3-4 前段階
目の前に大蛇が現れた瞬間、クラハは剣を抜いていた。
ジルはいない。ならばここは自分が前衛を務める他ない――務めたい。その一心で剣を抜いた。他の五人を庇うように、前に出た。
しかし目の前の魔獣は強大で、とても己の膂力では通用しそうにない。
だから頼ったのは、自分のためにと考えてもらったその技だった。
「――〈吹け、強く〉――」
一息に、短く唱える。身体を強化する魔法。武器を鋭くする魔法。風を身に纏って、推進力にする魔法。まだ全てが未熟な仕上がりで、正式な詠唱がなくては、こんな簡略化した走り書きのような詠唱では、とても見られるような出来にはならない。
それでも。
まずは自分がその蛇の注意を引く。それがスタート地点のはずだ、と。
思ったから、飛び出して、
「未け――っ?」
その途中で、気が付いた。
自分が唱えたよりも、ずっと多くの魔力がこの身に宿っていること。
二倍、三倍では利かない。十倍、二十倍。
ひょっとすると、もっと。
なぜ、と思って振り返れば、それで思い至った。
神聖魔法の専門家、リリリア。
風魔法だって得意だろう大図書館の副館長、ウィラエ。
ふたりが、自分の後方にいたことに。
「ふぁいとー!」
「頼んだよ」
クラハくん、の言葉に反応することもできず。
膨大な魔力。元が同じ魔法だったとは思えないほど、身体を取り巻く全てが輝いて。
あとは、単純なこと。
「う、わ――っ!」
あまりに不格好な形で、その剣は、夏を引き裂いた。
†
「すごいと思う。短期間であれだけ未剣が使いこなせるようになるんだから本当にすごい。これはもう……すごいな。すごすぎる。俺なんか三年はかかったぞ」
「いえ、本当に偶然ですから」
あれからずっとこの調子で、クラハはもう照れとか『よかったことノート』とかそういうのを通り越して、「この人は本当に変わった人だなあ……」という感慨を得るに至っている。
時は移り変わって、夕暮れ。
一日の探索を終え、樹海の中。少し開けた場所を、ロイレンが樹木に関わる魔法を唱えて、『さらに開けた場所』にして、八人は野営の準備をしていた。
ロイレンとリリリアのふたりは、協力して周囲に築いた陣地を、さらに確固としたものに強化していたり。
デューイとネイのふたりはその陣地の中心で、火を熾したり調理器具を引っ張り出したり、口喧嘩をしたり。
ウィラエとユニスのふたりは、陣地の端のあたりで食材の下処理をしてくれていたり――。
クラハも同じく。陣地の端の方。
ロイレンの指示に従って手際よく集めることのできた食材を、細かく切り分けている。
そしてその隣で、ずっと喋っている人がいる。
「前から思ってたんだけど、すごい成長速度だ。基礎の断片が元々あったからそれを繋ぎ直してる最中で、だから嚙み合えば一気にできることは増えると思ってたんだけど――あ、これはチカノも言ってたから全然、俺の勝手な思い込みとかじゃないと思う。それでも思ってた以上だ。剣術だけじゃなくて弓も使えたり魔法も使えたり神聖魔法も使えたり、『あるものを上手く使う』センスの良さみたいなのが出てるのかもな。こればっかりは後から伸ばそうとすると時間が掛かるところだから、ここまで磨いた状態で持ってるのは本当にすごいことで――」
ジルだ。
大丈夫なんだろうか、とクラハはハラハラしている。
彼もまた、自分と同じく包丁を使って食材を切り分けているのだ。
本人曰く「刃物を使うくらいしか取り柄がない」「だから切り分け係をやる」とのことで、実際にその手際は見事なものなのだけれど(というかこの工程ができるのだったらある種の料理であれば彼も上手に作れるのではないかという気もする。素サラダとか)、明らかに会話に集中力を持っていかれているし、その様子を隣から観察していると危なっかしく思うことこの上ない。いきなりストーンと指の上に刃が振り下ろされそうで怖いし、彼の刃物の扱いと肉体の頑強さのどちらが上回るのだろうかという想像が頭を過り続けて絶え間のない川の流れを思わせる。
「あの、ジルさん」
あと、それから。
「風はウィラエさんの、剣の鋭さはリリリアさんのお力あってのものですので……」
普通に、褒められすぎて恥ずかしくなってきている。
元々こういう人なのだということは、クラハも東の国でだいぶ思い知っていた。
