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5-2 知らないところで



「それはユニスくんがクラハさんのことを怖がってるだけだから、気にしなくていいと思うよ」

 あまり打ち解けられていなくて、と溢して返ってきた言葉がこれだった。



 真昼間だった。しかも夏が「ここで気張らにゃ暑い季節の面目が立たん」と無暗やたらに張り切っているあたりの時間帯。太陽があり、樹々があり、海風があり、さらには建物まである。そして驚くべきことにその『研究所』と名付けられた建物の中には部屋というものが複数存在しており、さらに信じがたいことにその『食堂』と名付けられた部屋の中には、『人間』と名乗る生き物が存在している。


 具体的には、ふたりいて。


 片方は朝早くに起きて、ついさっきまで研究室でネイという少女とともに草花の世話を手伝って己が知識を深めていた少女、クラハ。


 もう片方はネイが「昼寝します」と部屋に戻っていくのと入れ替わりで、「今起きた」と神々しさすら感じさせるような堂々ぶりで現れた青年女性、リリリア。


 何か食べようかな、とのっそり保冷庫を漁り始め、最終的に生卵をじっと握り始めたリリリアを見かねて、クラハはふたり分のお茶を淹れ、すぐに手を出せそうな菓子類を皿に載せ、それがなくなるまでの短い間に軽い焼き飯も用意した。


 するとそれらをもぐもぐ食べ続けるリリリアが、「ありがと~。願いを叶えて進ぜよう」と言い出した。


 いえそんな、と遠慮しようとしたところ、「じゃあお守りでもあげようかな」と彼女は服のポケットに手を入れ始める。慌ててクラハは考えた。とんでもないものを渡される前に、何か悩み相談でもさせてもらおう。


 そう思って口にしたのが、「あまり打ち解けられていなくて」の一言で。

 そう訊ねて返ってきたのが、「怖がってるだけだから」の一言だった。


「……え?」

「あれ。あんまりピンと来ない?」

「はい。怖がって……怖がる?」


 ユニスさんがですか、と訊ねれば、ユニスさんがです、とリリリアは頷く。私をですか、と訊ねても、私をです、とリリリアは頷く。もぐもぐ食べて、飲み込んで、それから綺麗な声でこんなことを言う。


「ユニスくんって、あんまり自分に自信がないから」

「………………?」

「私とかジルくんみたいにいかにもな感じの人ならともかく、クラハさんみたいなしっかりした人の前だと緊張しちゃうんだろうね。ウィラエ先生とかロイレン博士みたいに、共通項があるわけじゃないし」

「私みたいな……?」


 言われたことを、クラハはしっかり噛み締める。


 自分がしっかりしているとか、リリリアとジルのふたりがいかにもな感じであるとか。このあたりは否定しても仕方がないことなので(別にふたりがいかにもな感じであったり自分がしっかりしていたりすることには議論の余地がないとかそういうことではなく、そこから導かれる道筋の方が話の主題であるからとか、そういう類の仕方なさである)、一旦置いておく。置いておいて、別のことを考える。


 自分に自信がない。

 最年少の大魔導師が。初対面からなんというか、独特の雰囲気があったあの人が?


「人慣れしない猫みたいなものだと思って気長に接してあげてください。って、私が言うのもおかしいけど。でも大丈夫じゃない? クラハさんとユニスくんって同い年くらいじゃなかったっけ」

「あ、そうですね。たぶん」

「でしょ。だから心配しなくても大丈夫」


 ね、とリリリアは、夏の光をたっぷり浴びて微笑んだ。


 何が「ね」なのだろう。クラハの頭の中の冷静な部分は思った。別に同い年でも仲良くなれないことはあるような気がする。けれど、なぜだかそんな一言で全てが解決してしまったようにも思う。何せリリリアの声と微笑みはやたらに清げで、何を喋っても一定の説得力を持って聞こえるから。


 それに、


「お、噂をすれば」

「え?」


 そんなことを言って、有耶無耶な心をさておいて、彼女が立ち上がってしまったから。


 リリリアが椅子を引く。立ち上がる。ぐるりと机を回って窓辺へ行く。窓を開ける。その姿を追っていれば、自然とその行動の理由がわかる。


「どしたの、ユニスくん。こんなに暑いのに外で」

「屋内だと道がわからないから、一旦外に出て空を見てみようと思ってね」

「へえ。屋内の道がわからない人は大変だねえ」

「……どうして君は、研究所の中だとすいすい歩けるのかな」

「家の中で迷う人がいる?」

「少なくとも『ここは家だ』って認定した瞬間に急に迷わなくなる人はあんまりいないと思うけど……そういう妖怪?」

「そうだよ」


 よいしょ、とリリリアに脇腹のあたりを持たれて、ぐいーんと窓から搬入された人物。紫の髪。銀河色の瞳。


 ユニスが、窓の外にいきなり現れて、中にも入ってきたから。


「で、どうしたの。朝ご飯?」

「朝はもうだいぶ前に過ぎ去ったけど」

「諦めないで」

「しつこくして朝に嫌われたくないし……。別に、お腹が減ったわけじゃないんだよ。たださっき、ジルを見かけたんだけどちょうど――」

「あ、」


 ちょうどその言葉を発したあたりで、クラハはユニスと、目が合った。


「…………」

「こ、こんにちは。……いい天気ですね」

「あ、うん。こんにちは。……………………」

「…………はい」

「…………うん」

「果たしてこれほどの陽気は『いい天気』のうちに入るのだろうか。それを疑問に思えど、誰が答えてくれるわけでもなし。夏の沈黙だけが食堂に残るのだった……」


 勝手に語りを入れられつつ。

 ついさっきの話もあって、クラハはつい、そういう目でユニスを見てしまう。


 自分を怖がっている。

 本当に?


