5-3 責任感
「ちす」
「うぃす」
魔法連盟によって修復された、物見台の上。
ジルが上っていけば、そこには弓を片手に立つチカノの姿があった。
「夜番が終わったから、これ。外縁巡回組の状態表」
「え、何それ。作ってくれたんですか」
「口頭だと忘れるし、紙であった方がわかりやすいだろ。……まあ、別に変なことを書いたつもりはないし、本人たちに見られても問題ないやつだから」
一応、と。
ぺらりとした紙切れ――最初の襲撃から今朝に至るまで、自分が行動を共にした門下生たちの健康についての所感を、時系列順の一覧表にしたものを、ジルはチカノに手渡した。
「うひゃー。細けえやつで助かる……これ、日付の横に書いてある謎の模様ってなんですか」
「さっきクラハから聞き直したから。遭遇した〈門の獣〉の外見を絵で添えておいた」
「これは衝撃的すぎて本人たちに見せられませんね……」
「その一点でか?」
まあ実際、自分でも描いている途中で「なんでこんなこと始めちゃったんだ……」と後悔するような出来ではあったけれど。
ジルはチカノが見ている間、物見台の柵に背中を預けて――雨の吹き込んでくるのをまともに浴びて、すぐに背中を離して。
どうすんだ、と。
「長くは保たないぞ」
「わかっとるっちゅーねん。……うわマジ。キナちゃんもこんなきつい?」
「巡回中の視線の動きから完全に落ち着きが消えてる。……まあ、俺とチカノが〈門の獣〉を倒せてないっていうのがでかいんだと思うが」
「いや……マジかあ。…………うーわ、マジかあ……」
「後、ないぞ」
「だからわかっとる……いや、マジできついな。どうしよ……」
案としては、と。
ここに来るまでに考えていたことを、ジルは一旦口にしてみる。
「単純に外縁巡回班のメンバー数を減らした方がいいんじゃないか。結局俺と、俺の道案内についてくれる人がいれば、最低限の防衛機能はあるだろ」
「あーね……いやでも、この子ら六、七人から減らしたらさらに一気に精神ガタつかん?」
「もちろんそれはありうる。ただ、ずっとこれでいくのは無理だぞ」
不可避的にメンバーが減っていくくらいなら、計画的に減らしたように見える方がマシだろう、と。
言えばチカノは考え込んで。
「……減らすなら、もう戦闘補助はしないで、ジルが戦ってる間の伝令役で割り切らせますか。負担いけます?」
「いくしかないだろ。地上組でリソース余らせてるのが俺だけなんだから」
「助かる~……そこの饅頭食べていいですよ」
助かる、と言いながらジルは、遠慮なくそれを一息に口の中に放り込む。
チカノが「んじゃ削った分はこっちに振り入れて……そうするとここが浮くけど、ここからこの子抜いて……」と紙を前に頭を悩ませているのを、しばらく見届けてから。
「どうする? 纏まったらそれ、俺からの提案の体で連合体に調整かけておくか?」
「ん、んー……。どうすっかなあ。特記戦力くんに頼るのもやぶさかじゃないんだけど……」
「かっこいい呼び方やめろ」
「かっこよければいいでしょ。……流石に道場の成員に関わることだからなあ。私がやった方がいいと思うんですけど、あーでも、今夜の夜番から切り替えようとしたらいま出さんとまずいかあ……」
チカノの名義で、俺が現責ってことで連名しておくか、とジルが言えば。
それいただき、とチカノが言って、書面に起こし始めて。
「正直すっげえめんどくさいですよね、これ」
「まあなあ……」
「教会と魔法連盟と行政、って全部と連携組んでなんてやってたら、このくらいしなくちゃいけないってのはわかるんですけど……わかるからいいか! わかった! わかったぞ!」
「どうした急に」
「は? なんでもないですけど?」
こいつもこいつでかなりキテるな、とジルは思いながら。
やはり、と重ねて思う。
この体制は、長くは保たない。
動ける人員がどんどん減っていることに加え、自分かチカノか、どちらかが落ちればそれで崩壊することが決定づけられている。肝心の〈十三門鬼〉は姿を見せず、しかし格下であるはずの〈門の獣〉すら斬り伏せることができない……一方的に削られるばかりが、現状だから。
大型補強、と心の中でだけ思う。
リリリアとユニス。ふたりが進めてくれているそれが、上手くいってくれれば。
あるいは、限界が来る前にこちらからどうにかして決め手となるものを発見しなければ……と思うけれど。
どうにもこれは。
剣の腕が立つだけでは、なかなか進展の見られない状況で――。
「案、こんなんでどうですか?」
「いいんじゃないか。どうせ一回試運転してみる必要はあるし、素案としてはそれで」
書類の体裁だけ整えて出しておくよ、とジルはそれを受け取って。
さんきゅです、とチカノが心底疲れたような声を出して。
そういえば、とそこでジルは、思い出した。
「イッカって、そろそろ復帰できるんじゃないか?」
「あー……いや。ちょっと考え中です」
「予後不良か」
んや、とチカノは首を横に振って、
