14:Cold Room
結局、勝一郎が海岸にまでたどり着いたのは、空が白み始め、朝日が昇った後だった。
たどり着き、そして力尽きて倒れた。
いくら勝一郎が鍛えられていても、一晩ぶっ通しで泳ぎ続けるというのはさすがにきつい。一応部屋に戻って服を脱ぐくらいの余裕はあったが、マントを海に放り出しておくとどこに流されていくかわかったものではないため、下手に部屋の中で休むわけにもいかず、ほとんど休むことなく泳ぎ続けることになったのだ。
いや、本当のことを言えば本来ならもっと速く泳ぎつけていたはずだったのだが。
「……く、まさか、普通に泳いでいた方が早くついていたとは……!!」
当初勝一郎は、海中でランレイを救助した際そうしたように、海中で扉を開いて海流を生み出し、それに押し流される形で岸までたどり着こうとしていた。
ところが、この方法がよくなかった。暗い海の中で、目的地に向かうようにマントをまっすぐに持つというのは至難の業で、海流を受け止めるのに気力と体力を絞った挙句、位置を確認してみたらとんでもない場所へと流されてしまっていたのである。
おまけにそのせいで離岸流という、要するに陸から海の方向に流れる流れに捕まってしまって余計に時間を喰い、そこを泳いで脱出して、さらに泳いでようやく海岸にたどり着けたというのが現状である。
唯一良かったことがあるとしたら、たどり着いた場所が元々いた場所ではなく、遡ろうとしていた川の反対側だったことだろうか。元々川を流されてここに来る前、勝一郎たちは川の対岸に渡ろうと移動している最中で、逸れたレキハ村の遠征メンバーを探すためにはどうしてもどこかで川を渡らなければいけなかったのだ。そういう意味では、遡る前のこの場所で川を渡ることができたのは、一応収穫と言えば収穫と言える
とは言え、それでも一晩休まず泳ぎ続けた代償はあまりにも大きい。
「……、せめて、せめて扉を……」
腰に結び付け、ここまで運んできたマントをほどいて、それを広げる。
さすがにいくらなんでも、勝一郎にしか扉を開けられない以上これを開けずに意識を失うわけには行かない。
濡れたマントを何とか広げ、眠気に抗いながらどうにかマントの表面に【気】を流して、そこに作られた扉を開く。
(……開、け……!!)
さすがにもうこの場では、その言葉は声となっては出てこなかった。
マントの表面で扉が開く、その瞬間だけはなんとか確認して、勝一郎の意識は抗いがたい眠気の奔流へと飲まれていった。
驚いたことに、二人がかりで部屋に担ぎこんでも勝一郎は目を覚まさなかった。
どうやら相当深い眠りに落ちてしまったらしく、ランレイがロイドと共にその体を起こし、運んでも、若干の反応があるくらいですぐに寝息を立てはじめてしまったのだ。
(それだけ無理をした、ってことなのかしら)
濡れたままの体をふき、体が冷えないように毛布をかぶせて、ランレイは一息つきながら、ふとそのそばへと座り込む。
ランレイという少女には、勝一郎がした無茶がどれほどのものかがわかる訳ではない。ただ勝一郎の様子を見て、感覚で無茶をしたのだろうと予想しているだけだ。
自分が無茶をさせてしまったのだろうと、そんな確信だけは確固としてある。
(最初に会った時には、男のくせに情けないって思ってたのに……)
出会ってすぐのころの勝一郎は、ランレイの眼から見てもそれはもう情けない男だった。女であるランレイになす術もなく追い回され、竜と出会っても情けなくへたり込むばかりで何の役にも立たない。実を言えば勝一郎が異世界人と名乗って納得してしまったのも、ランレイにとってのここまでの情けない男というのがほとんど未知の生物だったからと言ってもいい。
