を作る繊細な手仕事で、いかにも貴族女性らしい趣味と言えるだろう。
そんな母を長椅子に身体を預けてただひたすら眺めているのがメランの父だ。
「お帰り、勉学に励んでいるかね?」
「はい、ご厚意に応えるべくつつがなく励んでおります」
「そうか」
メランを見る事なく、まるで義務のような会話を終えると、その父たる人は後はひたすらに母の姿を目で追っていた。
メランは部屋のあちこちに置かれた長椅子の一つに体を預けると、いつもならその二人の方を見ないようにして目を閉じるのだが、この日はあえて二人の方を窺った。
父と母、まるでその様子は一服の絵画のようでもあった。
そこだけ時が静止しているかのようにも見えるせいだ。
メランの父は、母より十近く年上で、母と出会った時には既に妻子があった。
それにも関わらず当時まだ少女の時を終えようとしていたぐらいの母にひと目で囚われてしまったのだという話である。
本人達が何も語らないので、メランの知っている話は周囲の人間から漏れ聞こえて来た噂話でしかないが、何はともあれ、父は積極的にこの異国の姫君の虜囚であろうとした。
一見、この館に閉じ込められているのは母の方だが、実際は心を囚われているのは父の方なのだ。
母は決して誰にも変えられる事のない人であるがゆえに、その相手に心囚われた者は、まるで止まった時の中にいるかのようなその世界の住人に自分もなるしかないのである。
(幸せそうだな)
メランは父の口元に笑みがある事を、この時初めて気付いた。
まるで何かの呪いに掛けられたかのようなこの光景をずっとメランは恐れて来たのだが、今ようやく彼らの心情に触れる事を試みる気になったのだ。
(それでもやはりここは異常な世界だ。幸福という言葉はこの場所に入り込む余地がない)
だが、そういう両親の有り様を、メランはようやく、受け入れる事にした。
いや、受け入れても良いと思えるようになったと言うべきだろう。
父が、この人が、母や自分に対して抱いている思いは、確かに愛情と呼ぶ事が出来る物だと考える事が出来るようになったのだから。
とは言え、やはりメランにとってもはやこの家は自分の家たりえないのは確かだった。
幼い頃からずっと胸に抱いていた違和感は、今日この時に、はっきりと彼に告げたのだ。
ここは未来のない場所だと。
翌日、塾に戻ったメランは自分の受けるべき授業へと向かう道すがら異様な光景を見掛けた。
第二王子たるイアースが誰かともめていたのだ。
「今の言動を撤回したまえ」
「も、申し訳ありません!」
普段は誰に対しても人当たりの良いイアースには珍しい険しい顔だった。
「謝罪の必要はない。自分の過ちを認め、認識を変えると約束してくれれば良い」
「し、しかし殿下」
「反論も必要ない」
メランは眉根を上げた。
仮にも塾で学ぶ相手に論ずるなというのは異常だ。
彼がここまで拘るのは大体決まっている。
兄の第一王子、本来なら皇太子であるべき相手の事だろう。
「殿下」
このままではその話題の元の第一王子はもとより、イアース自身の名にも傷が付きかねないと感じたメランは何気ない風に声を掛けた。
「どうかいたしましたか?」
王子にいきなり話しかけるなど、本来なら失礼極まりない行為だが、この塾内では身分は一時的に平等となっている。
「ん?ああ、メランか。気にするなちょっとした間違いを正しているだけだ」
我を失っている訳ではないが、譲れないという所だろう。
そう判断したメランは、王子に詰め寄られていた相手を観察した。
彼は不服そうだった。
つまりは自分は正しいと思っているのだ。
正しいと思っている相手の言葉を権力で曲げてもそれは相手の正しいという確信を更に増してしまうだけだ。
メランは何気なさを装ってその相手に言葉を掛ける。
「もしかして、本当に言いたい事を間違ってしまったのではありませんか?言葉選びは本職の論者でも難しいですからね」
「ん?あ、ああ、その通りだ。殿下、その、私の言葉選びが違っていたようです」
相手はこれ幸いと乗って来た。
「今の発言に言葉選びも何もないと思うのだが」
「私はその、兄君を悪しざまに言った訳ではありません。兄君を苦しめる病弱という有り様を悪いものと述べただけなのです」
「それは結局兄上への非難ではないのか?」
「いえ、滅相もありません。そんなつもりはさらさらありませんでした」
かなり苦しい言い訳だが、なんとか逃げ道はある。
この青年確かどこかの貴族家の跡継ぎだったはずだ。
彼ら高位貴族は一度口にした言葉を翻す事は戦って負ける事よりも恥とする。
ましてや権力に膝を屈してそれを行ったなどと評判になればもはや貴族達の間での立場は酷いものになってしまうのだ。
だからこういった場合にはうまい事逃げ道を作って、誤解させた事を謝罪するという形に持っていくのが常套手段なのだが、どうやらまだそういう巧みさを身につけきれていないようだった。
あるいは相手が王子なので言葉に苦慮していたのかもしれない。
ともあれこんな事で後々の王子達への災いの種を蒔く必要はない。
イアースは不満そうではあったが、さすがに空気を読んだのだろう。
一つ頷いて彼を開放した。
「謝罪を、殿下。私の至らぬ言葉でお心をいたずらにお騒がせしてしまった事、申し訳ありません」
「よい。次からは言葉に気を付けるように心せよ」
相手は一礼をすると逃げるようにその場を去り、去り際にメランにも目礼をよこした。
それにしても、と、メランはため息を吐く。
第一王子の話題はただでさえかなり注意を払うべきものだと言うのに、それをうっかり第二王子の前で口にするとか、自殺願望でもあるのだろうかと呆れたのだ。
「悪い、助かった」
イアースが小声で告げてその場を離れた。
王族は一度口にした言葉を取り消せない。
どうやら彼自身も途中で頭が冷えたのだろう。
周囲で成り行きを伺っていた者達も三々五々と散って行く。
つくづく貴族王族というものは面倒な連中である。
メランは今の一件を頭から追い出すと、足早に教室へと向かったのだった。




