07.特訓の成果?
前生で呼んだ小説の知識を参考に、男はスキルを覚えるための特訓を行っていた。
男が覚えたいのは、外部を知覚できるスキル。ダンジョンコアなる存在となり、失ってしまった五感の代替品だ。
外の世界を知覚できない現状では、危険が迫ってもそれを知ることすらできない。男にはそれが怖かったのだ。
男の知識と今の状況から選び出したスキルの候補は三つ。
男はそれらの知識と独自の考察から、特訓の内容を決めてそれを行いだした。
全ては己の安全と好奇心のために。
〈スキルの習熟度が一定値に達しました。スキル
『精神的苦痛耐性』のレベルが2から3へ上がりました〉
……。
〈スキルの習熟度が一定値に達しました。スキル
『精神的苦痛耐性』のレベルが3から4へ上がりました〉
…………。
〈スキルの習熟度が一定値に達しました。スキル
『精神的苦痛耐性』のレベルが4から5へ上がりました〉
………………。
あれから、DP時間的に100DP程経った。
かなり長い時間のようにも感じるし、一瞬であったようにも思う。
スキル『精神的苦痛耐性』も順調に育っており、今は5レベルに到達した。良い事なのだろうか? まあ良い事だと思っておこう。
精神的な苦痛はそれで鳴りを潜めたらしく、以降はレベルが上がらなくなった。或いは精神的負荷に対して逃げるのと逆に踏み込めば、さらにレベルが上がるかもしれないが、これ以上このスキルのレベルを上げることに現状意義は見いだせなかったので、そのまま放置している。
痛みに対して踏み込むことは可能だが、踏み込む度合いによっては一発で発狂しかねない。こんな外部からの刺激がなにもない状態で一度でも精神のバランスを崩せば、もう二度と正常には戻れないだろう。
それに、この世界で唯一の感覚である精神的な痛みすら完全に存在しなくなってしまったら、自分を保てなくなるような気がしたというのもある。肉体の無い思考だけの存在というのは、存外に心細いものだ。いや、肉体が無いわけではないのだろうが。
そんな風に心が弱音を吐くくらいには時間が過ぎたのだろう。
その間、DPの増加と『精神的苦痛耐性』のスキルレベル以外に目立った変化は起きていない。
何一つ、起きてはいないのだ。
そりゃ無い口でため息の一つもつきたくもなる。
魔力感知と空間把握。現状この二つが一番可能性が高いと考えている。それが私の知識の限界であり、同時に手応えのようなものを感じることが出来た可能性だったから。
でも、その可能性も今は眉唾だ。ただの思いこみ、或いは思い過ごしだったのではないかとさえ感じるくらいに変化はない。
心が少しずつ磨耗していく。感情の起伏が緩やかになっていき、思考しようという意思が低下していく。でもその先にあるのは、私が恐怖した終わりではない。延々と続く果てのない静寂。
ただ、今は思うのだ。
続くのであれば、それでいいのかもしれない。
続くのであれば、それもまたいいのかもしれない。
終わらなければ、それで、それで、それ、で……――――
いや、駄目だろうっ! 自分が保てなくなれば、それは私とは言えない。
私は消えたくないから、ここにいるのだ。可能性は消えていない。
まだ、まだ続けよう。せめて、この可能性を無くさぬように。
DP時間にして、200DP程の時間が経過した。
長い、長い時間が経過した気がする。
当たり前なことだが、これだけ経っても得たDPは200DP程度。ダンジョン拡張はこの程度のDPでは何一つ出来ない。
魔物図鑑を見ても、相変わらず赤ちゃん鼠の名前一つで興味を惹かれるような変化は無い。宝図鑑も同様のようだ。
そもそも見ることも触れることも出来ないのなら、召喚したところでなんだというのか。
200DPの価値の基準として、赤ちゃん鼠ことベビーラットに換算して20匹分。
魔物とはいえ、鼠20匹で何をしようというのか。
大量の鼠ならば脅威になりうるとは思うが、20匹では高が知れているだろう。
ダンジョンの魔物なのだから、その役目は侵入者の排除となるのだろうが、これでは戦力などとは到底呼べない。
それに何一つ外を知覚出来ない状態で、それを行うにはまだ不安が付きまとう。もし万が一、召喚した魔物が襲ってきたらそれを知覚することすら出来ず死ぬことになる。まあ私がダンジョンであり、それがダンジョンの機能である以上、無いだろうとは思うけど。
