86.撤退
あらすじ
大狼を模した闇の鎧を纏い、DPブーストで強化された黒牙は、あっさりと三つの高ランク冒険者パーティーを返り討ちにした。
それを主思考で確認した私に、副思考の一つがガルセコルトの勝利を告げる。
しかし、その勝利はかなりギリギリのものだったらしく、ガルセコルトはかなりの傷を負っているようだった。
その時、私の思考に不穏な筋書きが浮かんでくる。
ここで黒牙にガルセコルトを始末させてしまえば、この後の私の安泰も約束されるのではないか、と。
だが、そんな不穏な思惑を巡らす主思考に、外の戦いを記憶していた副思考から不穏な感情が流れ込んできた。
ダンジョンの外で、何か予想外のことが起こったのだ。
ダンジョンの外での戦いを知覚していた副思考が感じた焦燥。
私は最初、その理由を魔鹿たちの敗北によるものと思ったのだが、どうやらそうでは無いようだ。主思考で改めてダンジョンの外を知覚してみると、なにやら状況がおかしい。
確かに魔鹿たちは、敗北寸前ではあった。
巨体を誇るジャイアントディアーは騎士たちにより多くの傷を受けて満身創痍の状態であり、鋭い角を持つブラッディーホーンディアーは致命傷を受けたのか虫の息。その上、遠く離れた地点から魔法で援護していたクリスタルホーンディアーにまで、人間たちの魔手が迫っているという状況。
確実に戦いは終盤へと移行している。人間たちの勝利へと向けて。
だがそれでもまだ、魔鹿たちは抵抗を続けていた。三匹の魔鹿は、それこそ命を懸けて人間たちに抗い続けていたのだ。
確かに魔鹿たちの敗北は時間の問題だったろうが、終わりがやってくるのはまだもう少し先の話であった。
それ故に、副思考の感じた焦燥は魔鹿たちの敗北によるものではない。
では、何が焦燥を呼び起こしたのか。
私は今、それを主思考により知覚していた。
勝利を目前とした人間たちが、撤退を始めているのだ。
ありえない。勇王国の持つ戦力の大半ををつぎ込み、何があろうとも成し遂げなければならないと息巻いていた人間たちが、何故ダンジョン前から撤退しようとしているのか。もはや勝利は目前だったというのに。
何らかの作戦だろうか?
手負いの獣は危険、なんて言葉を聞いたことがある。手負いとなって死に物狂いで戦う魔鹿たちに危険を感じて、撤退を開始したのか?
いや、むしろタイミングを考えると、ダンジョン内に突入していた冒険者たちが全滅したことを、何らかの手段で知ったのだと考える方が自然だろう。
そんな可能性を思い浮かべつつ、私が『読心』のスキルで人間たちの会話から情報を集めてみると、全く別の可能性が浮かんできた。
人間たちも突然の撤退命令にかなり混乱しているようで、会話から得られる情報は錯綜していたが、断片的な情報の数々を繋げていくと一つの事実が見えてくる。
曰く、勇王国カツラギの王都が滅んだ、と。
故に全軍は即刻、王都へ帰還せよ。
そんな内容の伝令が、早馬によってつい先ほど、騎士団総長デュランダルの下に齎されたようだ。
何かの冗談かと思えるような内容である。確かにここはかなり危険な世界のようだが、だからと言って、これ程の規模の戦力を有する国家の王都が、たった数日程度で滅びたりするものだろうか。
だが、現に人間たちは、その情報を信じて撤退を始めている。ということは、彼らにとって齎された情報がそれほど信憑性の高いものだったということなのだろう。
急遽、撤退を始めた人間たちを、魔鹿たちは追撃しようとはしなかった。
受けた損害が大きすぎて、もはや追うことなど出来ないというのもあるのだろうが、そもそも魔鹿たちは、元々からして逃げる敵を執拗に追い掛け回すような質ではない。
魔鹿たちも魔物であるが故に、襲ってくる敵を倒すことはある。あまりにも手に負えないような強敵であれば、さすがに逃げることを優先するようだが、倒せるような相手であれば、群れを率いる三匹の魔鹿たちが対処していたそうだ。それに加え、時にはレベルを上げるために、縄張り内で狩りをすることもあったようである。
しかし、今回の魔鹿たちは攻めてきた人間たちから、群れを守るために戦っていたに過ぎない。
それ故に脅威を追い返すことが出来たのならば、それで十分だと考えたのだろう。
だが、私は違う。
ここで騎士団と魔導士団を逃がしてしまえば、奴らはいずれはまたここへ攻めてくる。
まあ本当に伝令の通り、勇王国が滅びてしまったというのであれば、その限りでは無いだろうが。
私にはどうも、その情報が信用ならなかった。
それが本当であるならば、タイミング的に、あまりにも私に都合が良すぎるだろう。
ただの誤情報か、それとも誰かの思惑による偽情報か。
偽情報なのだとしたら、それは誰に向けた嘘なのだろう。
人間たちに向けられた嘘なのか、それとも私に向けられた嘘なのか。
私に向けられた嘘だとすれば、その嘘をついた相手は、私が人間たちから何らかの手段で情報を奪っていることを知っているということになる。そうでなければ、私への嘘を人間たちの中でだけ、流させる意味がない。
人間たちに私の『読心』がバレている?
だとしたら、この嘘の理由は。
冒険者たちの全滅を何らかの手段で察知した。
その事実を、私に悟らせないため?
