第九話 お日様の下の干し藁の話
ガッ!ゴッ!という硬い物が人を打つ音が響いている。
厩舎から回り込んで裏側に到達したメランは目前の光景が上手く飲み込めなかった。
「おのれ!くそっ!」
「やめてください。理由もなく暴力を振るう意味が分かりません」
一人の青年が樫の棒でメランの同室の少年、ライカを殴っている。
それはもちろんメランの想定内の出来事だった。
出来れば大事になる前に、つまり大怪我を負う前に助けなければならないと思って急いで駆け付けたのだから。
貴族の子弟は剣術の訓練は行うものの、実は直接的な暴力に慣れていない。
そのせいで、この手のリンチを行うとやり過ぎるきらいがある。
相手がそれなりに溜飲を下げ、やられた方が大きな怪我を負わない段階で上手くストップを掛けないと、下手をすると殺人にまで事が及ぶ場合があるのだ。
有名な話では年若い貴族の少年がリンチの末殺されて、その兄がリンチを行った貴族の子弟に決闘を申し込んだ騒ぎがあった。
数年前の話だが、塾の存亡が危ぶまれる程の大騒ぎになった事で、それ以降この手のリンチは厳重に禁止されている。
しかし、人と人が関わり合う狭い世界で摩擦はどうしても生まれる物だ。
何事も理性で割り切る事が出来ればこの世から犯罪はもっと減るだろう。
結局はそれ以降もそれなりに影に隠れての暴力沙汰は続いていた。
しかし、今、メランの目前で繰り広げられている光景は、そういった単純な暴力沙汰とは違う何かだった。
棒はライカの頭を庇う腕や背、腰や胸などに叩き込まれているのだが、それをされている方のライカは痛そうな顔すらせずに相手を制止する言葉を発している。
一方で殴っている方は顔が真っ赤で、びっしょりと汗をかいていた。
その光景を目にしたメランは、一瞬止めるのも忘れて呆然としてしまった。
それだけそれは彼の理解を超えた光景だったのだ。
メランは、ふと、殴られているライカの周囲がほんのり金色の光を帯びているように見える事に気付いた。
(なんだ?)
「ウィヒヒヒィイイイン!」
馬の鋭いいななきがそんなメランの思考を破った。
「おい!いい加減にしろ!」
メランの声に全員の視線が集中する。
メランは意識して姿勢を正して目つきを細く鋭くし、声を低く恫喝のような声音を作った。
「塾では届け出のない私闘は禁止されていて、それを破ったら放校という規則があるんですけど、当然先輩方はご存知なんですよね?」
「なんだと!貴様には関係ないだろう!」
「おい、ヤバイ、もう良いだろ?」
年長の塾生達はさすがにその規則を知っていたらしく、暴力に直接参加せず見張り役だった二人は落ち着きなくその場を去ろうとしていたのだが、ライカを殴っていた青年だけが、何かガクガクと震えながら尚も棒を振りかぶった。
それはまるで、目前の悪夢を払うようながむしゃらな行為だ。
「くそっ、こいつ!」
バキンッ!と鈍い音がして樫の木が折れ飛ぶ。
ギョッとしたメランは慌ててライカに駆け寄った。
殴った当人はまるで自分が殴られたかのように「ヒィッ!」という悲鳴じみた声を上げて、脱兎のごとく逃げ出し、それに他の二人が追従する。
とは言え、メランは彼らに構っている場合では無かった。
「おい!大丈夫か?」
「あ、うん。もしかして探してくれたんだ?ありがとう」
心配して声を掛けてみれば殴られたはずの当人はけろっとしている。
普通硬い樫の木が折れるような殴られ方をして無事のはずがない。
メランはそう考えて、ライカの殴られたはずの腕に触れてみた。
一瞬、メランはぴりっと指先に痺れを感じて反射的に手を離しかけたが、自分を制してライカの腕の具合を探った。
「どこも、なんともない?」
呆れた事に袖を捲ってみても青あざ一つ無い。
「うそだろ?」
