第二十九話 魚を捕ろう!
彼等の住む街を抱え込むように取り囲み、天牙の山脈までを覆う深い森。
真っ直ぐに伸びた背の高い木々と下生えの多種な草花、そして幹の細い低木で構成されているそこは、延々と同じような風景が続くので、慣れない者が入り込むとすぐに方向を失って迷ってしまう。
しかもこの森にはここを縄張りとする狼の大きな群れがあり、普段は山側に棲んでいる熊や山豚も、冬場は雪の少ない森に降りて来る為、それらに襲われる危険も多々あった。
春に、幸福な死者の見る光景と言われる花園を彷彿とさせる一面の花畑となる山の斜面に続く山道は、この街が人を呼ぶ目玉として力を入れて整備しているのでまだ安全だったが、滝のある、街から南東に位置する場所は、夏場に一部の物好きが釣りに通うぐらいで鬱蒼としたままである。
しかし、背の高い木々が多いこの森は、野性的な生活をしてきた少年達にとっては格好の遊び場になった。
「ちょっと、サッズずるいから!というか、先に行ったら場所わからないだろ?」
森に入って人の気配が無くなった途端、歩くのが面倒とばかりに風を切って飛び回り始めたサッズを、ライカは自分なりのやり方でゆっくりと追う。
「水のある方へ行けばいいんだろ?そのぐらい分かるさ」
「それならいいよ、迷って泣きついて来ても知らないからね」
ライカは、とうてい追い切れない速度で軽々と飛ぶ相手を溜息を吐いて見送りながら肩を竦めた。
「窮屈だったんだろうけどさ」
小声でそう言って、背の高い松の木の天辺からそのしなる細い頂を蹴って僅かな力で跳ぶ。
まだまだ冷たいが、柔らかな風が頬に優しく、サッズがはしゃぐ気持ちがライカにも少しだけ分かった。
森といってもその地面は平坦ではない。
奥の山々が険しいので、ついつい見落とされがちだが、この森は山脈から続く起伏がそのまま続いていて、小型の丘や谷のような地形が所々に見受けられた。
その起伏が極端ではないので、それを知らない人は、歩き回っている内に気付いたら何時の間にか谷底のような場所にいて驚く、ということがよくあるらしい。
川が無いので、迷ってしまうと外へと抜ける目印が見付からずに出られなくなってしまうのだ。
ライカは、ハーブ採取の手伝い等で、もう何度もこの道は行き来して、既に地上の山道の方を覚えてしまった為、上からよりも地上からの方が道が分かりやすいぐらいだ。
なので、ライカは数本の木を飛び渡り、サッズの行方をある程度見極めると、そのまま下へと降りることにした。
木の天辺から落ちる時に体重を元に戻すと、耳元でゴウと風が鳴る。
ライカはさかしまに一気に落ちる時の血が急激に引いて行く感覚が好きで、ついつい地上直前まで勢いを殺さない癖があり、地面スレスレでくるりと体を回して着地したのだが、久々のことで少しよろけてしまった。
「サッズがいなくて良かった」
その着地の失敗を見られて笑われてはたまらない。と、ライカがホッとした途端。
『ここの風は面白いな』
タイミングを計ったかのようにその心声が響いて、ライカはぎくりと驚いてしまった。
同時に、心声だけではなく竜の独特の咆哮が響き渡る。
「吼えるなよ、動物がびっくりするから」
驚いた分、少し八つ当たり気味に突っかかり、ライカはサッズに注意した。
それに動物ばかりではない。
この森と山の間には長年ここに住んでいる部族がいて、街の人間と弱いながらも交流を持っている。
彼等は狩猟民族であり、ライカ達の属している国の影響を受けず、狩りを自由に行っているのだ。
今この瞬間にも彼等は狩りの為に森を彷徨っているかもしれないし、そうなればサッズの声を聞いてその近さに何かを感じるかもしれない。
一応ある程度の範囲に人がいたらサッズに警告をするように言ってあるが、竜の咆哮は彼方まで届く。
それは聞く者を震撼させるものなのだ。
彼等が驚いて騒ぎになり、それが街にまで波及したら大変である。
『威嚇はしないから良いだろ』
キュウオオオオオオウというやや高めの、風の音を彷彿とさせる咆哮。
確かに聞く者を威圧するようなものではないが、ライカの言いたいことを微妙にわざと誤解して受け取っているのだ。
「全く……」