別に自分に対してだけこうというのではなく、彼は誰にでもこうなのだ。
典型的な褒めて伸ばすタイプ。道場の指導手伝いをしていたときは、チカノが「こいつがいると門下生の定着率良いな……」と溢していたのも覚えているし、そのあとばっちり目が合って、両肩をぽん、と叩かれて「ま、ちょうどいいんじゃないですか。お互い片方ずつならともかく、ふたり揃ってるなら」と言われたりもした。
実際、たった数ヶ月一緒にいるだけなのに、もう己の持つあらゆる要素を隈なく褒められてしまったような気すらする。
それだけに、思うところがある。
「あまり、その。自分の力で成し遂げたことでもないので。このあたりで」
調子に乗るべからず、と。
褒めてもらえるのは嬉しいし、自分の良いところを知るのは剣術の上達――ジルの、そして己の流派で言うところの『秘剣』の発見へと繋がる。
だからこそ。
だからこそ、本当に長所として褒めてくれているところと、ジルが持ち前の親切心を発揮して褒めてくれるだけの部分を、自分でしっかり区別を付けないと、と。
「いや。それは不当に低い自己評価だと思う」
「え、」
思っていれば、しかしジルは、それにも負けずに言い返してきた。
「確かにちょっと不格好にはなってたと思うけど、あれだけの補助を曲がりなりにも攻撃までまとめられたのは、純粋にクラハがつけてきた力だ。それはちゃんと、誇るべきことだと思う」
あの未剣はバランスが重要な技だから、と。
かなり反論しにくい形で、しっかりとした高評価を与えられて、
「それに冒険者として活動していく以上、ひとりじゃない場面――チームを組んで戦う場面は多いだろ。そのときどきの味方と上手く協力できるっていうのも、立派な能力のひとつだと思う。与えられたものを受け取るのは、実はすごく難しいんだ」
さらにはすごく説得力のある根拠まで与えられてしまうから。
「……はい。ありがとうございます」
「うん。っと、こっちは切り終わったけど、次はこれでいいのか?」
「あ、いえ。順番によっては切り場が汚れてしまうので。ジルさんはこっちのみじん切りをお願いできますか」
「了解」
「…………」
与えられたものを受け取るのは難しい。けれど、クラハは。
正しく誇るべき、と言われたことを。
じっくりと、胸の中で消化することにする。
「やることなくなっちゃったんだけど洗うものとかないかな~……あ、クラハさん。今日はすごかったね、ずばーって!」
「は、はい! ありがとうございます、おかげさまで」
「いやいや。クラハさんの力だよ~。ジルくんとか、なんか死ぬほど嫌がるもん。心が広いよ、クラハさんは。少なく見積もっても猫の額より広いね」
「それ俺の心が多く見積もっても猫の額より小さいことにならないか?」
「間接的に言ってることを直接的に変換すると、人と人との間に軋轢が生まれるんだよ。ジルくん」
「その前段階ですでに生まれてるよ」
「…………」
そして即座に掘り返されたりもする。
何せ、八人もいるので。
†
今日は良い日だな、とジルは思っていた。
何せ調査もちゃんと予定通り進んだし。弟子の――というには実はまだしっくり来ていないけれど、旅の供が努力と実力に応じた力を発揮した、この上ない場面も見ることができたし。
それに、
「美味いな、これ」
食事まで、とにかく美味いのだから。
日はすっかり落ちていた。
森の暗がりの中。けれど車座の真ん中でぱちぱちと音を立てる焚火は、夏の夜を暑いくらいに照らしている。煙は天へと細く伸び、樹々の指の隙間をすり抜けるように、月の隠れた、星だけの夜空へ昇っていく。
お互いの顔はもちろんのこと、手元だってよく見える。
だから匙を動かしながら、ジルはその皿の中にあるものをよく見ていた。
至って普通のものばかりのはずである。
自分も手伝ったからわかる。芋類。葉類。毒々しい色合いの果実と鳥。何の変哲もない――流石に鳥も、羽根の下はよく見慣れたものだった――ものばかりを使った。だからロイレンが「煮込みます」と言ったときには、大体できあがるものの予想がついていた。
予想と違うものが出てきた。
「複雑な匂いだな。香辛料の混ぜ合わせが」
「ええ。実は結構、こういうのに凝ってまして。野営も回数を重ねることになるでしょうから、少しだけ工夫をしました」