だが、いつのころからか勝一郎は変わり始めた。それこそ、一番近くで見ていたはずのランレイですら驚くほどに。
(やっぱり、男だからなのかしら)
伸ばした指先が勝一郎の頬に触れ、そこに白く残る傷痕を静かになぞる。初めて会った時にはなかった傷痕。勝一郎のことが村人たちに発覚してすぐ、勝一郎が半ば一騎打ちのような形で【咬顎竜】と戦い、その時に負っ手そのまま残った牙の痕。ランレイ自身も勝一郎を助けるべくその場に駆け付けたが、結局最後には逆に助けられる羽目になり、そしてその後、勝一郎は独力で【咬顎竜】を倒してしまった。
その時も、昨晩も、結局最後にはランレイは、勝一郎の手で守られた。
「おい、ランレイ」
「ぅえっ!?」
背後から突然声をかけられ、思わずランレイは飛びのくように勝一郎のそばから離れ、声のした方へと向き直る。
見れば、そこではロイドが槍を携え、鎧の類はすべて外した上半身裸の状態で立っていた。どうやらランレイの今のような反応は予想していなかったようで、その表情には若干の驚きが見える。
「なっ、なによ。っていうかあんたまでなんで服脱いでんのよ?」
「……別に、勝一郎はどのみち今日一日動けないから、今のうちに海で魚でも獲ろうかと思っただけだよ」
「大丈夫なの? まだどんな生き物がいるかわからないのに一人でなんて」
「一晩ショウイチロウが泳いでて、なにも襲って来てねぇんだ。やっぱりあのでかいのが、この辺一帯の他の生き物を追い出すなり喰い尽くすなりしちまったんだろう」
ロイドの言い草には楽観性を感じなくはなかったが、しかしその意見自体にはランレイも賛成だった。もとより、その可能性については昨晩の段階から論じられていたのである。
【鯨蛇】と勝一郎が呼んでいたあの生き物の生態については、ランレイでさえ聞いたことの無い相手であったためよくはわからない。だが浜辺に現れた三人を波を起こしてまで襲ってきたことだけでも、その獰猛さと食欲のほどはうかがえる。もとよりあの巨体だ。獲物になりそうな食いでのある生き物はほとんど喰い尽くされているだろうし、そんな生き物が縄張りとしている場所に不用意に近づく生き物も相当に少ないだろう。
ただしそれは、あの生き物がこのあたりを縄張りとしていた昨晩までの話だ。
「間違いなくこのあたりの縄張りの主だっただろうあの化け物がいないせっかくの時間なんだ。今のうちに動けるだけ動いて、食料なりなんなり、使えそうなもんを確保しておくのが吉ってもんだろう」
「そうね……。なら私も焚き木や野草でも探してこようかしら。この部屋のマントはどうする?」
「んなもんおまえが持ってろよ。俺にだって自分のマントがあるんだ。それで何とかするさ。獲った獲物だってそっちに放り込んで持って来れるしな」
「……そう。じゃあ一応このマントは持って行くわ。終わったらこの場所でまた落ち合いましょう」
そう約束を取り交わし、ランレイは部屋を出るロイドの背中を黙って見送っておく。
確かに、今はロイドの言う通り、準備がしやすいうちに準備を整えておくことが先決だろう。流石に勝一郎は休息が必要だろうが、ならばなおのこと今は残る二人が動いておくべきときだ。いつまでもどこまでも、勝一郎一人に頼ってもいられない。
(……そう、頼りきりになるわけにはいかない)
そう決意を固めて、ランレイはすぐさま荷物を探り、弓を手に取りマントを着込んで、部屋の外へと出る準備を整える。
ふと、今ロイドもこんな気分なのだろうと、そんなことを考える。
いや、下手をすると自分などよりも、よっぽどロイドの方がこの感情は強いのかもしれない。
この内側から責め立てられるような焦燥と、粘つくようにまとわりつく無力感は。
