第71話: 再会、喜びと困惑
魔王城を背にしてから、幾日が過ぎたであろうか。
レオの足取りは、決意とは裏腹に、鉛のように重かった。
森を抜け、街道に出てからも、彼の苦難の旅は続いた。
昼夜を問わず歩き続け、身を隠しながら野営を繰り返す日々。
肉体は、魔王城での監禁生活と、その後の不眠不休の逃避行によって、とっくに限界を超えていた。
骨が軋み、筋肉は熱を持って悲鳴を上げる。空腹と渇きが、容赦なく彼の体力を奪っていった。
しかし、肉体の苦痛以上に彼を苛んだのは、心の痛みだった。
脳裏に焼き付いて離れないリリスの優しい笑顔と、ポケットの中で微かに震えるリルの温もり。
それが彼の唯一の支えであると同時に、彼の胸を締め付ける罪悪感の源でもあった。
彼女との約束を果たすため、仲間たちの元へ戻ると決めた。
その選択が正しいと信じている。
だが、これから彼らを欺かなければならないという事実が、重く、重く彼の心にのしかかる。
(俺は、嘘をつくのか…? あの二人を…)
親友であるエリックの、不器用だが実直な横顔が浮かぶ。
どんな時も彼の背中を預けられた、唯一無二の相棒。
そして、いつも仲間を案じてくれたセレーネ。
彼女の魔法だけでなく、その存在そのものに、どれだけ救われてきたことか。
彼らに、魔族の真実を、リリスの存在を、そして彼女への愛を、どうして語れようか。
長年信じてきた「正義」を根底から覆すような話を、彼らが受け入れられるはずがない。
それは彼らを混乱させ、苦しめるだけだろう。
今はまだ、その時ではない。
(そうだ…今は、これでいいんだ)
レオは、何度も自分に言い聞かせた。
これは未来のための、一時的な偽りなのだと。
リリスと再び会うため、そして人間と魔族が手を取り合える世界を築くという、途方もない理想を現実にするための、必要不可欠な試練なのだと。
疲労困憊の体を引きずり、ようやく見覚えのある街の城壁が見えてきた時、レオは安堵よりも先に、極度の緊張に襲われた。
これから始まる再会が、彼の新たな戦いの始まりを意味していたからだ。
彼らが拠点にしているであろう宿屋の扉は、やけに重く感じられた。
ぎしり、と音を立てて扉を開けると、喧騒に満ちた酒場の空気が、彼の全身を包み込む。
その瞬間、一つの声が、彼の名を呼んだ。
「……レオ?」
それは、聞き間違えようのない、セレーネの声だった。
振り返った彼女の瞳が、驚きに見開かれる。
手に持っていたグラスが滑り落ち、床に叩きつけられて甲高い音と共に砕け散った。
その音で、酒場の隅のテーブルで険しい顔をして地図を睨んでいたエリックも、顔を上げた。
「レオ…!
レオなの!?
本当に…!?」
セレーネが、椅子を蹴立てるようにして駆け寄ってくる。
その目からは、すでに大粒の涙が溢れていた。
彼女はレオの胸に飛び込むと、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
「よかった…
生きて…本当に、よかった…!」
その温かい感触と、震える声に、レオの張り詰めていた緊張の糸が、わずかに緩む。
そうだ、俺はこの温もりに会うために、戻ってきたのだ。
「ああ…
ただいま、セレーネ」
彼女の背中を優しく叩きながら、レオはかろうじてそう答えた。
その声は、自分でも驚くほどにかすれていた。
「レオッ!」
遅れて駆け寄ってきたエリックが、レオの肩を掴んだ。
その力強い感触に、レオはよろめきそうになる。
「無事だったのか…!
いったい、何があったんだ!
魔王城に捕らえられたと聞いて、俺たちは…!」
喜びと安堵。親友の表情には、偽りのない感情が浮かんでいた。
だが、その瞳の奥に、すぐに別の色が混じり始める。
困惑、そして疑念。エリックの鋭い視線が、レオの全身を、まるで値踏みするように観察していた。
「見ての通りだ、エリック。
なんとか…生きて戻ってきた」
レオは、精一杯の笑みを浮かべようとしたが、疲労で引きつった口元は、歪な形を描くだけだった。
「ひどい顔…
それに、こんなに痩せて…。
一体どんな酷い目に…」
セレーネが涙に濡れた瞳でレオを見上げ、そっと彼の頬に手を触れる。
「魔族に捕らえられていたんだ。
魔王城の…地下牢に」
レオは、当たり障りのない事実だけを口にした。
だが、彼の頭の中では、リリスと過ごした穏やかな日々が鮮明に蘇っていた。
あの地下牢は、彼にとって監獄であると同時に、新しい世界への扉でもあったのだ。
「それで…
どうやって脱出したんだ?
