8.優しい人
二人分に用意し直されたティーセットを前に、一見和やかな雰囲気で向かい合う二人だったが、エリーナは内心パニックに陥っていた。
(どうしましょう…まずはお義母様の非礼を詫びるべき?それとも、相手が触れるまでは何も見ていなかったフリをするのがマナー?…淑女として好まれるのはどちらの振る舞いなのかしら…)
常に完璧を求められてきたせいで、教科書通りの対応しか出来ないエリーナ。急な事態の対応には弱かった。
すると、エリーナが正解を導き出す前にフィニアス口を開いた。
「突然の縁談ですまなかった。嫌だったら断ってくれて構わない。」
(なんですって?)
フィニアスの口から紡がれた言葉に、エリーナが瞬きを忘れて驚く。咄嗟のことに言葉が出ない。
「断られたとしても、もちろん君の責にはしない。エリーナの不名誉にならないよう手を尽くす。だから気を遣わないでもらいたい。」
相変わらず単調だが、真剣さを感じる声音だった。
(心から私の身を案じてくれているみたいに聞こえるわ。とても誠実なお方…)
嘘には聞こえず、エリーナの目にはフィニアスは気遣いの出来る心優しい人に見える。
その真っ直ぐな金の瞳に応えるように、深く頷き返した。
「最初に申し上げました通り、良きご縁だと思っておりますわ。」
最初の建前とは異なり、今度は本心でそう思ったエリーナ。気付いたら、完璧に整った貴族の笑みよりも口角を上げ、ふにゃっとした親しみのある笑顔を見せていた。
「やはり笑顔がいいな。」
「……っ。申し訳ございません。」
(なんてみっともないことをっ……)
緩んだ顔を見せていたことに気付き、慌てて顔を背けたエリーナ。羞恥心で心臓が飛び出してしまいそうであった。
「何も謝るようなことではないが?俺の前で取り繕う真似はしなくていい。」
「お心遣い痛み入ります。」
エリーナが背筋を伸ばして深く頭を下げた。その所作は目を奪うほど美しいのに、フィニアスの瞳には、つゆほども魅力的に映っていなかった。
「フィニアス様、そろそろお時間です。」
足音を立てずに近づいて来たシュヴァルツが腰を屈めて、静かな声でフィニアスに耳打ちをする。一瞬無視したい気持ちが沸き起こったが、仕方なく立ち上がった。
「エリーナ、今日は縁談を受け入れてくれたことを感謝する。…良かったらまた時間をもらえるか?」
事務的な言葉の最後、エリーナに向けるフィニアスの表情が柔らかくなる。
「は、はいっ。」
自分に向けられた瞳に熱を感じて、動揺したエリーナは不覚にも焦って短く返してしまった。
(私はなんて失態を…また叱られてしまうわっ…)
条件反射でキツく目を閉じたエリーナ。
間違いを犯すと決まってメロウナの怒号と暴力が飛んでくるのだ。痛みに耐えられるよう、全身に力を入れて身を固くする。
「ありがとう。楽しみにしている。」
「!!」
固まるエリーナの頭を優しい手つきで撫でると、フィニアスは控えていたロナウドに見送りを指示して行ってしまった。
(え…?どうして私は罰を受けなかったのかしら。それに最後のアレは…)
フィニアスの足元と彼の後ろ姿しか見ることが出来なかったエリーナだったが、最後頭の上で微笑まれた気がしたのだ。
なぜか分からなかったが、彼が自分に笑みを向けてくれた思うと全身が熱くなった。
先頭を行くロナウドが振り返らないのをいいことに、エリーナは熱を持った顔を小さく仰ぎながら歩を速めたのだった。
フィニアスが手配してくれた馬車で帰宅したエリーナ。
彼に向けられた優しさと熱が現実のものに思えず、ふわふわとした足取りで玄関の扉を開ける。夢見心地で頭がまだぼんやりとしていた。
「よくも私の顔に泥を塗ってくれましたね。」
中に入ると、烈火の如く怒り狂ったメロウナが仁王立ちで待ち構えていた。手には仕置き用のムチを持っている。
「どうせ私の悪い話でも吹聴していたのでしょう。如何にも卑しいお前がやりそうなことだわ。」
「そのようなことはしておりませんわ。私はただフィニアス様と少しお茶をしただけで…」
「おだまりっ!」
「……っ」
怒鳴りつけたメロウナがムチでエリーナの腰を打ち付けた。
鋭い痛みが走る。床に膝をついて蹲りたかったが、品のない振る舞いをすれば更に罰が重くなる。エリーナは顔色を変えずただ痛みに耐える。
「これ以上私を愚弄するのなら、妹の方から先に金に変えてやる。大した金にならなくとも、お前の心を壊せるのなら悪くないわ。」
「そんなっ…おやめくださいませ!どうかマリエッタだけは…どうかっ…何でもしますから…」
崩れ落ちるようにして床に膝をついたエリーナ。涙声で必死に懇願する。妹に害が及ぶというのなら、なりふり構っていられなかった。
その姿を見たメロウナの顔に笑みが浮かぶ。
「では、あの公爵から多額の支援金を引き出すことが出来たのなら、やめましょう。」
「私が…あのお方からお金を…」
エリーナが絶望に染まり、声が震える。
(あんなにお優しい方を騙すだなんて…でもそれをしないとマリエッタが売られてしまう…)
その顔を見たメロウナが酷く歪んだ顔で愉快そうに笑った。
「名前呼びを許可されたお前なら、あの公爵に取りいるなど容易いことでしょう。金のために近づいたと知ったら、相手はどんな顔でお前を責め立てるのか…今から楽しみですね。」
メロウナの声はどこまでも楽しそうで、エリーナの人生など欠片も考えていないことがよく分かる。義娘二人のことはただの道具としか見ていなかった。
「痕が残らないようにこれの手当てを。しばらくは仕置き部屋に隔離しておくように。」
メロウナは後ろに控えていた使用人に指示を出すと、床に蹲るエリーナには目もくれずこの場を後にした。




