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6-4 〈天蓋落とし〉



「は――」

「あ、え――?」


 理解が、追い付かなかった。


 だって、さっきまでこんなところに魔獣はいなかった。雨ばかりが降っていたからとか、視界が不鮮明だったから見逃していたとか、そういうわけではない。こんなに大きな魔獣は、見落としようがない。


 こんなに、大きな。

 身の高さだけで建物の二階や三階に達するような、巨大な魔獣を意識できていなかっただなんてこと、絶対にあるわけが――


「避けて!!」

「――っ!!」


 イッカの声がなかったら、そのまま轢き潰されていたはずである。


 クラハは跳んだ――イッカのいる方とは逆の方に、可能な限りの力を込めて。ほとんどそれは後先を考えもしない跳躍で、頭から地面に突っ込んで、転がって、口にも目にも泥が入り込んできて、嘔吐いて、


 その直後。

 どぉ、と深く揺れる音がする。


 かろうじて視界が確保できている右目だけでクラハは見る――ついさっきまで自分たちがいた場所に残された、破壊の跡。


 地表ごとひっぺがされて、その場にあった竹だって、根っこも残らない。

 更地にされた、その場所を。


 あと一瞬、遅れていたら。

 自分たちが内臓ごと厚みをなくして、その一部にされていただろう場所……それをその目で、見た。


 そして、その魔獣は今。

 竹林を圧し折りながらその巨体を回して――。



 再び、こちらを殺そうとしている。



「イッカさん!!」

 今度は、クラハの呼びかけの方が早かった。


 顔に付着した泥を、傷がつくのも厭わないで一気に袖で拭う――それからイッカに、左に避けるよう指で指示をして、自分は右へと足を動かす。


 どう、と再び深い音がして。

 みしみしと地面を震わす魔牛の突進を、透かしながら。


 回避してなお、風圧でびりびりと肌を揺らされ、剥き出しだった頬の表面が裂ける。ぷつりと浮かんだ血の珠が泥と溶け合って、クラハはそれを手のひらに溜めた雨水で一気に拭い取る。このくらいの傷と痛みであれば、今の場面ではまるで気にならない。


 けれど。

 これをまともに食らってしまえば、と思うと。


 鼠型の〈門の獣〉など、比べ物にならない。

 ぞ――っと背骨に熱湯を流し込まれたような、恐怖が。


「わ、私が――」

「僕が時間を稼ぐ!!」


 遮るようにして、イッカが吠えた。


「クラハさんは町に連絡を! これ、先輩たちがいないんじゃ――」


 勝てない、と。

 その先は発するまでもなくわかったけれど、実際、それを発するだけに必要な間は、存在しなかった。


 さらなる突進。

 それをイッカは避ける必要があったし――、


 避けて、なお。


「マズっ――」


 魔獣も三度は同じ手を使わない。突進を避けるのにこちらが精一杯と気付くや、戦闘方法を速やかに変更してきている。


 すなわち。

 イッカが転がって避けたと見るや、その巨体を急停止させて。


 勢いを使うことなく、純粋な脚力と重量によって。



 頭から彼を、踏み潰そうとしている。



「〈跳ねろ、大きく〉!!」


 クラハの詠唱が間に合ったのは、幾度かこうした場面を経験していたから。

〈次の頂点〉でのサポーター時代に使ったことがある――地面を勢いよく隆起させることで、その場から負傷者や身動きの取れない人間を撥ね飛ばし、移動させる魔法。


 唯一、欠点があるとすれば。

 一度の詠唱では、クラハは撥ね飛ばした相手に対するクッションを用意できないということだけれど――、


「――ふっ!」


 イッカに関しては、心配がない。

 ジルに投げ飛ばされてなお宙返りを打って着地できる彼であれば――こうした回避方法は、何の苦にもならない。空中に飛ばされたところから上手く着地して、魔牛と距離を取る。


 けれど、やはり。

 それは拮抗ではなく、『運よく難を逃れた』と言うべき状態であり――、


「グゥウウウウ……」


 暗闇には、隆々とした体躯がぼう、と浮かび上がっている。

 とても人間が相手にできるとは思えないほどの筋骨。あれだけの大突進を経てなお、その肌には傷のひとつも見当たらない。


 その〈門の獣〉が、唸りとともに。

 その頭部に搭載された、これもまた巨大な角――それを、イッカの前方、低い位置に展開した。


 逃げ道を、完全に塞ぐようにして。


 マズい、とクラハはそれを見て瞬時に理解した。

 いくらイッカでも、あの角の射程で、あの速度の突進を躱せるわけがない。上空に身を翻すにしても、〈門の獣〉が頭を勢いよく上げてしまえば、空中では身動きが取れない。串刺しにされて、その細い胴を真っ二つに引き裂かれてしまう。