あの魔王城から、一人でか?」
エリックの声には、安堵とは別の、硬質な響きが混じっていた。
それは、尋問する者の声色だった。
「…ああ。
隙を見て、なんとか…」
言葉が、続かない。
リリスが手引きしてくれたこと、魔族の中にも彼を助けてくれた者たちがいたことなど、到底言えるはずもなかった。
嘘を重ねれば、必ず綻びが生まれる。
レオは、曖昧な沈黙でその場をやり過ごそうとした。
「今は、無理に話さなくてもいいのよ、レオ」
セレーネが、エリックの追及を遮るように言った。
「どれだけ怖くて、辛い思いをしたか…。
魔族に捕まっていたなんて…
考えただけでも恐ろしいわ。
今はとにかく休んで。生きて、私たちの前に戻ってきてくれた。それだけで、十分よ」
彼女の優しさが、レオの胸に深く突き刺さる。
その言葉に甘えたい衝動と、彼女を欺いている罪悪感とが、彼の内で激しくぶつかり合った。
「…すまない、セレーネ。
ありがとう」
「だが、セレーネ。
こいつは勇者を目指して俺たちと共に戦う仲間だ。
何があったのかを正確に報告する義務がある」
エリックは、納得していなかった。
彼の視線は、なおもレオに注がれている。
「レオ、お前ほどの男が、そう易々と捕まるはずがない。
それに、魔王城の厳重な警備をどうやって突破した?
お前の体を見る限り、大きな怪我をした様子もない。
拷問された痕も…
ないように見えるが。
それはどういうことだ?」
鋭い指摘だった。
かつてのレオであれば、魔族との激しい戦闘で負ったであろう無数の傷が、今の彼にはない。
リリスの献身的な治癒のおかげで、彼の体はむしろ以前よりも万全な状態に近かった。
疲労困憊なのは、あくまで精神的なものと、その後の逃避行によるものだ。
レオは、エリックの視線から逃れるように、わずかに俯いた。
「…色々と、あったんだ。
今は、上手く話せない。
頭が、回らないんだ…」
疲労を言い訳にするしかなかった。
それは事実でもあったが、同時に、核心を避けるための卑怯な盾でもあった。
そのレオの態度が、エリックの不信感を決定的なものにした。
かつてのレオは、どんな逆境にあっても、決して仲間から目を逸らすような男ではなかった。
彼の瞳には、常に揺るぎない正義の光が宿っていたはずだ。
だが、今のレオの瞳に宿っているのは、決意の光ではあるものの、その奥に深い苦悩と、何かを隠すような翳りが見えた。
「…そうか。
疲れているんだな。
無理にとは言わん」
エリックは、一度そう言って引き下がった。
しかし、その声は明らかに冷めていた。
彼はセレーネに目配せし、レオを部屋へ連れて行くように促す。
セレーネに肩を支えられ、宿の二階にある部屋へと向かうレオ。
その弱々しい背中を、エリックは腕を組んだまま、険しい表情で見送っていた。
(あいつは、何かを隠している…)
親友だからこそ、その僅かな変化が手に取るように分かった。
魔族への憎悪を口にしないこと。
魔王城から生還したにしては、あまりにも不可解な点が多いこと。
そして何より、あの瞳。
以前の、盲目的なまでに正義を信じていた光とは、明らかに何かが違っていた。
(魔族に、何かされたのか?
精神を…操られているとか…?
いや、それとも…)
エリックの脳裏に、最悪の可能性がいくつも浮かび上がる。
レオへの深い友情と信頼が、逆に彼を強い疑念へと駆り立てていた。
親友の変化の理由を、彼は突き止めなければならない。
それがたとえ、残酷な真実を暴くことになったとしても。
一方、セレーネに連れられて部屋のベッドに腰を下ろしたレオは、彼女が部屋を出ていくと同時に、どっと全身の力が抜けるのを感じた。
ポケットにそっと手を入れると、リルの小さな体が震えているのが伝わってくる。
「大丈夫だ、リル…。
大丈夫…」
それは、リルにではなく、嘘で固めた自分自身に言い聞かせる言葉だった。
再会の喜びも束の間、仲間との間に生まれた、見えない亀裂。
それはレオがこれから進む、茨の道の始まりを告げていた。
愛する者を守るためについた嘘が、最も大切な友人との絆を、静かに蝕み始めていた。