(……今は、そんなことを考えてる場合じゃないわね)
首を振って思い直して、ランレイも戸枠に手をかけ、外の世界へと歩み出る。まるで白い部屋から目をそらすように、己の感情に背を向ける。
別に楽観視していたわけではないが、魚を取るというのは思った以上に大変な作業ではあった。
なにしろ相手は海中の生物だ。海に潜り、まずは槍ででもついてみようかなどと考えてはみたものの、実際にやってみると槍の間合いに入る前に逃げられてしまう上、槍で突こうとしても水中故なのかなかなか狙いが定まらない。
「ああ、クッソ……。うまくいかねぇ」
水中に顔を出し、昨晩勝一郎にもらった【息継ぎ部屋】の手拭いを口元から外しながら、ロイドは両肩に展開した【浮上輪】で水上に浮かび、しばしの休憩をとることする。
(ショウイチロウの野郎はあんなでかい化け物を一人で仕留めたってのに……)
向き不向き、特に使える力によるそれはあるのだろうとわかっていても、しかしロイドはどうしてもそんなことを考えざるを得なかった。
思い出してもゾッとする、そんな圧倒的な強大さを持つ鯨のような生き物。勝一郎が【鯨蛇】などと呼んでいたあれを見て、ロイドは真っ先にこの相手には勝てないと痛感させられた。
実際、ロイド一人であればその判断は間違いではなかっただろう。
どう考えても、ロイド・サトクリフにはあのような化け物を倒せる手段もなければ、立ち向かえるだけの気概もない。黙っておとなしく餌になるという、そんな未来が、あの時ロイドの脳裏には疑う余地なくはっきりと見えていたのである。
だが、結局勝一郎は、あの巨大な【鯨蛇】を打ち取り、生きて岸まで泳ぎ着いて見せたのだ。
その結果にロイド自身は、どうしても己と勝一郎の格の違いを意識させられる。
(……クソッ、俺とあいつ、いったい何が違うってんだよ……!!)
水に浮いて空を眺めながら、ロイドは昨晩見た、勝一郎の姿を思い出す。
闇の向うに【鯨蛇】と遭遇し、その後勝一郎の部屋の中へと放り込まれるその直前、その瞬間に見た勝一郎の顔は、今も鮮烈な記憶としてロイドの中に残っていた。
目の色が変わる、というのは、まさにあんな状態を言うのだろう。
普段の、共に生活し、共にハクレンにしごかれて、共に地べたを転がっていたあの姿とはわけが違う。まるで別人のように目つきを替え、危機的状況への焦りを抱えながらも、それでも冷静さを失わずにとるべき手段をすぐさま判断し、決めていた。
思えば【谷翼竜】に襲われた時もそうだったのだろう。ロイドが迫る命の危険にパニックを起こし、恐れをなして逃げ回っていたあの時、勝一郎は恐れることなく、どころかいまだ二人がかりで村の戦士たちにも及ばない腕前でも立派に応戦し、ヘマをしたロイドを迷わず助けに走り、そして遭難こそしたものの命だけは立派に助けきっていた。
きっと【気功術】など使えなくとも、【扉の力】が使えぬ状況に陥っても、いまの勝一郎なら折れることなく奮闘の意思を見せるだろう。
そんな己の中の確信が、今のロイドにはたまらなく口惜しい。
(――ぁあああああ、ぐっぞぉぉぉぉおおっッ!!)
【息継ぎ部屋】を使わずに水の中に潜りながら、歯ぎしりしながらロイドは周囲へと視線を巡らせる。
(魚まで俺を馬鹿にしてんじゃねぇぞ……!!)
見つけた魚に狙いを定めいつも以上に意識を巡らして右手に魔方陣を展開し、歯車のよう展開された複雑な術式をものの数秒で噛み合わせる。
この世界で戦う術として、魔術の展開速度は必死の思いであげてきた。いまだハクレンなどに届く速さではないが、それでも以前に比べればこの魔術の発動速度も格段に上がっているはずだ。
(【偽・水賊監】、起動――!!)
