第二十五話 レンガ地区の子供達 其の一
ライカが初めてレンガ地区の子供達と知り合ったのは、まだ街に来て間もない時分だった。
ミリアムの店に宿を決めて、祖父が仕事と家を探しながら可愛い女の子にちょっかいを掛けていた頃だ。
レンガ地区は領主がまだいない頃、つまりこの街がどこの国でもなかった頃からの住人がほとんどを占める地区で、未だに領主、ひいては国に完全に気を許してはいない住人が多く、しかも元難民で貧しい者が大半を占めた。
レンガ地区の名前の通り、その一帯の家は日干しのレンガと泥で作られており、とても脆く、壁に寄り掛かるだけで壁が崩れてしまう程だ。
しかし、古参の者達が多いだけあって土地の様子に詳しく、現在増えつつある旅行客の案内の資格を得ている者が最も多い地区でもあった。
おかげでここ最近は彼らの経済状態も、急激にではないにしろ改善傾向にはある。
だが、今の所彼らを養っているのは自分達で開拓した畑で作っている作物で、痩せてはいるが、日持ちがして収穫量の多い地芋と、同じく乾きに強い豆を主に栽培していた。
彼らが国の保護の無い時期を飢え渇きながらも乗り越えられたのは一重にこれらの作物のおかげだったのである。
なので、この地区の大人達は、朝は鳥よりも早くに起きて畑作業に行き、午後に帰る生活で、それは妊婦だろうが、小さい子供がいる母親だろうが変わらない日課だった。
必然的に朝から昼までの間は、この地区は子供と畑に出られなくなった年寄りばかりとなる。
その日、ライカは城の壁沿いに北から南へと歩いて街を見て回っていた。
表門の周辺は右手には頑強な城の外壁、左手には人工の水路があり、洗濯している女性達や水浴びをしている人達が集っていて、中々に賑やかな通りではある。
だが、やがて水路から離れると、人影も減り、人気のない白けた茶色のレンガで出来た小さな家家が並び始めた。
そこでは入口は布で仕切られた、ほぼ素通しの家が四角く不規則に、そして複雑に並び、ほとんど迷路のようになっている。
そもそもどこからどこまでが一つの家かすら良く分からない状態になっていた。
「…タルが…に……ぼう…ねん…」
どこからか子供の声が微かに聞こえて来て、ライカは足を止めた。
その声は言葉に高低をつけ、滑らかな連なりで語られている。
今まで聞いた事のない調子で届く声に、なにか心牽かれて、気が付けばライカはその声をたどっていた。
やがて、奥まった家の傍らの、背の高い草に覆われた狭い通路のような場所で、小さな子供が、更に小さな何かを抱いて語りかけているのを見い出した。
「大きな川をタプンコタプンコ~流れ流れて夜の夢~揺れていずこに流れても~ぼうやねんねん起きてはならぬ~泣いたら怖い鬼が来る」
「それはなに?」
ライカはそっと声を掛けた。
子供はその声にびくっと顔を上げて、そこにいるのが大人ではないと見て安心したのか、おずおずと口を開いた。
「子守唄」
「子守唄?……ああ、歌か」
初めて人間の歌を聞いて、ライカは少し不思議に感じた。竜や動物達の歌は基本的に響きに感情を乗せるものだ。
しかし、人間の歌というのは言葉に音を乗せているような感じがする。
そこには人間にとって言葉こそが他者に何かを伝える際に最も重要なものなのだという主張があるようにライカには思えた。
それはライカにとって少し不思議な事だった。
「兄ちゃん、どこの人?」
子守唄を歌っていた小さな子供は、ライカを警戒しているのか、やや逃げ腰に窺うような上目使いで見ている。
「今度この街に来たんだ。知らない事が一杯あるから色々教えてくれると嬉しいな」
ライカは、警戒心を和らげようと腰を落とした。
どんな生き物でも、相手の目線で対峙するのが友好的に振舞う基本である。
「他の街から来たの?」
子供はそれでも警戒を解かず、問いを重ねた。
どうやら胸に抱いているのは更に小さな人間の子供であるようだ。
幼い家族を持つ生き物が強い警戒心を持つのは普通の事なので、ライカは根気良く接する事にした。