 必殺の間合い。

 それを取られているということが、クラハには、わかった。



「――行って」



 そして、イッカも。

 その震える声と、腕を見るなら――きっと。


 きっと、彼本人も、わかっていたのだと思う。


「待ってください! それじゃイッカさんが――!」


 クラハはどうにかしてこの場を打開する策を考えようとしている。思考を回している。どうすればいい。この必殺の状況で、一体どうすれば彼を助けることができる。そのことを、必死になって考えている。


「わかってるよ」


 イッカの両腕――魔紋が微かに、ばちりと輝く。


 あれを使うのはどうだろう、いやダメだ明らかに病み上がりで出力が足りていないし、そもそも〈門の獣〉はジルだから相手できていただけで、〈インスト〉を超えるほどの強度を持つものだっているのだと報告書で学んでいる。まして『すり抜け』だってあるのだから、迂闊に手を出したところでどうにもならない。


「わかってるなら――!」


〈門の獣〉の膝がゆっくりと曲がっていくのは、突進の準備のため。


 こちら側から攻撃するのはどうだろう、幸い〈門の獣〉は背中を向けている――だなんてことはまさか慰めにもならない。イッカの魔紋を使ってなお届かないかもしれない相手に通せる火力など自分は持ち合わせていない。それなら何か注意を引くだけでも何かないのか風の魔法なんて思考するだけで無駄何か一瞬でもいい標的をこちらに移し替えるような技が何か――


「それでも、お願い。……お願い、します」


 何も。

 何も、なくて。




「逃げて――――もう、僕のせいで誰かが死んじゃうの、嫌なんだ」




「ゴォオオオオッ!!!」


 魔獣が吼えたのは。

 その必殺の一撃を、放つため。


 大きく展開された鋭く太い角には、黒い魔力が乗っている。今までのそれにも増した破壊力が込められている。とてもではないがまともに受けて、命のあることは期待できない。


 それを相手に。


「ぉ、ぉおおおおおおッ!!」

 イッカは前方に踏み出し、掴んで、押さえ込んだ。


 ある種合理的で、理想的な動きだったのだと思う。

 魔紋を最大級に励起させ、しかしそれを雷として発することはしない。おそらくそこに宿る魔力自体も全て身体能力に変えている。その腕力で以て、魔牛の突進が発生し切るよりも前、加速と破壊力の融合の寸前、果敢に前に出ることで、出鼻を抑え込んだ。


 正面から組み合って、相手を力で御することが目的なら。

 イッカの動きは、間違いなく最適解であり。


「ぐ、ぅううううっ!」

「ガッ、ウウゥッ!!」


 そして残念ながら。

 最適解でもなお、力で御すことは叶わない魔獣を、相手取っている。


 泥の地面の上。お互いに踏ん張りは効きにくい。

 そのことが功を奏しているが、それでも結果は残酷に表れ始めている。イッカの両腕こそが拮抗に耐えきれず畳まれ始め、上方から落ちかかってくる魔獣の重量に、膝が折れかかっている。


 それを、見ながら。

 クラハは単純な計算問題を、強いられている。


 一と、二。

 どちらの方が大きいか。どちらが数として少ないか。被害として少ないか。どちらが――、


 どちらが、正しいか。

 それをクラハは、理解して。





「〈力なきものには、鋼の腕を〉!」


 その上で、間違えた。





「何、を――っ」

「グォオオオオッ!!」


 ほんの少しだけ――。

 本当に僅かな、短い呪文に乗せられた魔力の分だけ、イッカの力が〈門の獣〉を押し返した。


 ギリギリと――あまりにも高い領域での拮抗に、イッカの腕が耐え切れず出血を始めている。それを見て、見ながらしかし、クラハは回復と強化の呪文を、同時に唱えて、なけなしの魔力を、底に穴を開けんとばかりに爪の先で乱暴に掬い取って、


「――おねがい、は、こっち、も」


 クラハは自分が何をしているのかわかっている。ここで意地を張ることに何の意味もないことを理解している。戦略的には何の意義もない。ここであった戦闘を報告するだけの方がよっぽど人の役に立つ。自分がここにいる意味はない。何もない。なけなしの魔力を全部注ぎ込んでだらだら鼻血が出てきて頭の中が病気みたいに熱くて邪魔で無駄でゴミでどうしようもない無能で死んだ方がマシな愚か者でとうとうこれだけ明らかな選択肢も間違えて誰に向ける顔もなくて――、



