第52話:沈黙の中の繋がり
魔王城の深い地下牢での日々は、飢えと渇き、そして肉体の痛みによって、レオの感覚から時間の概念を奪い去っていった。
しかし、その無意味な時の流れの中に、ただ一つ、明確な区切りを与える存在があった。
それは、リリスだった。
彼女は、毎日決まった時間に、あるいはそうレオが感じるようになった頃に、あの冷たい鉄扉の向こうに現れた。
最初は、昨日と同じように、無言で食事を置き、すぐに立ち去ろうとする。しかし、レオの心に芽生えた微かな希望の種は、彼女の存在によって、ゆっくりと育まれ始めていた。
質素なパンと不思議な色の水。それが彼の唯一の糧だった。
レオは、体を起こすことすらままならない日もあったが、彼女の訪れだけは、どんなに苦しくても意識を保とうと努めた。
彼女の銀色の髪と、星を閉じ込めたような青い瞳は、この暗闇の中で、唯一の「光景」だった。
ある日、リリスがいつものように食事を運んできた時、彼女はすぐに立ち去ろうとはしなかった。鉄格子の前に静かに佇み、レオの顔をじっと見つめている。
その視線には、かつて彼が感じ取った深い悲しみが、薄く霞がかかったように漂っているようだった。
しかし、その悲しみは、今やレオにとって、彼女の純粋さを際立たせる神秘的な要素となっていた。
レオは、言葉を発する気力もなかったが、彼女の視線を受け止め、ゆっくりと呼吸する。
その時、彼のボロボロになった服のポケットから、またしても、小さな光が漏れ出した。
リルだった。
この数日間、リリスの訪問が続く中で、リルもまた、彼女の放つ清らかな気配に慣れ始めていた。
警戒心を解いたリルは、リリスの存在に安心感を覚えたのか、レオの胸元から、そっと顔を覗かせた。
リリスの青い瞳が、再び、微かに輝きを増した。
彼女の無表情な顔に、昨日のような明確な喜びの兆候はなかったが、その視線は、愛らしいリルに吸い寄せられている。彼女は、まるで貴重な宝物を見るかのように、じっとリルを見つめ続けた。
そして、リリスは、おずおずと、まるで壊れ物を扱うかのように、細く白い指を鉄格子の隙間から差し入れた。
その指先が、ゆっくりと、リルの小さな頭へと近づいていく。
リルは、一瞬身をすくめたものの、リリスの指先に触れるか触れないかの距離で、ピタリと動きを止めた。
リリスの指が、ふわりと、リルの柔らかな頭を撫でた。
その感触は、微風のように優しく、まるで触れること自体を躊躇うかのようだった。
リリスの顔に、再び、ごく微かな、しかし確かに存在する「笑み」が浮かんだ。
それは、満開の花が綻ぶような華やかさではなく、氷の湖面に、春の光が差し込んだかのような、静かで、清らかな微笑みだった。
彼女の瞳は、その瞬間にだけ、すべての悲しみを忘れ去ったかのように、純粋な好奇心と温かさで満たされていた。
その無垢な仕草に、レオの心は深く揺さぶられた。
この殺風景で、絶望に満ちた場所で、これほどまでに純粋な感情が表現されるとは。魔王城の冷酷な雰囲気とは、あまりにもかけ離れたその光景は、彼の心を震わせた。
彼女が、人間とは異なる存在であることは理解できたが、その本質的な「優しさ」は、レオの知るどんな人間にも匹敵する、いや、それ以上に清らかなものに感じられた。
リルもまた、リリスの優しさに触れ、完全に警戒心を解いたようだった。
リリスの指に擦り寄るように、小さな体を動かす。その仕草は、まるで信頼を寄せる子猫のようだった。
リリスは、数分間、リルを撫で続けた。
その間、牢獄には、ただ二つの小さな生命と、一人の囚われた男の、静かな息遣いだけが響いていた。
言葉は一つも交わされない。しかし、そこには、言葉以上の、確かな「繋がり」が生まれていた。
やがて、リリスは、名残惜しむように、ゆっくりと手を引いた。
彼女の瞳は、リルを見つめていた時と同じ、柔らかな光を宿したまま、次に、レオへと向けられた。
その青い瞳は、レオの傷だらけの体、特に肩の辺りを、じっと見つめた。
そこには、魔王との戦いで受けた深い傷跡が残っていた。
リリスの視線には、言葉はないが、明確な気遣いと、静かな心配の色が滲んでいた。
彼女は、何も言わない。
しかし、その眼差しは、レオの心に、直接語りかけてくるようだった。
大丈夫か、と。
痛まないか、と。
あるいは、何らかの助けを必要としているか、と。
レオは、彼女の純粋な視線を受け止めた。
彼は、初めて、この牢獄で、自分の存在を気遣ってくれる、温かい眼差しを感じた。
それは、かつてアルスやエリック、セレーネが彼に向けてくれたような、仲間からの気遣いとは、また違う種類の、無垢で、見返りを求めない優しさだった。
リリスは、しばらくその場に佇んでいたが、やがて、ゆっくりと身を翻し、鉄扉へと向かった。
足音が遠ざかり、重い扉が閉まる。
再び訪れた静寂の中、レオは、冷たい石床に横たわった。
だが、彼の心は、もはや以前のように、絶望と暗闇に支配されてはいなかった。
リリスとリルとの、短いながらも密やかな交流。
彼女の無垢な仕草。リルへの優しさ。そして、自分に向けられた、静かな気遣いの眼差し。
それらすべてが、絶望の淵にいたレオの心に、微かな温もりをもたらし始めていた。それは、やがて、彼の囚われた魂を、再び奮い立たせるための、小さな希望の炎となるだろう。
レオは、閉じた瞼の裏に、リリスの純粋な瞳と、リルを撫でる優しい指先を思い描いた。
この出会いが、ただの偶然ではないことを、彼の直感が告げていた。
そして、この沈黙の中の繋がりが、彼が囚われた意味、そして今後の展開に、大きな影響を与えることを、レオはまだ漠然としか理解していなかったが、確かに感じ取っていた。