人間たちはダンジョン内で高ランク冒険者たちが全滅したことを何らかの手段で察知し、こちらが反転攻勢に出る可能性を考えて、一時的に撤退を選んだのではないか。
そう考えてみれば、ダンジョンに突入させた高ランク冒険者たちを待つことなく撤退を開始したことにも説明がつく。
だとすれば、このまま人間たちを逃がしてしまうのは不味い。
全滅させることは出来なくとも、もっと甚大な被害を与えておかなければ、人間たちはすぐにでも新たな戦力を補充して、ここへ戻ってくるだろう。
と、そこまで考えた所で、私は重大なことに気が付いた。
撤退していく人間たちを追撃するとして、それを誰に任せるというのか。
魔鹿たちは無理だとして、魔狼たちならば頼めば追ってくれるだろうか?
いや、魔鹿たちほどでは無いにしても、魔狼たちもわざわざ逃げた相手を追ってはくれないだろう。結局のところ、魔狼たちも一番大事にしているのは、仲間たちの安全だ。
血気盛んな下位の魔狼たちであれば、うまく嗾ければ追いかける可能性もあるかもしれないけれど、ガルセコルトやホーンウルフはそれを止めるはず。
わざわざ危険を冒してまで、人間たちを追って殺す必要は無い、と。
そうなると、あと私に動かせるのは黒牙のみ。
人間たちを追撃するとなれば、私の知覚の範囲外で黒牙は戦うことになるだろう。
そうなれば、私はDPブーストを適切な瞬間に発動させることが出来ない。
DPブーストが無くとも、黒牙が強いということは知っている。今の黒牙ならば、たとえ相手がBランク相当の実力を持つ集団であっても、そう簡単にやられる事は無いだろう。
けれど、あちらにはAランク冒険者たちにも引けを取らない動きをする指揮官たちがいるのだ。それを加味すると、素のままの黒牙に任すのは、やはり少し不安が残る。
ならば、当初考えていた通り、黒牙にガルセコルトを殺させて、レベルアップさせたらどうだろう。ガルセコルト程の強者を殺すことが出来れば、黒牙は今以上に強くなる。
いやしかし、人間たちの撤退の理由はあくまで私の推測であり、撤退の本当の目的が追撃してくる魔物を迎え撃つ事という可能性だってあるのだ。無理をして黒牙に追わせ、何らかの隠し玉で返り討ちにあってしまったら、それこそ本末転倒だ。
それに色々と不可解な点が多すぎる現状で、ガルセコルトという戦力を殺してしまうのは不味い様な気がしてきた。
もし人間たちが戦力を整え直して再侵攻を開始した場合、ガルセコルトという戦力は私の助けとなってくれるだろう。
ならば、ガルセコルトは生かしておくべきだ。
本当にそうなのか?
ガルセコルトに対して、私は今、複雑な感情を抱いている。
魔狼たちと過ごした時間は、それほど長いものでは無かった。けれど、それでも彼らとの間には、多少の縁が出来ている。
助けて、助けられて。少ない会話から分かるその在り方。
絆と呼ぶには、か細い縁。
だがその縁が、この危険に満ちた世界で、私が生き抜くために必要となる選択を狂わせていく。
出来る事なら、ガルセコルトを殺したくはないという想い。
殺したくないという感情論を抑えつけるために、殺してしまおうという思い。
『加速思考』と『並列思考』という、思考の深度を高めるスキルが、余計にその思いを深堀してしまう。
どちらもが重しとなって、思考の天秤が本来導き出す筈だった答えを歪めていく。
私は死にたくないと願った。
どんなに不可能と言われようとも、諦めないと決めたのだ。
それを第一と決めた以上は、それ以外の何かに、私が生きるための選択へ干渉するのを許してはならない。
私の命が絡まないような選択であれば、そんな感情に流されても構わないだろう。
だがこれは、そんなどちらでも良いような選択ではないのだ。
私は、私が生き残る選択を選ばなければいけない。
だというのに、余計な感情が邪魔をしてくる。
思考が揺らぐ。
ああ、心というのは本当に難しいものだ。
しかし、だからと言って、私はこの心を捨て去るという選択もしたくはない。それは私という意思の死と同義であり、それもまた私が忌避するものの一つなのだから。
結局私は、病魔の森中に配置した魔鼠情報網の名付け済み魔鼠たちへ、撤退した人間たちの足取りを追うよう命令を送るだけに留めた。これで少なくとも、人間たちが何処まで撤退していったのかは分かるだろう。
あの情報の通りであるのなら、人間たちは一刻も早く森を出ていくはずだから。
その後、私はDPを消費して第五階層に下げていた回復の泉を第四階層へと戻し、重傷を負ったガルセコルトと魔鹿たちにそれを使わせた。
ガルセコルトもそうだったが、魔鹿たちもかなりの重傷を負っている。今のままでは、大幅な戦力低下だ。もし人間たちが森の途中で別戦力を加え、即座に反転して再侵攻を仕掛けて来たら、彼らには万全の状態で戦って貰いたい。
とはいえ、さすがにジャイアントディアーはその巨体故にダンジョンへ入ることが出来ず、回復の泉を使わせることも出来なかった。ただ、クリスタルホーンディアー曰く、ジャイアントディアーは生命力の高い魔鹿なので放っておいても死にはしないだろう、とのこと。
まあ、いくら生命力の高い魔鹿とはいえ、さすがにジャイアントディアーが回復するまで暫くはかかるだろう。その間、ジャイアントディアーに戦力としての期待は出来そうにないが、仕方ない。
ジャイアントディアーには、全力で傷の回復に尽力して貰おう。
そうして、私たちと人間たちとの戦いは、一先ず何とも言えない微妙な終わりを迎えたのだった。




