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5-4 カーッと



 思えば失敗続きばかりの日々が、ジルと会ってからの全てだった。


 そう、クラハは事務室への廊下を歩きながら、考えている。




 始まりは、言うまでもない。

 最高難度迷宮への置き去り……それから何もできずにいた、半年間。


 ジルは気にしないでいいと言った。この旅の道連れにと誘いをかけてもらうとき、きっぱりと、そう言われた。けれど当然、そんな記憶、そんな失敗、都合よく頭の中から消せるわけもなければ、消していいわけもない。


 今でもクラハは、二日に一度、夢を見る。

 あの日自分が置いていった人の姿……夢の中ではいつも、その冒険者はジルの姿をしていない。ぼんやりとした黒い影。それは時々、迷宮の中でなすすべもなく息絶えて、また時々は迷宮から帰還して、当然の怒りとともにこちらの命を奪いに来る。


 悪夢の中は、現実のように都合の良いものではなく。

 目覚めるたび、自分のやったことの重みに、どうしようもない気持ちになる。


 その上、旅立ってからも散々な結果だった。


 この町に至るまでの道のり……そこで、熊の魔獣に負けた。

 蛇の魔獣の追跡では、速やかに相手の場所を特定することができず、ジルの身を危険に晒した。


 道場についてからは、もっとひどい。

 まずイッカに負けた。そのあとは魔獣の不意打ちにあって、イッカに庇ってもらわなければ死んでいた。さらに〈十三門鬼〉に至っては……今までと何も変わらない。ただ見ていただけ。サミナトが倒れるのを、ただむざむざ見ていただけだった。


 無残なほどに失敗まみれだ、とクラハは思う。

 とてもではないが、ジルから貰っているものに見合う結果ではない。


 誰にだってできる道案内くらいしか、自分はできていないのだ。それだってジルは、鼠型の〈門の獣〉が襲ってきたときのように、チカノの矢を追うような形を取れば、自分が案内をするよりずっと早く移動することができる。自分でなくてもいい。自分には、能力が足りていない。


 だから、できるだけ早く。

 力をつけて、役に立てるようにならなければいけないのに――、


「……っと、」

 通り過ぎる直前で、気が付いた。


 もう少しで目的地の事務室の向こうにまで歩いていってしまうところだった……かろうじて気付けはしたけれど、一歩間違えれば失敗だった、このことは『ダメだったことリスト』に書き加えておこう……そう思いながら、クラハは少しだけ立ち止まって、間を置く。