呆れと、微笑ましさとが混ざり合った気持ちで、歩くのを再開したライカの脳裏にはっきり、と雲を裂くような勢いで飛ぶ映像が浮かぶ。
サッズが自分の目線を送って来ているのだ。
同じ光景を見ようというお誘いである。
さすがにそれにはライカもちょっとだけ一緒に飛ばしてもらいたい誘惑に負けそうになったが、ぐっと堪えた。
「サッズ!サッズの為に魚捕りに行くんだろ?寄り道して夜になったら門番の人に怒られるから遊ぶ暇はないよ」
『わかったわかった』
あまり遠くなければ輪の繋がりで意識がそのまま言葉として交換できる。
この方法だと相手がすぐ近くにいるようについ錯覚してしまうが、どうやらサッズは山の方まで行っているようだった。
彼の速度なら少々遊んでいても追いつくのはすぐだろうと当たりをつけて、ライカはそのまま先へと進む。
滝へと行く道は少し足場が悪く、地面に細い亀裂がいくつもあって上を向いていると足を取られそうになるので足元に集中しなければならないのだ。
まるで何かの爪あとのように走った亀裂を辿って、枯れた低木の茂みを潜り、地面がぼこりと盛り上がった場所が見えて来ると、やがてゴウゴウというかドウドウというか、言葉として表現し難い音が響いて来る。
冬場はそのほとんどが凍っていることが多いのだが、今はもう融けて流れは元に戻っているらしかった。
その光景は見る者によっては少々異様かもしれない。
何しろ流れ落ちて来るその水源には川などの水の流れは見えないのだ。
よく見ると岩棚の間からいく筋もの流れが湧き出し、それが合流して音を立ててなだれ落ちている。
そして、その落ちた水は深い穴の奥へと消え、地表に水が現れるのはその滝だけという不思議な光景だ。
そう、その滝の下の大地は大きな深い穴となって消えていて、光が届くやっとの所に、かろうじて水面が見えるだけなのである。
光が届いている以外の所は真っ暗で、どのくらいの広さがあるのか見当もつかないが、ここで時々釣りをしているハーブ屋のサルトーの話によると、下には一抱えもあるような魚がうじゃうじゃいるとのことだった。
釣りの道具が貧弱なので小物しか釣れないと嘆いていて、その嘆きっぷりはライカが少々同情してしまった程である。
『サッズ、魚捕るよ!』
中々来ない相手に、ライカは呼びかけてみた。
『ん~、水の気配が広すぎてよく分からん、どこだ?』
『そんなことだろうと思った。この地下の川ってかなり大きいらしいんだから、おおざっぱに見当付けてたらわからないよ。俺の気配を辿って来て』
頭上から風が吹き下りて来て、見上げると、どこか満足した様子のサッズが見える。
それを確認すると、ライカは着てる服を脱ぎ捨てて、大きく口を開けた穴の上に浮かんだ。
「サッズ、人が近くに来たらすぐ教えてね」
「そんなに何度も言わなくてもわかる」
口調はぶっきらぼうだが、思いっきり飛ぶことが出来たので機嫌が良いのが丸わかりである。
だが、サッズはライカの姿を見て、不思議そうな顔をした。
「服は着けたままでも問題ないんじゃないか?俺が乾かしてやったのに」
「そうだけど、狩りをするんだから感覚が掴みやすい方がいいじゃないか」
「あ~久々だな、水中の狩りかぁ。面倒なんだよな。で、どうするんだ?」
「俺待ってるから、追い込んでくれれば良いよ。自分が食べたいのを選んでね」
言って、ライカはそのまま落下した。
トポンと気が抜けるような軽い水音が響く。
サッズはそのまま後を追うように水中に突っ込んだ。
ライカとは逆に冗談のような水柱が高々と上がり、その勢いを見せ付ける。
『う~、水の中はやっぱり動き難いな!』
『そりゃあ水の中だもんね』
水中は上からの光が当たっている一部分だけが少し明るく、他は真っ暗だった。
ただ、ずっと先の方に地表に通じている場所がいくつかあるようで、ところどころに差し込む光が見える。
『奥へ行くと俺は見えないから、ここで待機してるね』
『分かった、まかせろ!大物引っ張って来るぜ』
なんだかんだ言いながらも、かなり軽い泳ぎで空を行くように水の中を突き進むサッズの後ろ姿を見送って、ライカはその場で力を抜くと水の底へとゆっくりと沈んだ。
両手両足を開き、だらりと体を投げ出すようにして浮力を削り、自分の存在を自身の意識からも消す。