このあたりで簡単に採れるものを使っただけだとロイレンは言うが、目の前にある煮込み料理の味は、しかしそれだけに留まるようには思えなかった。
全体に赤茶色をしているのは、取ってきた果実が赤かったからだろう。けれどその香りで一辺倒になっているかと言えば、そうでもない。いくつもの香辛料が合わさって、何をどう組み合わせて作ったのか、全く想像のつかない味をしている。
一朝一夕で辿り着いた味ではなかろう、と何となく想像もつく。
皿から目を上げてみると実際、その味に感じ入ったのか、ほとんど誰もがそれに黙々と匙を入れている。
例外は、ひとりだけ。
目が合うと彼女は、嫌そうな顔をして口を開いた。
「……あんまり調子に乗らせないでもらっていいすか」
ネイ。
ロイレンの助手で、おそらくこの中でも特に彼と親しいだろう彼女が、本当に嫌そうな顔で隣を指差しながら言う。
「この人、毒がなければ何でも鍋に入れちゃうんですよ。今日は浅瀬だから知ってる食べ物ばっかりでしたけど、ひどいときは本当に悪夢みたいな……」
「失敗と挑戦が魔導師を作るんですよ。ネイくん」
「いいです。私、先生みたいに魔導師になるつもりないんで」
毎日安全で美味しいものが食べられればそれで十分、と。
わかってませんね、なんてロイレンがそれを説き伏せ始めるのを聞きながら、気苦労が多そうだとジルは勝手にふたりを推し量る。
皿の続きに戻ろうとする。
「おかわり」「もらいまーす」
のだけれど。
早速隣のふたりが席を立って、少し離れたところに置かれた鍋に向かって、歩き出していた。
ユニスとリリリア。
ふたりはさかさか歩いて、どぱどぱ盛る。近くにいたクラハも皿が空になりかけていることに気付かれて、リリリアに押されるがままに盛られている。結構嬉しそうな顔をしている。
その光景を見ながら。
ジルは、ちょっとした安心も覚えている。
「お前は?」
そして誰かを見つめているとき、誰かに見つめられていることもある。
話しかけてきたのは、ロイレンの逆側の隣。デューイ。
金髪の彼が、しかし特段心からの疑問というわけではなさそうな顔で、
「相変わらずそんなに食わねーの? よくそれで身体保つよな」
「ほう。ジルさんはあまり食べないのか。意外だな」
合わせたのは、さらにその隣のウィラエ。
こちらは本当に疑問に思っているようだったから、ジルは、だいたい初対面の相手にする説明を、いつものように口にする。
「そうで……だな。食べようとすれば際限なく食べられるんだけど、キリがないから。必要な分だけ食べるようにしてる」
「キリがないからって理由で小食のやつめっちゃ面白いけどな」
「面白がるな」
「燃費が良いのだろうな。昼間にあれだけ運動しながら、それで済むのだから」
実は私も先ほどから空腹でね、と。
ウィラエは少し笑って言う。腹のあたりを平たく撫でて、
「というわけで、私もおかわりをしようかな。なくなる前に」
「オレも食ーおうっと。別に今日は何も仕事してなかったけど」
「あ、デューイ。私の分も」
「自分で盛れや」
「モテない」
「せめて『モテなそう』だろ。結果を出すなたったの一手で」
「あ、デューイ。私の分もついでに」
「おま……まあいいけど。料理長だし」
「副料理長は?」
わいわいと。
その一言を契機に、さらに火の周りは賑やかになる。
随分と、と。
もう残りも少なくなった料理を掬い取りながら、ジルは思う。
今日は良い日だ。
「ただいま~。お、ジルくん。皿が空になりかけだね。満たしてあげようか」
「まだまだ残ってたよ。取ってきてあげようか」
「いや、大丈夫。ありがとな」
ふたりも戻ってきて、ぼんやりと火を眺めながら。
こんな日がしばらくは続いていくのだろうと、
「ジルさんは、」
思っていると、
「とても優しく笑う人なんですね」
唐突にそんなことを、ロイレンが言った。
「え、」
予想もしていなかったから、そんな声が出た。
するとそれがかえって目立ってしまって、八人全員が、その発言に意識を持っていかれることになる。
「なん……?」
「ああ、すみません。あまり深く考えずに口に出してしまったので」
ナンパみたいになってしまいましたね、と。