 今していたような考えが、表に出てこないよう。

 人にそれを見せつけて、同情や心配を買うなんてことがないようにと、表情を引き締める。


 それからゆっくり、ノックをしようとして。




「僕は大丈夫だって言ってるだろ!!!」




 瞬間のことだった。

 唐突に、その事務室の中から、外にまで響き渡るような怒声が聞こえてきたのは。


 クラハがそのままノックするのではなく、扉を開けてしまうことを選んだのは、ひとつはその声の調子があまりにも切羽詰まっていたからで。


 しかも、知った声だったから。


「だから、僕は――」

「落ち着けよ、イッカ。チカノ先生からの指示なんだ。俺に言っても何も変わんねえよ」

「~~~~っ!!」


 イッカが。

〈十三門鬼〉の攻撃を受け、しばらくの療養に入っていたイッカが……今は、包帯のひとつも身に付けないままに、そこに立っていた。


 机に座る門下生……彼に向かって前のめりに、何かを訴えかけていた。


「忙しいだろうけど、どうしてもってんならチカノ先生本人に――」

「――もう、いい」


 門下生の彼が話している途中で。

 勢いよくイッカはそう言って、踵を返してしまう。


 すると当然、向かってくるのはこちらの方になるというわけで、


「――あ、」

「あ、あの。お久しぶりです」


 もうお体は、とクラハがその先を言うのを、イッカは待たない。

 礼をしたのか、それとも単に目を伏せたのかわからない。前髪を少しだけ目に被せるように傾けて、それだけでクラハの横を、すり抜けていってしまう。


「おい待てよ! ……聞いてやしねえ、あんにゃろ」

 響くのは、その背にかけようとしたらしい、門下生のその声のみ。


 彼は、それからこちらに目線を向けると、「おや」という風に眉を上げて、


「クラハさんだろ、噂の。どったの、なんかあった?」

「あ、その」


 夜番の、とここに来た目的を説明すると。

 なるほどね、と門下生の男は頷いて、気軽にその当番表を渡してくれる。


 あんたも大変だね、という言葉を添えて。


「まあでも、ジル先生は天然なだけで、落ち着いてるからマシかあ……。うちのは見てのとーりで……」

「何かあったんですか?」


 大したこっちゃないんだけどさ、と。

 いかにも「聞いてほしい」という態度で、男は言う。


「しばらく病み上がりだろ? だからチカノ先生がまだ療養、ってことで当番表にイッカを入れなかったもんだから、あいつカーッとなっちゃったらしくて」

「かーっと……」


 それでさっきの剣幕だったのか、と思えば。

 余計なお世話かもしれないと思いながらも、ついクラハは、


「追いかけなくても大丈夫なんですか。先ほどお声かけされていたようですけど」

「行きたいのは山々なんだけど、ここ離れると何かあったとき俺もマズいからさ。次の当番交代か、あとは暇そうな門下生が来たら、ちょっと頼むつもりだよ」


 そうですか、とクラハは頷いた。

 まずは貰った当番表。それに目を通して。次には、部屋の時計を見て、まだ休憩の終了まで時間がある、ということも確かめて。


 ありがとうございました、と部屋を出てから。


 イッカを探すために、周囲に視線を巡らせ始めた。


 自分に何ができる、なんて疑問は、当然思い浮かんでいる。

 聞けば、それは適切な判断だったはずだ。病み上がりの人間には重い役は背負わせない。サミナトが倒れてからのチカノの采配には目覚ましいものがあり、自分と大して年の違わない人がしているものとは思われず、尊敬の念だって浮かんでくる。


 だから、自分はその処遇について、否定的な意見を出すことはできないし。

 まして、自分ごときの意見が、イッカに対して何かプラスになるかもしれないだなんて、思いもしないけれど。


 それでも――ただ、放っておくだけには、したくなかったから。

 何もできない苦しみ……自分のそれと重ね合わせることだって、何か失礼なことのような気がしたけれど、それでも。


「……こっちかな」


 道場の中はあの日から、いまだに慌ただしさが抜けていない。

 だからこういう雨の日の廊下には、ちらほらと乾き切らない水滴の跡が残っている……そのうちのいくつかを見れば、クラハはどれが最も新しいのか、そしてそれがどちらの方向に移動している最中に跳ねたものなのか、判断することができる。


 ととと、と。

 あえて足音を少し出しながら移動したのは、もしもイッカが誰とも話したくない気分だった場合に、自分のことを避けられるように。


 だったけれど。

 ひょっとすると、気付かなかったのかもしれない。


「――、」

 はた、と。

 最後の角を折り曲がれば、そこに。


 イッカがひとり、俯いて立っていた。


 無言のまま……。何をするでもなく、立ち尽くしている。きっと真夜中にそれを見かけたら、幽霊と見間違ってしまっただろう、そんな静けさで。


 その身体は、廊下の先ではなく。

 横の襖……閉ざされた部屋の方へと、向けられていて。



 それが何の部屋なのか、クラハは知っている。


 サミナトが、眠っている部屋だ。



「――あの、」

「――っ!」

 気付けば、声が出ていた。


 そしてイッカが、こちらを勢いよく振り向く。外を歩いてきていたのだろう、まだ乾いていない髪の先から、ほんの僅か、飛沫が床に跳ねるのが見えた。


「…………何か、用?」

「あ、えと、」


 何を言うべきか、考える前に話しかけてしまったから。

 すぐには出てこない……言うべき言葉。そんなものがあるのかどうかすらも、わからない。


 だから結局、口にできた言葉は、なんてことはないもので。


「大丈夫、ですか」

「――――っ、」


 失敗だった、と思ったときにはもう遅い。

 イッカの瞳に涙が浮かぶ。彼が強く眉を顰めたのは、きっとそれを堪えるためで。


 絞り出すように、真っ白な喉が動いて。




「――――僕が、死ねばよかったんだ」

「え――」




 その言葉の真意を、問い直そうとするのだって間に合わない。

 ばっ、とイッカは勢いよく背を向けて、大きな足音とともに、立ち去ってしまう。


 待って、と言おうにもまずそのことに意味はなく。

 中途半端に上げてしまった手を、どこにやったらいいのか、クラハはわからないまま。


 ただ、その場所で、立ち尽くしている。




 サミナトの容態が急変するのは、それから四日後のことだった。




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