「いや、街じゃなくて人があんまりいない遠い所から来たんだ。だから色々変な事を言ったりしたりするかもしれないけど、驚かないで色々教えてくれると嬉しいな」
相手は、ライカが自分のような子供に丁寧な言葉使いをする事が不思議であったようだ。
ライカの顔をまじまじと見て、眉根を寄せて一人うなずいた。
「そっか、世間知らずなんだね、兄ちゃん」
その子は、腕の中の小さな子供を抱き直すと、ライカを哀れむように見る。
「それじゃ、いい事教えてあげる。ここいらで誰にでも話し掛けると危ないよ。貴族に恨みを持ってる人とかいるし、お城の人と思われたら怪我をさせられるかもしれない」
「そうか、教えてくれてありがとう」
にこりと笑ってライカが言うと、その子は顔をしかめた。
「兄ちゃん変なやつ」
「世間知らずなんだろ?」
自分の言った言葉を返されて、子供は一瞬、むっとした顔をしたが、すぐに吹き出し、お腹を抱えて大笑いしだした。
びっくりしたのか、眠っていたらしい腕の中の小さい子供が目覚めて泣き出す。
おかげでその場は笑い声と泣き声で俄かに賑やかになってしまった。
「なんだ、セヌ、ガキ泣かせんなよ。うっさいぞ」
「だってこの兄ちゃんが、おかしいんだもん」
驚いた事に、狭い家と家の隙間の路地のようなこの場所に、少年が上から降ってきた。
ライカと対峙していた子供より少し体が大きいが、年が上かどうかはライカには判断し辛い。
「なんだ?てめぇ。ここらは兄貴が締めてんだぜ?勝手にうろつくんじゃねぇよ」
「兄貴って君のお兄さん?締めてるってどういう事かな?」
少年の言葉の意味が理解し辛く、書物による知識の付け焼刃が怪しくなって来たライカは少々焦った。
実際、他人から見れば彼などは最初の子供に言われた通りの世間知らずでしかない。
「ぐっ、」
後から現れた少年が、何かを飲み込んだような声を出したかと思うと、彼もまた笑い出してしまう。
「た、確かにおかしいや、こいつ」
言いながらライカをつつく。
「なんかおぼっちゃんおぼっちゃんしてるな。いいとこのガキなんじゃないか?」
ライカは少し考え込んだが、口を開いた。
「自信はないけど、おそらく俺の方が君より年上なんじゃないかと思うんで、そんなに子供っぽいって事はないんじゃないかな?」
二人が再び吹き出し、大笑いする。
小さな子供がつられるように更に大きな声で泣き出してしまった。
ライカは何が悪かったのかが分らず、すっかり困惑して彼ら3人を見つめるしかない。
「何騒いでるんだ?アニキにみっかると怒られっぞ」
またしても、今度は隣の家の壁と思っていた場所の下から男の子が現れた。
今度の少年も、さっき上から降ってきた少年と同じくらいの体の大きさだ。
「変なやつが紛れ込んでるんだよ、兄貴にはまだ言うなよ。あの人気が短いからいきなり殴っちまうかもしれねぇし」
「う~ん、他所もんだろ?殴っていいんじゃねぇの?」
「ばっか、騒ぎになって警備隊に突っ込まれるとどうなるかわかってんのかよ?あいつら片手一本で俺らなんか捻り上げるんだぞ?」
「ううう、そういや、こないだセグリの父ちゃんがあっさり取り押さえられてたな」
「特に風の隊の金髪の班長はやべぇからな」
「あいつ、大貴族ってのは本当なのかな?」
「ありえねぇよ、あんな貴族がいてたまるか、箔を付ける為に自分で流した噂だろ」
少年達が自分達の話に夢中になってしまい、すっかり置き去りにされた感じのライカであったが、ライカはライカで後からやってきた少年の服に意識が向いていた。
「それ、絵本の一部だね」
少年が上衣に縫い付けている皮紙は色鮮やかな絵が描かれており、飾り文字の添え書きがある。
ここら辺りで使われている文字ではなかったが、ライカは白の王セルヌイの書庫でありとあらゆる書物を読んでいたので、その文字も問題なく読めた。
実の所、ライカはセルヌイの影響で、かなりの書物好きなのである。
「え?これ?うちのばぁちゃんが放浪してた時にどっかで拾ったんだよ。綺麗だからって僕の服に縫いこんでくれたんだ。ところで絵本ってなに?」