水中のロイドの手元から巨大な水塊が発生し、ロイドの意を受けてその水が魚の元へと進みだす。
目で見ただけでは周囲の水とまるで変わらない、だがその部分だけが魔力で生成された偽物の水。それがロイド手元の魔方陣とつながった水のラインで操作され、やがてその先にいる魚を内へと飲み込んだ。
突如として変化した自分の周囲の水質に、魚が驚いたように機敏な反応を見せる。
水に生きる生物にとって、水の檻に閉じ込められるという状況は人の場合ほど脅威ではない。水中で呼吸できるうえにヒレがあるため、泳いでの脱出という人間にはできない方法で普通に脱出できてしまうためだ。
ただしそれは、体を自由に動かせればの話だ。
(……へっ、どうだよ。動きが鈍ってきたな)
驚いたような反応を見せんがら、しかし碌に動かなくなった魚を前にして、ロイドは自分が試みた方法がうまくいったことを理解する。
ロイドが試した工夫とは、手元の魔方陣、その空欄に書き加えられた、もともとはそこにあったはずの術式だ。
毒物。それも神経の働きを阻害する物質を、操る水の中に混入させる術式だった。
【偽・水賊監】という魔術は、その名の通り【水賊監】という魔術の効果だけをまねる形で、ロイド自身が知る二つの魔術を適当につなげて改造を施したオリジナルの違法改造魔術だ。この術式の作成にあたってロイドは、本来は洗濯や食器等の洗浄、入浴などに幅広く使える大容量の水球操作術式【回転洗浄泡沫】と、もう一つ害虫駆除のために手のひら大の水球に薬液を溶かして操作する【畑洗い(ガーデンクリーナー)】という二つの魔術を組み合わせる形で使用している。
今回追加したのは、もともと【畑洗い(ガーデンクリーナー)】に使用する術式の一つだった、農薬を混入するための薬学系の術式だった。他の術式ならばうまくつなげるために術式をいじくらなければいけない所だったが、元々あったその術式を使用しないからという理由で消して使っていたため、組み合わせること自体はさほど難しい問題とは感じなかった。
やがて、体に力が入らなくなったのか、魚の体が動きを失い水の中を漂い始める。力を失ったその獲物を水ごと引き寄せ、手元の槍で突き殺す。
直後に術式を消滅させて水を消しても、魚の命は絶たれたまま二度と動こうとはしなかった。
自分が獲物を仕留めたことを確信し、ロイドはすぐさま水上へと浮き上がる。
「……は、はは、できんじゃねぇかよ、俺にも……!!」
再び【浮上輪】で水上へと浮きながら、魚の刺さった槍を掲げて、ロイドは小さくほくそ笑む。
ロイドが行ったのは、ロイドの世界でも一般的に使われている漁法の、その模倣だった。
通常食料とする生き物に対して毒を使うのはおろかを通り越して危険な行為だが、その毒が魔術によって魔力から作ったものならば話は変わる。
すべての魔力は、魔術によって方向性を与えられても、その影響下から離れた段階で【全属性】へと回帰し、消滅する。【魔力の属性回帰現象】と呼ばれるこの原則は、ロイドの世界ではだれもが知る一般的な常識で、ロイドが今使った漁法もその原則を利用したものだった。
恐らく今槍の先にいる魚の体内からは、魔術の制御下から離れた【毒属性】の魔力が元の【全属性】へと戻り、消滅していることだろう。
己の世界の文明の、なんと優れて便利なことか。
「……そうだ。あいつの世界がどんな文明を築いているか知らねぇが、俺には俺の世界の魔術があるんだ――!!」
才で敗れて、心で負けて、最後にロイドは己の世界の英知にすがる。
それがかつて自身の力ではないと、己で断じたものであることを無理やり忘れて、そうしてロイドは無理やり最後の意地を張る。
だがそれでも、この時ロイドは確かに勝一郎に張り合う気概を持っていた。
この時までは。
