第二十二話 変わりゆくもの
「これを」
メランは寮の入り口にある受付に今風の粘土板を焼いたメッセージを託した。
彼は流行に敏感な父である男を思い浮かべる。
まだ珍しい粘土板での文に興味を抱いて、他の文より先に目を通すであろう事を見越しての事だ。
父とは別に屋敷にも連絡を入れる。
こちらは口頭で使者を立てれば良いので簡単に済ませる事が出来た。
手続きを終えたメランはそのまま寮の庭へと出た。
取っている授業によってはまだ講義が終わっていない時間帯なので周囲に人が少なく、のんびりと出来る。
庭は細かな白っぽい丸石の敷き詰められた小路を中心とした造りで、いくつかの彫刻が木々の間に配置してあり、所々にベンチとテーブルが設置してある。
寝転んで日の光を浴びる事が出来るようなちょっとした空間もあり、貴族の子息達が寛げるように考えられている事が分かる造りだ。
「あの」
目立たずにのんびりと読書が出来る場所でもないかと目で周囲を探っていたメランは、呼び止められて足を止めた。
振り返ると、一人の少女が緊張した面持ちで彼を見ている。
その相手に見覚えがなく、メランは首をかしげた。
「ライカさんと同室の方ですよね」
「ああ、ライカに用事なら」
竜舎の方を指差そうとしたメランに少女は首を振る。
「良いんです。これを返して頂きたいだけなので」
見ると、少女は何か私編の冊子のような物を抱えていた。
メランはますます首を傾げる。
「何か借りたというのなら、なおさら本人に返すべきだろう。同室者に渡すというのは不実というものだ」
「ごめんなさい、でも私」
少女はうつむき気味に応える。
「私の家の格はそんなに高くありません。ライカさんと直接会ったりすると、ウーロス家に逆らったという評判が立つかもしれません。困るんです」
メランは眉根を寄せたが、少女の言い分は尤もだった。
貴族の社会では噂話は致命傷になる。
出来るだけ悪意が集中する場所とは距離を取りたいと思うのは貴族としての本能のような物だろう。
しかしそれならそれで、
「それが分かっていて、なんで借り物などしたのです?」
それが疑問になる。
関わりたくないのなら最初から関わらなければ良いのだ。
何かを借りるなど、繋がりの中でも深い物に数えられる。
貴族の人間というものは、親しくない相手とでも贈り物を贈り合う事は習慣的に行うが、あまり貸し借りはしない。
贈り物はそこで一度関係が終わるが、貸し借りという物には密接な繋がりが長く生じるからだ。
つまり貸し借りを行うという事は外からみれば派閥として一括りに見られる可能性があるのだ。
「あの方が、ライカさんが貸してくださったのです。食材を間違えて料理長に怒られている所を見ていて、『分かりやすい絵解きの一覧を持っているから』と」
それはいかにもライカらしい行為だった。
私編の冊子の事典など他人にくれてやれるような物ではない。
金銭的価値以上に貴重な物である場合が多いからだ。
そもそも貸す事自体が有り得ないのだが、ライカにはそういう物欲的な部分が薄い所がある。
「それで、勉強になったのかな?」
「はい、とても分かりやすい絵解きの事典でした。ですから写しを取らせていただいて、やっとそれが終わったのです」
「へぇ」
この少女の家格は分からないが、なかなかに教養があるようだった。
家によっては女性にはそもそも学問的な教育は施さない事が多い。
つまり読み書きが出来ない貴族の女性は案外と多いのだ。
更にその上、絵心があるという事は芸術的な手ほどきも受けているに違いない。
メランは少し迷ったが、素直に受け取っておく事にした。
この塾では圧倒的に生徒の立場が強い。
行儀見習い的に特別に勉強に来ている少女達はちょっとした事で危険にさらされる場合もあるのだ。
中には寮勤めの貴族の子女などは高位貴族の子息に手出しをされる事を望んでいるなどと考えている連中すらいる。
「分かった、君がとても感謝していたと伝えておくよ。君の名前は?」
「シーマです。でも、ライカさんは私の名前を知らないと思います。食堂の手伝いの一人と言っていただけたらよろしいかと」