口に出した当の本人は、大して悪びれもしない。隣のネイは単に呆れた顔をしているから、どうもいつものことらしい。こっちの隣のリリリアは「モテモテ~」なんて茶化してきて、もう隣のユニスは。
ユニスは、まじまじと、
「確かにそうだね。ジルって、何気ないときの笑顔が綺麗かも」
「…………」
「そっぽ向いちゃった」
「こっちからは見えてるよ。実況してあげようか」
「…………」
「下向いちゃった」
「そして悲しい人生が始まる」
始めるなよ、と言って、ちょっと気を取り直す。できるだけ厳めしい面つきを作って、皿に残ったあと一口をかつかつと匙の先で集める。何か別の話題をと思うが、大して話術に巧みな方ではないので、自然、
「『震え』って、大型魔獣のことだったりするのか?」
矛先を、素直に調査に関することに向けた。
「昼の大蛇を見ての推測ですよね」
その魂胆を知ってか知らずか、ロイレンはその質問を正面から受け止めてくれる。
「可能性としてはなくもないかと。ただ、しばらく私なりに調査して得た推測では、あの程度の大きさの魔獣では観測される『震え』には及びません」
「そんなにか」
結局、とロイレンが話すのをジルは聞いた。
あのずしんと震えたのは、調査対象である『震え』とは別のものらしい。その程度のものではない、と。そうなると結局、『震え』の調査とやらに来たはずなのに、今日一日はその『震え』に遭遇できなかったことになる。
「元々は十日に一、二度ほどのものでした。ただ最近はどうも頻度が大きくなってきているので、そう遠くないうちにジルさんにも体感していただくことになるかと。もっと大きくて……」
「大きくて?」
そうですね、と彼は一拍置いてから、
「不吉な感じ、と言えばいいでしょうか。といって、私には予見の力もないので本当にただの感想ではあるんですが」
「しかしロイレンの感じているとおり、そういう気配があることは確かだろう。四聖女のひとりを……リリリアさんを送ってくれたからには、教会側も何かしら思うところがあったのではないかな」
水を向けたのはウィラエで、向けられたのはリリリア。
ふたりはもぐもぐと口の中でものを噛みながら、しかし噛んでいる間は決して喋ることなく、結果として独特かつ上品なテンポで受け応えすることになる。
「いや。よく働く私を見て、休暇をあげようという気になったのかもしれません」
「はは。だとするなら、それはそれで安全が保証された旅になる。喜ばしいことだ」
ちなみに、とユニスが横で耳打ちをしてくれた。
魔法協会の側にも予知の力を持つ人々はいるけれど、残念ながら今はあまり正常に機能していないらしい。各地で外典魔獣が出没しているために、どの予知がどの苦境に対応しているのか、見定めがたいのだそうだ。
「ま、何にしろ」
スープの最後をからっと飲み干した男――デューイが、己が食の締めが話の締めとばかりに、そう口を開いた。
「調べてみないことにはわかんねえってこった。元々複雑な地形と地盤に、大量の〈魔力スポット〉。その上に〈先史大遺跡〉まであるんだから、変数が多すぎて今の段階じゃ何とも言えねえって」
個人的には、と彼は加えて、
「遺跡絡みだと技術者としては嬉しいところだな。大図書館の副館長様も来てくれたことだし、調べ甲斐がありそうだ」
ウィラエを見る。彼女は肩を竦める。そしてジルは、口の中でその言葉を繰り返す。
遺跡。
それは、この南方樹海に隠されてきた、先史文明の残り石のこと。
その言葉を皮切りに、会話は思い思いに流れていった。
ロイレンはクラハやネイと。これからはしばらくこの調子で進めるつもりだとか、そういうこと。細かな改善点。実用的なことを、丁寧に。
デューイはウィラエと。先史遺物に関する技術をどのくらい扱えるか。お互いの認識を擦り合わせるように。専門外の人間が聞いてもわからないような断片の言葉を、ちらほらと。
「ジル、リリリア」
そして、残った三人は。
ユニスに肩を叩かれた。ジルは彼を見る。黙ったまま彼は人差し指を空に立てる。こちらを見ていない。見上げている。だからジルも同じ方向を見る。リリリアもたぶん、同じようにした。
「あ、」「おお」
だからきっと、同じものを見た。
「見えた? 流れ星」
頷けば、ユニスが笑って、そんな風に。
夏が、深く沈んでいく。