そうして、ランレイに預けたマントの、その中にある部屋に戻ったロイドは、そこで現実を思い知る。
もう何度目になるかわからない、そんな何度もあった驚愕を、またもロイドはこの相手から味わうこととなった。
調子に乗って魚取りすぎた魚を部屋へと押し込み、意気揚々と帰ったロイドを待っていたのは、ロイドの常識では計り知れない、部屋の壁に新たに作られた低温の部屋だったのである。
「……おい、なんだよこれ……」
「ん? ああ、ロイド。帰ったか。ってなんだか大量だな」
魚を運ぶのに使っていたロイドのマントを覗き込み、部屋で目を覚ましていたらしき勝一郎が驚いたような声を上げる。
そう大量だ。それは誇っていいだけの成果の筈なのだ。なにしろロイドのおかげで食料が大量に確保できたのだから。
だが、今のロイドには、それを素直に喜ぶだけの余裕はない。
「……おい、なんだよこのやけに寒い部屋は……」
「ああ、それな、ちょうどよかったよ。ロイドが魚取りに行ったって聞いて思い付きで作ってみたんだ。冷房の効いた部屋が作れるなら、食品保存用にもっと寒い【冷蔵室】も作れるんじゃないかってな」
「……【冷蔵室】?」
どうやら、獲った獲物を保存できるように部屋を一つ用意したらしい。
確かに、低温下では食品の腐敗はかなり鈍化するという話は聞いたことがあったが、まさかこんな低温の部屋を作れてしまえるとはロイド自身も思っていなかった。
だが、どうやらやってのけたらしい まるでなんてことない行為のように。その右手に宿ったデタラメな力で。
驚くロイドの隣で、同じく薪を拾って戻ってきたらしきランレイが同じように勝一郎へと問いを投げかける。
「あんた、こんな寒い部屋も作れたのね……」
「ああ。さっき試してみたら作れたよ。実はふたりが戻る間にいろいろためしてさ、冷蔵庫ならぬ冷凍庫も作れたし、逆に温度の高いサウナみたいな部屋も作れたよ。流石にオーブンみたいな温度は無理みたいだけど、俺が知る部屋御範囲でなら気温の操作もできるらしい」
「ごめん、私にはあんたが何言ってるのかよくわからないわ。ロイド、あんたならわかる?」
「……いや、知らねぇよ」
そう、こんなのは知らない。
少なくともロイドが知る限り、こんな低温を維持された部屋というのは少なくとも魔術では再現不可能だ。瞬間的な冷却効果ならば可能かもしれないが、そもそも魔術という文明は長時間の継続使用に根本的に向いていない。
ロイドの知る中で一番長く効果をもたらす魔術と言えば【街路灯】の魔術がまず思い浮かぶが、これとて魔術効果自体の単純さと消費魔力の少なさゆえに数時間持つというだけの話で、ましてやこんな常に温度を低温に保つような効果を、それも時間無制限にもたらす技術などロイドの世界にはありはしないのだ。
だが、どうやら勝一郎の話を聞く限りでは、彼の世界にはそれがあるらしい。
その事実が、今己の世界の文明レベルにすがっていたロイドを静かに手ひどく打ちのめす。
(……ああ、そうか)
冷たい部屋の中に呆然と立ち尽くし、あるいはそれ故にか、ロイドの思考が冷たい諦観に満たされていく。
(……こいつの世界では、これが普通なのか……)
単に勝一郎の持つ『扉の力』のデタラメさというだけの問題ではない。それについてもロイドはもう嫌というほど理解させられてきたが、今問題なのはもっとロイドを支える柱となっていたものへ触れる、根本的なものだった。
先ほどロイドは、自分の世界の文明の方が優れているのだから、だから自分も勝一郎には負けていないのだと思い込もうとしていた。優れた文明で己を支えて、それで仮初の優越感をわずかでもえようとしていたのだ。
だが、現実には目の前に、自分の文明を超える技術の、その証のようなものがここにある。勝一郎の世界ではロイドの世界では作れないものが普通にあるのだと、そんな事実を突きつけられただけで、ロイドの中にあった仮初の優越感はあっさりと瓦解した。