 でも。

 どれだけ惨めでも。




「――もう、逃げたくない!!」




 叫べば。

 最もイッカの魔紋が励起する瞬間と、クラハの発した強化魔法のピークが、重なって。


「う、おぉおおおおおっ――!!」

「ガ――、」



 巨牛が。

 宙に、浮いた。



「うぁああああっ!!!」


 イッカもまた、叫んでいる。

 叫んで――角だけを持って、相手の身体の全てを、持ち上げて。


 無理矢理、山の方へと、ぶん投げた。


「ガァアアアッ――!!」


 巨牛が声を上げて、地面に叩きつけられる。木々を圧し折って、泥の上を滑って遠くへと、転がっていく。


 追撃を、すべき場面ではあったけれど。


「――ぅ、あ……」


 それを見送ったきり、どしゃ、とイッカはその場に膝をついて、崩れ落ちる。


 もう力は、残っていなかったから。


「イッカ、さん……」


 クラハはまた、彼のところへと。

 一度雨の流水で顔を拭って……二度、蹴躓きながら、近寄って。


 彼の肩の下に、自分の腕を差し込んで、起こそうとして。


「あ――」


 けれど、同じように。

 力をまるで込められず、ぐしゃり、その場に突っ伏してしまう。


 起き上がろうとしても、もう力が入らない――筋肉を使い切ったわけではないと思う。単に、魔力を使い過ぎた。自分の身の丈を超えた効力を持つ魔法の行使――その代償として脳が熱を持ち、正しい形で身体を動かすことを許してくれない。