「っと、邪魔しちゃ悪いから、僕はもう行くね」

「あ、いえユニスさん、私はもう部屋に――」

「ちなみにどこに行くの、ユニスくんは」

「いや、別にどこでもいいんだけど――えっ、嘘」


 それを見極めるよりも先に、ばっと大きくユニスが動いた。


 屈みこむ。べた、と窓際の壁に張り付く。縮こまる。息を殺す。何かの魔法を使ったのか、存在感が希薄になったようにすら見える。


 それをした理由は、とても明白だった。


「あ、」

「お、」

 窓の外に、次の人物が現れたから。


「どしたの、ジルくん。こんなに暑いのに外で」

「普段の行動パターンから考えて、一旦外に出てるんじゃないかと思ってな。ユニスを見なかったか?」


 つい目線を送りそうになった。

 壁際にぴったりと張り付いた彼。奇跡的にも新たな登場人物――うっすらと額に汗したジルの目から逃れているユニスに。けれど、とクラハは自制する。目線の動きで悟られてしまうかもしれない。だからジルの顔を見たまま、視界の端でそれを収める。


 しーっ、と。

 ユニスが焦った顔で、唇の前に一本指を立てている。


「全然見てないけど。なんで? かくれんぼ中?」

「しないだろ、この年になってかくれんぼは……」

「命の危険も伴うしね」

「伴ってたまるか」

「でもちょっとびっくりした。ジルくんって建物の外周とかなら普通に回れるんだね」

「壁を触りながら歩けばいいだけの話だろ。何だと思われてるんだ俺は」


 正直ちょっとだけ、クラハも同じことを思っていた。

 もちろん東の国で人の足跡を追うことができたという実績がある以上、予想できてしかるべき程度の能力ではあるが、完全に、偏見の問題で。


「何でもいいけど、こっちには来てないよ」

 しれっとリリリアは言った。


 そうか、とジルは頷いた。ありがとう、じゃあまた、と手を挙げて、軽やかに去っていった。夏風を黒髪にたっぷりと受けた、非常に爽やかな走りぶりだった。


 ぷはっ、とユニスが息を吐く。


「ごめん。助かったよ」

 じゃ、僕は行くね。


 そう言ってユニスもまた、たったか走り出す。こちらも軽やかと言えば軽やかだが、とクラハは思う。あのくらいの運動能力にもかかわらず樹海の中でまるで疲れた素振りも見せないのは、一体どういう仕組みなんだろうか。


「見ましたか、クラハさん」

 その背が見えなくなったころに、リリリアが言った。


「何をですか」

「別にクラハさんが悪いわけじゃなくて、ユニスくんは万事あの調子ってこと。そろそろいいかな。おーい!」


 ジルくーん、と。

 リリリアが、窓から大きく身を乗り出して彼の名を呼んだ。森から鳥がわっと飛び立った。それが「なんだ別に何事もなかったな」と気付いて戻ってくるよりも、呼ばれた本人が戻ってくる方が早かった。


 はい、と素直に窓辺に再び立ち止まったジルに、リリリアは、


「よくここまで戻ってこられたね」

「近くで待機してたんだよ、一応」

「あ、ほんと? ごめんね。さっきの嘘。ユニスくん、さっきこっちの窓から中に入ってきたよ」

「だと思った」


 え、とクラハは二度言う羽目になった。

 一度目はもちろん、「それをバラしてしまうのか」という気持ちで。もう一度は、「知っていたのか」という気持ちで。


「この暑いのに窓を開けてるから変だと思ったんだよ。どっちに行った?」

「そこまでは言えない」


 そりゃどうも、とジルは窓を飛び越して、颯爽と中に入ってくる。それから廊下に出ていく――前にこちらを見て、「巻き込んでごめんな」と軽く頭を下げてくる。廊下に出る。左右を見回す。屈みこむ。泥の上の足跡を見るかのようにじっと床を見る。残念ながらそこに当然何の足跡もないことに気付いたのだろう、頭を抱える。それから闇雲に走り出す。


 その姿が見えなくなってから、


「教会でもよく思ったんだけどさ」

 リリリアが言う。


「色んな人に色んな人生があって、私たちがこうしてる間にも知らないところで色んなことが起こってるんだろうねえ」

「はあ……」


 それは確かにそうだと思うから、クラハは頷いた。

 けれど何がどうしてああいうことになっていたのかはわからないから、釈然としない気持ちにもなって、


「色々、あるんですね」

「そう。色々あるんだよ」


 その後のリリリアの「たぶん悩みも解決すると思うよ」という言葉にも、「そうなんですか」と首を傾げながら、他愛もない午後を送るほかなかった。



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