本当にいざというときのために、まだまだ貯め込んでおくべきだろう。
それに徒に戦力を持つということに、私は否定的だ。力があれば自身の身を守れるし、他者に対して戦力を誇示して相手の戦意を削ぐことも出来るだろう。ただそれは同時に相手から脅威と認識される要因にもなりかねないし、力を持てばより強い力を持つ者たちの目に留まりかねない。出る杭は打たれると言うのは、人間社会だけの話ではない。
弱い者が生き残る上で大切なのは中途半端な力ではない。周囲に紛れ、溶け込み、普遍的であるということだ。それはすなわち、明示的、暗黙的なルールを守るということ。
今の私はとても弱い存在だ。だからこそ、弱いなりの生き方を考えなくてはならない。
勿論それでも突発的に襲い来る危険はある。それは実際に、それで一度死んだ私が一番よくわかっている。それでも今、五感すらなく周囲の確認もできない私が、中途半端な力を持つよりは、なにも持たない方が良いと考えたのも未だDPに手を着けていない理由だ。
ところで最近、空間把握の特訓中に昔の記憶が混在するようになってきた。人だった頃の体の記憶だ。あまりの変化の無さから、集中力が切れた為と思われる。
そもそもよく考えてみれば、特訓の内容も最初の頃の思想とはかなりかけ離れてしまっている気もするが、まあいいだろう。
いつものように空間把握の特訓を始める。
真っ暗闇の中で想像するのはあの神と出会ったような真っ白い部屋。なぜあそこなのかと問われれば、あそこが一番想像しやすかったからとしか答えられない。ダンジョンと聞くと洞穴を連想するから、空間把握ならそちらを想像するべきなのだろうが、生憎と洞穴なんて身近には無かったので、想像しにくい。だから代わりに最も新しい記憶であり、想像しやすいあの白い空間を想像するしかなかったのだ。少しずつ安定していく空間。それだけだと退屈なので、そこにかつての記憶にあった物を一つ一つ置いていく。ただの手慰みだ。
ここは白い部屋。ここは白い部屋。ここは白い部屋。
ただただ考える。想像する。
ここはダンジョン。ここはダンジョン。
そうここは部屋で、ダンジョン。
ここは私。ここは私。ここは私の中。
そう、私はダンジョンで部屋で私は私の中にいて……。
ここは、私? 私がここ? ここは誰? あれ? ここは、どこ? 私は、誰? 私は何だっけ?
何だか思考が狂いだして……ここは、
フラッシュバックする真っ白な、部屋の中。
そこに立つ、私――。
〈スキルの習熟度が一定値に達しました。スキル『空想空間LV1』を獲得しました〉
唐突に目の前へその文字が現れた。
トリップしかけていた意識が強制的に引き戻される。一瞬、空間把握のスキル獲得に成功したのかと喜色めいたのだが、ステータスを開き、改めてその文字をよくよく見て、それが間違いであることを知った。
名前:――――
種族:ダンジョンコア
年齢:0
カルマ:±0
ダンジョンLV:0
DP:212
スキル:『不老』『精神的苦痛耐性LV5』『空想空間LV1』
称号:【異世界転生者】【□□□□神の加護】【時の呪縛より逃れしモノ】【聖邪の核】
スキル『空想空間LV1』。字面からも明らかに望んでいた感覚、探査系のスキルではないと分かる。いや、そもそも空想空間てなんだ?
空想て。
字面から考えて想像したモノを自在に生み出せる空間とか作れるようになるのだろうか?
それって、すごいチートだ。一気に最強になってしまいそうな予感。
すごい。スゴイゾ。スゴイナー。
うん。でもまあ違うんだろうけど。
そんな都合のいいスキルが妄想していただけで唐突に覚えられるとは思えない。
何はともあれ、とりあえず使ってみようか。
……これ、どうやって使うんだ?
ふむ、習熟度を得た時の方法を試してみようか。
という訳で、私は真っ白な部屋を強く想像する。
段々と、深く深くそこに意識は集中していき。
気が付くと私は真っ白な部屋の中心に立っていた。
そう、立っている。足がある。手がある。目も、口も、顔も、身体がある。
「あ。あー」
声も出せる。足も動かせるし、手も動かせる。
自分がいる。自由に動ける。私が私になっている。私は自由だ!