 呼吸だって、上手くできなくなり始めるような有様で。

 指先に無理やり力を込めても、泥を掴むのが精一杯。


「……なんで、」

 ぽつり、声が隣から聞こえた。


「なんで、庇ったの」


 責めるような口調ではない、と思ったのは、幻想だろうか。

 自分の選択を誰かが認めてくれるかもしれないと……そんな浅ましい希望が生み出した、錯覚だったのだろうか。


 そんなことも、わからなかったけれど。

 わからなかったから、もう、思った通りのことを、答えるしかなかった。


「見捨てたく、なかった、から」

「……なに、それ」


 何度か、泥の上に落ちる音が聞こえて。

 やがてイッカだけが、どうにか体勢を整え終えたらしい――声が、少しだけ上の方から聞こえてきたから、そうわかった。


「いっか、さん、町に――」

「ごめん。もう、無理。内功、全然残ってなくて」


 足音が再び、聞こえてくる。

 それは近付いてくる――あまりにも重たいそれは、間違いなくついさっき投げ飛ばしたはずの、巨牛のもので。


 クラハは、どうにかようやく、頭だけは起こして、その姿を捉えた。


 どういうわけだろう、それは傷ついていた。

 鼠以降、ジルほどの剣士が何時間も相手をして、それでも傷ひとつ付けられなかったはずの〈門の獣〉の一種が――ただの投げ技を食らって、傷を負っていた。


 どういうわけだろう、と。

 イッカに何か、特別な力があるのか、それとも――そんな、思いついたとしても、誰にも披露することなく終わってしまうだろうことを、ずっと。


 しかしやがて、その思考も止まる。

 イッカの言葉を、聞いたから。


「あのね、クラハさん」


 彼はもう、動く気配を見せない。

 動いたところで無意味だとわかっているのか……それとも、単純にもう、動く力がないのか。どちらなのかは、クラハの目からはわからないけれど。


「ずっと、気にしてたことがあってさ、」

「…………はい」


 巨牛の姿勢が、低くなる。

 こちらに再び、突進をしてくる……そんな構え。肉体は傷つきながら、しかしその大きな角だけには、いまだかすり傷のひとつもないままに。


「『そんなに強くない』とか、言ってごめんね」


 まだ、遠間だった。

 けれどこのくらいの距離なんて、あの脚力を以てすればほんの僅かなものに過ぎなくて。


 だから、あと一瞬だけだとわかっていて。

 わかっていたからこそ、言ってくれたのだと思う。



「ありがと。見捨てないでくれて、うれしかった」



 その言葉を。

 どれほど欲していたのか、たぶんイッカは、知らないままで。


 だからこそ、クラハは。

 彼を助けることができなかった無念に、それでもと、立ち上がろうとして――。






「――随分とまあ、最近のガキってのは慎ましいもんだな」


 その瞬間に、その声は現れた。






 そんなわけがない、と反射的に考えたのは、それがまるで聞いたことのない声だったからだった。


 声は、人のもので。

 その声のした方と――どう、と揺れる音がした方に目を向ければ、大きな荷物が泥の上に置かれている。


 クラハは伏せたまま、何とか首を曲げてその顔を確かめようとしたけれど、しかし雨具のフードに遮られ、それすらも叶わない。


「もうちっとよ……ピンチだっつーんなら『助けてくれ』とか、叫んでもいいんじゃねえのか? ん?」


 恐ろしく背の高い男だった。


 かろうじて確認できるブーツを履いた足の大きさだって、下手をすると自分の倍近くのサイズなのではないかと思う。身体も大岩のように厚く、これまで見た中で最も大柄だった人物――鎧を纏うゴダッハと比較してすら、さらに輪をかけた巨躯。そんな風に見える。


 こんなに目立つ風貌の人間を、忘れるはずがなくて。

 それでいて知らないということは、道場の人間でも、町の人間でもないということで。


「にげ、て……」


 だから、わかった。

 この位置――北東方向は、街道のある方角だと。


 自分とジルが通ったのよりも随分細いものだけれど……たとえば腕に自信があるような旅人であれば、自分たちのように歩いてこの町まで来るつもりで、騒ぎに通りがかってしまうのだと。


「逃げるゥ? 俺がか」


 男は、歩みを止めなかった。

 いけない、とクラハは思う。体躯を見るだけで、一定の強さを持つことはわかっている……けれどそれだけでは、決して勝てはしない。これほどの魔獣を相手にできるのは、現状、ジルとチカノの、ふたりしかいないのだから。


「かてる、あいてじゃ……!」

「冗談だろ」


 男が、腰から小さな剣を抜いた。

 男の身体が大きすぎるあまり小さく見えただとか、そういう話ではない。純粋に小さな剣――ダガーと呼ばれるそれと、サイズ自体はそう変わりはない。そんな刃物を、男は、抜いて。


 そんなもので勝てるとは、クラハには、思えなくて。


「いっか、さん、止めて――」


 どうにかして、彼を止めなくてはと。

 まだ自分よりイッカの方が余力があるのではないかと期待して、目線を向ければ。


 しかしイッカは。

 信じられないものを目にした、という表情で、固まっている。


「え――?」

 それに、クラハもまた、驚いて固まってしまえば。


「グゥウウウウ……!」

「おめーらガキどもは知らねえかもしれねえけどよ」


 ひょい、と軽い調子で。

 男がその小剣を、手の内で翻す。


 おそらく、魔法の一種か、魔道具か。

 そのどちらかだったのだと思う。



「大人っつーのは、こういうとき前に立つために、早めに生まれてきてんだぜ」



 だって、その剣が。

 瞬きをする間もなかったはずなのに。



 その翻る間に――どういうわけか、巨大な剣へと変貌を遂げているのだから。



 自分だったら、おそらく持ち上げることすら叶わない。

 そんな剣を、男は軽々と、肩に担ぐようにして構えて。


「ゴォオオオオッ――!!」


 巨牛がいよいよ突進してくるのに。

 まるで怯えもしないまま、堂々と。


 男は、こう、呟いた。





「――――秘剣」



 空が、落ちた。






 錯覚だと理解するまでに、クラハはしばらくの時間を要することになる。

 振り下ろされた大剣――それがもたらした衝撃は、彼女の感覚に照らし合わせればその錯覚のほか、適切に表現のしようのないものだったから。


 轟音。激震。夜山割断。その地を平らげること、空の降るがごとし。

 この山の全ての葉から、全ての雨露を叩き落としてしまうような、果てしのない衝撃――。


 それが。

 ただその振り下ろしの、一剣のみで成し遂げられて。


 弾け跳んだ雨泥が落ち着いて、ようやくその姿が再び露わになったころには。


 立っているのは、男だけ。

 倒れ伏すは、〈門の獣〉。




 清々しいくらいの真っ二つに、引っ捌かれて。




「〈天蓋落とし〉――……だあっ! くそ、折角治してきた腰が――!」





 茫然と、イッカがその名を呟くのを。

 クラハは、聞いた。



 ヴァルドフリード先生。

 それはジルの、師の名前。



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