「絵本は絵に物語が付いた読み物だよ。ちょっと昔は流行っていたみたい」
「ちょっと昔?」
「うん、戦争が起こる前ぐらい」
「すんごい昔じゃんか」
「あ~そうかな」
ライカは竜王達に話を聞いているので彼らの感覚でつい時間を感じてしまうが、考えてみれば彼自身が生まれるずっと前の話である。少年の感覚の方がどうやら正しいと、ライカは知識を修正した。
「おい、ネズミの尻尾!なによそ者と話込んでるんだよ。馬鹿か?」
「ネズミの尻尾って名前?」
気になってライカは聞き返す。
「あ、僕の隠し名だよ、いつも隙間からちょろっと出てくるからネズミの尻尾なんだって。アニキが付けてくれたんだぜ」
「隠し名って?」
「仲間で行動する時は本名じゃなくて隠し名で呼び合う決まりなんだ」
ガコン!とその少年の頭に拳が落ちた。もう一人の少年の仕業である。
「痛い!なにすんだよ地走り」
「ぼけかてめぇ!何余所者に仲間内の決まり事をペラペラしゃべってんだよ」
またも二人で揉め始めたのを頭を捻りながら眺めていると、横から服を引っ張られてライカはそちらへと振り向いた。
「ねぇねぇ、絵本の話だけど、あんた字が読めるの?」
先程セヌと呼ばれた、(恐らく)少女がそう聞いてきた。
「うん」
ライカの返事に彼女はパッと顔を輝かせたが、一瞬後にその顔を暗くする。
「あんた余所者だもんね、この辺にいてボスに見つかったら酷い目に合わされるね」
「ボスって?」
「あいつらのアニキ」
未だに言い合っている二人を指してそう言うと、セヌは小さい子供を抱えたまま肩をすくめてみせた。
ライカはその様子が気に懸かり尋ねてみる。
「さっきは何が言いたかったの?字の読み方を習いたいとか?」
「まさか!」
セヌはぶるぶると首を横に振った。
「女が字なんか読めたってろくな事にはならないよ、世の中には知らないって事が武器になる事もたくさんあるんだからね。だけど、」
「だけど?」
「実はうちの死んだじいちゃんが、あたしが小さい頃絵本を読んでくれてたんだよ。だけどもう死んじゃったからさ、この子に本を読んでくれる人がいなくなっちゃったんだ。ここらには字が読めるやつなんてほとんどいないし、読める奴がいたならいたで、そんな働き口の多そうな奴に子供に構うような酔狂はいないからね」
「そうか、じゃあ良かったら俺がその本を読んであげようか?そうして欲しかったんじゃない?」
「うん、だけど……ここのボスは気性が荒いんだ。今ならまだ見つかってないからすぐ帰れば大丈夫だけど、ここにしょっちゅう来てたら見つかっちゃうだろ?」
「俺は余所者じゃないよ、この街に住む事になったんだから。ここに来る時間ぐらい取れると思うよ。同じ街の中なんだし」
「……あんた人の話ちゃんと聞いてないだろ?」
怪しむようにセヌは言うと溜息をついた。
「まあいいや、本人が良いっていうなら来てくれると嬉しいよ。男どもの縄張り争いなんかあたいが心配する事じゃないしね」
「ああ」
ライカはやっと彼らの問題にしている事を理解してうなずいた。
「そうか、この辺りは君たちの縄張りだから群れの長に挨拶をしなきゃ出入りを許されないって事なんだね?ごめん、俺、すっかり人間にはそんなものはないと思い込んでたから気付かなかったよ。じゃあ挨拶しておかないとね。で、そのボスの人はどこにいるの?」
そのライカの発言に、いままでもめていた少年達も年下の子供を抱えた少女も呆れたようにその顔を見た。
「てめぇはいったい何聞いてたんだ?さっきから兄貴に見つかったらヤバイって言ってんだろ!?」
「だって、ボスに挨拶しないと出入り出来ないんだろ?」
言葉が通じても意志の疎通が難しい事はままあるのだという事を、この時この場にいた者達は身に染みて理解する事となる。
結局の所少年たちの懸念をライカが理解する事は無かった。
「変なやつ」
幼子を抱いた少女は面白がるかのように口元を綻ばせてそう呟いたのだった。