着地するとふわりと舞い上がる水底の泥がゆっくりと体に纏わり付いた。
水はかなり深かった。
ライカの背で縦に二人並んでも水面に出ないぐらいはあるだろう。
ゆらゆらと揺らめく光と全身を押し包む痺れるような冷たさがその場の全て。
地表で当たり前の生命の歌声もこの場ではシンと静まっていた。
『行ったぞ!』
心声が響き、水の流れを体に感じる。
ふ、と、光を影が覆った。
瞬時にライカは浮力を上げると、その大きな影を全身で抱きしめるように締め上げ、そのまま空中に飛び出す。
魚の体が逃れようと激しくもがくが、ライカの両手はその魚のエラの内部に入り込んでいて、その足は尾びれの手前を締め上げていた。
しなやかで強い魚の筋肉が全身をくねらせてライカを振り落さんとするものの、ライカはライカで空中であることを利用して力を逃がしてまともにその衝撃を受けないように受け流す。
魚とライカは共に横にぐるぐると回ることとなり、どちらかというとライカはそっちの影響で少し目が回ってしまった。
空中で見えない糸に吊られたように浮かんだままで暫し止まっていたライカだが、やがて飛び上がって来たサッズを見てホッとしたように呼び掛ける。
「サッズ押して」
ふわりと風が起こり、ライカはようやく地表の上に出ると、魚を抱えたまま降下した。
「本当に大きいね!」
まだ少しヒレを動かしているが、もうほとんど窒息している魚を、やっと離れて見て、ライカは感心したように呟く。
「だろ?このぐらいの大きさのは結構いたぞ。外からやってくる敵がいないんだろうな、のんびりしたもんだったぜ」
その魚はまさしくライカの身長程もあった。
海で見る魚と比べても大きい獲物だ。
ライカは祖父から貰ったナイフを出すと、その魚を捌き出す。
サッズ達竜族はなるべく新鮮な内蔵を先に食べた方が栄養になりやすいのだ。
ライカは、人間の体で不自由であろうサッズの為に魚の腹を開いておこうと思ったのである。
「あれ?お前、タルカスから貰ったナイフがあっただろう?あれ使わないの?」
「あんな危険なナイフ、普段使えないよ。もうほとんどお守りみたいなものさ。って、前にもなんかこの話した気がする」
普段帯飾りのようにして腰に挿している黒曜石の輝きを持つナイフは、昔ライカが初めて狩りをした時にタルカスから貰ったものである。
しかし、タルカスの鱗から作られたというそのナイフはあまりにも切れ過ぎた。
岩苔を剥がそうとしたら硬い岩ごと柔らかい瓜の皮のようにペロリと剥がれたのを見て、ライカは唖然として、次にそれを鞘に納めると、紐でぐるぐると厳重に巻いた。
危険な何かを封印する物語が本にはよく描かれているが、その時その物語の登場人物達の気持ちがちょっとだけわかったライカである。
「ほら、開いたよ、どうぞ」
「おう、お前は食わないの?」
「俺はもうお腹いっぱいだよ、さっきもちょっとは付き合ったし」
臓物だろうが骨だろうが鱗だろうが、苦もなく食らっていくサッズの姿を見て、ちょっとだけ羨ましかったが、さすがに普通の人間であるライカには量が多すぎる獲物だ。
火を通していない生の身は汁気があって甘く、自分の狩った獲物だという思いは、染みとおる命の充実感がある。
竜族のように異物を後からまとめて吐き出す能力のないライカは、噛み砕けない硬さの骨や鱗は苦手だが、魚の肉は結構好きだった。
ミリアムによると、普通人間は魚も獣も生では食べないらしい。
毒に中るのだと言っていた。
勿体ない話だと、基本的に生食だったライカは思う。
しかし自分がなぜ毒に中らないかは心当たりがあるので、普通の人間のやり方に異を唱えるつもりもなかった。
「寒いんじゃないか?その乾き難そうな髪を乾かしてやるから早く服を着とけ」
サッズが言うと、冷気を伴わない風の流れがライカの周囲で渦巻き、たちまちの内に髪を乾かしていく。
「ありがとう」
髪が乾いたのを感じて、ライカは服を着けると、その温かさにちょっとホッとした。
人間は寒いのにも暑いのにも弱いが、こうやって工夫してそれを凌ぐ知恵を持つ。
元の暮らしも懐かしいが、ライカはそうやって服に包まれて安心する気持ちも嫌いではなかったのだ。