それを理解した瞬間、私はそれほど大きくないその部屋の中を走り回っていた。
自由とはこんなにもいいものだったのか。
忘れていた感覚が蘇る。
おかしい。どれだけ走り続けていても、身体が疲れる感覚は無い。
前生では適度に運動もしていたから、全然走れないということはないが、それでも異常なほどだ。
どうなっているのだろう。
暫く走り続けて、いい加減満足したところで立ち止まった。
とりあえずここでは、肉体の疲れなど存在しないということが分かった。
それと、自由に動かせる身体を失っていたことが、想像以上に自分の精神に負担をかけていたということも分かった。『精神的苦痛耐性』のお蔭で表面的には問題ないが、それでも抑圧されていた意識の疲れというものは存在するらしい。
そもそも苦痛とは異常を訴えるための感覚である。それが減ったからと言って、必ずしも異常自体が解決しているという訳ではないということだろう。
つまりスキル『精神的苦痛耐性』とは精神への痛み止めのようなものなのだろう。痛みを感じなくなっても無理は禁物ということだ。むしろ痛みが無いからこそ、か?
と、まあスキル『精神的苦痛耐性』に関しては置いといて。今はスキル『空想空間』についてである。
ここでは私に身体があることは分かった。
で、だ。次は空想を試してみようと思う。手の中に丸いボールを想像する。丸いゴムボールだ。経験上、想像する時は丸いものがやりやすい。それが手に収まるくらいの大きさならなお良し。
極端に大きすぎたり小さすぎたりすると、想像しにくいのだ。
色は白が良いかな。黒でもいいが。
カラフルなのは少し難しい。
なんでそんなに詳しいのかって?
そりゃ、魔法とかに憧れていた時分、色々出来ないかやってみたからだよ。手の中に剣等をイメージして、重さや感触等まで詳細に設定し、実体化しないかなとか。
若気の至りというのだろうか? 暇が有れば最近でもやっていたのだから、それは違うか。とはいえ、勿論前生では実体化なんて終ぞしなかったし、イメージ自体もあまり長くは続かなかった。
でも、今ならいける気がするのだ。スキルがあるというのもあるが、他に出来ることが無いこともあり、集中して白い部屋を想像し続けた事により、想像力が鍛えられている気がするから。
白いゴムボールはあっさりと手の中に現れた。
成功だ。続いて、黒いゴムボールを想像する。白いゴムボールが黒くなった。
まるで独裁者のようだ。私が白と言えば、黒いカラスも白くなる、と。
「ははっ」
続いて机と椅子を想像して座ってみる。うん、イイ感じだ。
ガラスのコップを想像して、その中にオレンジジュースを注ぐ。
酒でないのは体質上、私があまり酒を得意としていなかったからだ。
それを飲み干してみる。なるほど、飲んだことのあるオレンジジュースの味、のような気がする。
想像したとおりに。
次に黒いカラスを想像してみる。出てきたのは、カラス、の人形だった。あまり精巧でもない。でもぱっと思いついたカラスはそんな感じだった。次に、猫、犬を想像してみる。
どちらも出てきたのは人形だった。猫の方が少しばかり精巧に出来ているのは、私が猫を好きなせいだろうか。
他にも色々と生き物を想像してみるが、結局生きたものは出てこなかった。生き物は無理なのか、私の想像力の問題か、それともスキルのレベルが足りないのか。
精巧でないのは多分、デッサンなどが苦手だった事と関係がありそうだ。
まあいい。
目を瞑り戻ることを想像すると私の身体は消えて、また元通り真っ黒な世界の中で、メニューという文字だけが浮かぶ所に戻ってきた。
そして、もう一度スキル『空想空間』を起動する。
また、真っ白な部屋にやってきた。以前想像したものは消えている。
もう一度、想像すると、同じものが出てきた。
空想したものが現れる空間。現れたものの維持は難しくないが、完全にそれらが意識から離れると消えてしまう。
文字通りの空想のスキルだ。
あとはこの空間の外はどうなっているのかだが。
部屋の壁に扉を想像して開けてみた。開けた先は想像通り真っ暗だった。まあそうだよな。
扉を閉じて、扉の先に洞窟を想像する。もう一度扉を開けると、そこは洞窟だった。部屋の中心には光り輝く、クリスタルが宙に浮いている。
これは私だ。私が想像した私だ。想像した通りの私ではあるが、本物の私ではない気がする。
空想は所詮空想。中身のない想像だ。このスキルには実体が無い。
そう思う。
だが、まだ探求を始めたばかりだ。
これから暫くは、このスキル『空想空間』の探求と、また魔力感知の習得の為の特訓を続けようと思う。