「ああ、分かった」
名前も聞いて無かったのかと、さすがにメランは呆れた。
貸したまま返って来なかったらどうする気だったのだろう。
すっと腰を落として礼を取り、そのまま走り去る少女の背中を見詰める。
おそらくきちんとした教育を受けているのだろう。
基本的に貴族は約束を違えない。
約束の内容をわざと誤解させたり、何かと理由を付けて先延ばしにしたりはするが、約束をあからさまに無視するような人間は貴族社会では生き残れないのだ。
そういう意味で、少女は女性でありながらも貴族的な人間であると言えるだろう。
メランは部屋に戻ると、ライカが戻って来るまでの間、くだんの事典を眺める事にした。
「なるほど、これはあれだな、共通目録というやつだ」
しばし眺めてメランはそう結論付けた。
共通目録というのは学問の為に編纂された書物ではなく、商売人などが取引などに使う為に収集した認識を共有する為の事典の事だ。
物の名前というのは地域によって異なる場合があるので、それで取引に齟齬を生じないようにする為に使われる物で、その内容も動植物から道具類まで多岐に渡っていてある意味とりとめがない。
ライカが少女に貸したという目録は主に食用植物や薬草類を纏めた物のようだった。
しかもかなり専門知識のある者が筆入れをしているようで、特徴などが詳細に記されている。
「これは結構面白いな」
結局入り口から入室の問いかけがあるまですっかりメランはそれを読み込んでしまった。
「ただいま」
「ああ、お帰り、預かり物があるぞ。写しを取って勉強したとかで随分感謝していた」
メランの言葉にライカはその手にある物を確認して微笑んだ。
「そうか良かった。ありがとう。大事な物だから嬉しいよ」
「そんな大事な物を知らない相手に貸したのか?」
「ん?知らない相手じゃないよ。毎日食堂で会ってる人だよ」
「名前も知らないんだろ」
「別に名乗り合わなくてもどこで何している人かは知ってるから問題ないだろ」
ライカはいつものように本気だった。
こういうのは庶民的な認識なのか?とメランは思う。
元々貴族ではなかったライカの考え方はメランには突拍子もなく感じられる事が多かった。
「まぁそれはともかく、これはなかなかおもしろいな」
「それだったらメランも読むと良いよ。読み終わったら返してくれれば良いし」
ふむ、と、メランはライカの一貫した考えを飲み込むと、頷いた。
「それだったら借してもらう。ライカが必要な時は言ってくれ」
「大丈夫。それもう覚えたから特に必要になる事はないよ。でも時々眺めてると、幸せな気持ちになるから大事にしているだけだから」
「え、これ全部覚えたのか?」
「うん」
メランは分厚い冊子を見ながらちょっとした驚きを味わった。
メランとて貴族家の家系図などを暗記していたりはするが、これは形から効能、様々な地域での呼び名、更には相場価格までが記されている。
普通は商売の時に確認しながら取引をする為の物のはずだ。
「お前ってつくづく面白いな」
「突然なに?」
「いや、まあ良いけど。あ、そうそう、今日俺はこっちで食事しないから食堂では絡まれないように注意して食事するんだぞ。間違っても相手の間違いを指摘してのっぴきならない状態に追いやったりするんじゃないぞ」
「俺をなんだと思ってるのさ」
「う~ん、トラブルを招く特殊な才能を持っている奴、かな?」
「本気じゃないよね?」
そんな気安い会話を交わして、メランは外出準備を始めた。
「戻りは明日の午前中になると思う。まぁその間せいぜい一人の部屋を満喫してくれ」
「分かった」
部屋を後にしながら、メランはふと、今の自分を去年の自分が見たらどう感じるだろうかと考えた。
こんな風に気安く会話をする相手が出来るなど、あの頃の自分は予想もしていなかったはずだ。
「人生ってのは案外と面白いものなのかもしれないな」
どこか生きる事に投げやりだった自分がそんな風に感じる時が来るとは、そう考えてメランはつい、一人で声を出して笑ってしまったのだった。