まるで最後の砦が落とされるのを見ているような感覚。
別に自分で建てた砦でもないくせにと自嘲しながら、一方でロイドは、心のそこにいつのころからか刻み込まれていた魔法の言葉を思い出していた。
『どうせまた、いつもの通りじゃないか』と。
「なあ、ロイド? 聞いてるのか?」
「……ああ? ……んだよ聞いてるよ」
呼びかけられた勝一郎の声に、ロイドは頭を掻きながら、しかしそんな直前までの思いなどおくびにも出さずにそう返事をする。
見れば、勝一郎とランレイは野営の準備を始めるつもりなのか、食材や薪を取り出して部屋扉の前に立っていた。確かに、そろそろ外で野営の準備を始めなければいけない時間帯だ。いくらこの部屋が明るく安全であるとは言ってもさすがに調理に使う火を室内で使うわけには行かない。
「わぁってる。今行くよ。俺の魔術が無けりゃ、火ぃつけんのも難儀するしな」
軽くて薄っぺらで、しかし以上に強靭で粘着力の強い笑みを顔に張り付けながら、ロイドはいかにも仕方ないと言った様子で部屋の外へと向かう。
(……もう、やめだ)
そうしてロイドは、ようやく幻想を捨てて本来の自分を思い出す。
どこへ行っても三流で、なにをやっても届かない。どこへ行っても中途半端なそんな自分を。
おまけの用語解説
【偽・水賊監】
生み出した水の塊を操作して人間一人を溺れさせる【水賊監】という捕縛用魔術を生活魔術を違法改造することで無理やり再現したもの。
もともとは【回転洗浄泡沫】という、食器や衣類を洗うための洗濯機や食洗器のような使われ方をする魔術に【畑洗い(ガーデンクリーナー)】という魔術の遠隔操作機能を組み込んだもので、そのため汚れを落とすための様々な効果が付与されていたが、この魔術の場合相手をピカピカにしても意味がないため、そういった不要な部分の術式が省略され、代わりに水の操作性を上げたり水量を増加させたりするための追加の魔方陣が左右合計三つほどくっつている。おかげで魔方陣の外見は虫食いのつぎはぎな印象がぬぐえない、使うにも術式操作のイメージが非常にめんどくさい代物で、さらにはもともと動かして使う魔術ではないため移動速度がカメのごとく遅い、消費魔力も無駄が多いなど問題点が多々ある。
ちなみに開発した本人としては元々の魔術の機能であった水を回転させる術式をそのまま使いたかったのだが、水量を増やした結果勢いが微妙で、ない方がましというお粗末な結果になったため削除された。『敵を水に閉じ込めてぐるぐる回すぜぇっ!!』とか考えていただけにがっかりである。
【畑洗い(ガーデンクリーナー)】
手の平にこぶし大の水球を作り上げ、そこに追加術式で様々な薬液を生成、溶かして操作する魔術。薬液の種類は様々だが、使われるのは大体が殺虫殺菌成分、要するに農薬で、この魔術自体がガーデニングや農業の現場での害虫駆除などに用いられる。
こいつを使うと、魔術によって死んだ虫が水の中に取り込まれ、酷いときには操作する流水が虫の死骸でびっしりと埋め尽くされることとなる。結構な人が悲鳴を上げる光景であるため、バージョンアップされた第二世代からは手と水球の間を水のラインでつなげる形で一メートルほど遠くに離せるように仕様が変更された。
とは言え、厄介な害虫がみるみる水の中に溜まっていく様子は気味悪くも妙な達成感があるため、いろいろ言われつつも人気の高い魔術。術を解除すると蟲の死骸はその場で放り出されるため、解除する際はきちんと処理できる環境で行いましょう。
ちなみに、魔術で作った農薬は使用後一定時間で元の【全属性】魔力に戻ってしまうため、継続した効果が望めない代わり残留農薬の心配が皆無という地味に農家垂涎の性能を持っている。