思わず同室者である相手、ライカの顔を見上げると、なぜか嬉しそうにニコニコ笑っていた。
「前から思ってたけど、メランって凄い面倒見が良いよね」
「え?何言ってるんだお前、それより本当に大丈夫なのか?」
「あ、もしかしてさっきの?うん、大丈夫、ああいう風にぶつかって来る力は受け流せばどうって事無いんだよ」
え?本当に?いや、まさか無いだろ?ごまかされないぞ、と、メランが頭に浮かぶ疑惑と戦っている間に、ライカは悠々と干し藁の方に歩いて行き、ぼふん!とばかりに体を投げ出す。
「う~んいい匂いだな。うちの寝床に似てる」
「何言ってるんだ、干し藁の匂いだろうが」
「うちの寝床はじっちゃんが干し草で作ってくれた物で、時々屋根の上に干して乾かすんだ。すっごく良い匂いがして大好きだったな。サッズがこういうの好きで、俺も子供の頃から良く集めてたから余計にね」
「何言ってるんだ?」
メランにはライカの言葉がさっぱり理解出来なかった。
干し藁は馬や竜などの寝床に使う物で人間が寝床にするような物ではない。
そうして、ふと、メランは思い付いた。
もしかして、ライカは牧場主か何かの子供だったのではないか?と。
「もしかしてお前、馬や竜と一緒に暮らしてたのか?」
一緒に寝たりする程に親密に、家畜と家族のように暮らすという遊牧の民がいるという話をメランは聞いた事があった。
彼らは優秀な馬使いであり、戦時中に勇猛な戦士として多くの国から引っ張りだこだったという。
「え?良くわかったね。うん、俺小さい頃は竜と暮らしてたんだ」
「なるほどね」
竜か、と、メランは少々の驚きと共にその事実を受け入れた。
竜は気難しく、危険な獣で、飼い慣らすには竜使い達の間に伝わる特別な口伝の技が必要だという事だった。
竜使いとなれば下級貴族などよりよっぽど高位であり、大切にされている。
また、気性が荒い竜と暮らすので、世の中の身分制度に囚われない奔放な気性の者が多いと言われていた。
「まぁそういう事なら常識を知らないのも仕方ないか。それにしても全然違う世界に飛び込んだもんだな」
「そうだね、ちょっと色々戸惑う事も多いけど、俺は好きだよ、人間の世界」
「あ、ああ、うん、まぁそういう事なら、はぁ」
メランは思わずため息を吐いた。
結局これは厄介事に繋がるのだ。
しかし、メランはあの、毎日全く同じ生活を繰り返している母の事を思い浮かべる。
何も変化が無いよりは、大きな異端という存在は、メランにとってよほど歓迎すべき相手に思えた。
「まぁしかし、怪我が無くて良かったよ。肝を冷やした」
「え?大丈夫?ごめん」
驚いたようにマジマジとライカはメランを覗き込んだ。
メランは思わず吹き出してしまう。
「いや、あはは、なんで俺が心配されてんの?なんていうかお前って変な奴!」
「?俺は普通だよ、っていうか平凡に振る舞うように頑張ってるからね」
「何言ってんだ?やめろ、笑わすな!」
メランはゲラゲラと笑い出した。
ライカはそれを理解出来ないように眺めている。
「メランって時々変だよね」
「お前が言うのかよ!やめろって!」
とうとうメランは笑いの発作を自分で止められなくなってしまってゲラゲラ笑い続けた。
(ああでも俺、こんな風に笑ったのいつ以来かな?もしかして初めてなんじゃないかな?)
メランは笑いすぎて苦しい程になりながらも、そう考えて、少しだけ世界の見え方が変わったような気がした。
きっと本当は何も変わってはいないのだろうが、違う世界と出会う事でメランの世界はその色合いを変えて行こうとしている。
それはかの隠者が教えた事そのもののようでもあった。
「出会いこそが変化、そして変化こそが生きるという事か」
その後、二人は騒がしい厩舎の様子を見に来た馬丁によって、干し藁を散らかした事を盛大に怒られたのだった。