「ちょーっと精神的に怪しいかな……。うるさいくらい元気だったのが、受け答えも暗くて」
「……ああ。そうなるか」
聞いているのだ。
〈十三門鬼〉――中位種外典魔獣を相手に、サミナトが敗れたとき。
その直前、イッカもまた鬼に挑み、手痛い敗北を叩きつけられていた、ということを。
自分だって気持ちはわかる、とジルは思う。
最高難度迷宮の深層で〈オーケストラ〉に敗北を喫してから……さらに最奥へと進むことが、怖くて仕方がなかった。
というより、今でも。
サミナトほどの剣士を倒した魔獣を、種も仕掛けもわからない状態で最悪一人で相手することになるという予想には……恐怖がないといえば、嘘になる。
もちろん、それを表に出すことは、しないけれど。
「それにあの子、下手すると私よりお父さんになついてますからね。魔紋の扱いとか、教えたのお父さんですし」
「ああ、まあ……」
それはそれで。
気持ちはわかるな、とジルは頷いて。
「それじゃ、基本的にはイッカは当てにしない方がいいか」
「無理に戦わせようとは思わないかな……。武術って、自分の身を守るものでもあるでしょう。余裕があればそりゃ、周りも一緒に守ってよって言えますけど。そういうのがないときは背中を向けることだって、ひとつ尊重すべき選択でしょうし」
はぁ、と溜息を吐いて、チカノは。
肩を、落として。
「こういうのって、責任感の欠如ですかね」
「せ……」
責任感かあ、と。
ジルはその言葉に腕を組もうとして、手に持った紙をくしゃくしゃにしかけて、危ない危ない、と形を整えてから。
もう一度。
「責任感……かあ……」
「あ、ごめん。なんでもないです。忘れて。理屈回路消灯~!」
びびびび、と背中をつつかれて。
やめろやめろ、とその手を払いのけて。
それじゃよろしく、とチカノが言うのによろしくされて、物見台の下に誰もいないのを確認してから、ばっと飛び降りて。
その飛び降りの最中――空中で風に煽られながら、ジルはぼんやり考えている。
責任感。
†
「お、」
「あれ、」
昼の巡回の、休憩中のことだった。
道場屋敷の周辺を巡る班に入れられていたクラハは――大抵、その休憩中はずっと、道場の軒下に身を置いている。
けれど、ふとそれだけで無為に時間を過ごさずとも、と。
その休憩の時間中に、何かできることがないかと考えて、庭のあたりをうろうろしていたところ。
犬を洗う女に出会った。
そしてクラハは、その顔を知っていた。
「あの、物見台の下で――」
「さっきは傘、貸してくれてありがとねっ」
二回、会ったことがある。
一度目はサミナトが倒れた日――鼠型の〈門の獣〉を討伐した際に、こちらに拳を向けてくれたとき。
もう一度は、ついさっき。
ジルを迎えに行ったとき……帰路に就く外縁巡回班に、傘を一本手渡したとき。
「返してあったのわかった?」
「はい。戻ったらすぐに……あの、今、何を……」
「犬。洗ってんの、散歩のついでに」
言いながら女は、足の間に挟んだ中型犬の頭をわしゃわしゃと撫でる。雨に濡れて、しかし気持ち良さそうに犬は目を細めていた。
「うちの犬、水浴び好きなんだよね。お風呂は嫌いなんだけど」
「はあ……」
はあ、としか言いようがない。
雨で洗ってもかえって泥が付くだけなのでは……というような思いもあったけれど、他人と他犬の関係はそれぞれだろうと思うから。とりあえず。
「お疲れ様です」
と頭を下げて。
「大丈夫ですか、お休みにならなくて。夜番はかなりハードなのでは……」
「そうなんだけど、さっき私、夜番抜けることになったから」
「え、」
「ジル先生が実質ひとりで回すって。……やだねー。実力不足って。もっと真面目に稽古しときゃよかったとか、そういうダサいやつ。チカノちゃんだって、」
がんばってんのに、と。
彼女は、物見台の方向を仰いだ。
クラハもその動きに釣られながら……しかしこのとき、そうした動作よりもずっと、言葉に意識は向けられている。
実力不足。もっと真面目に。
ジルがひとりで。がんばってんのに。
その一方で、自分は――、
「お? なんだ、もう嫌になっちゃったか」
くぅん、と犬が鳴いたのに。
目の前の彼女も、クラハも、視線を引き戻されて。
「お前が来たいって言ったんだぞー。勝手だなあ、ワンちゃんよ」
彼女は傘を肩と首で留めて、両手で犬の顔を挟み込み、がしがし、と撫でた。
「てかクラハさん、当番表の変更とか知らなかった感じ?」
「え、あ、はい」
「そっか。昼番はたぶん変更ないけど……夜番の当番表も事務室で貰えるから、行ってみるといいかもね。ジル先生の都合とか、知ってた方が一応便利でしょ」
そんなことない?と確認のように問われれば。
あります、と素直にクラハは答えて。
「ありがとうございます。早速行ってみます」
「いいってことよっ。ほれ、わんわん。うちに帰るわよ」
んじゃね、と手を振って、彼女は犬とともに去っていく。
クラハもそれに手を振り返して、背中を見送って。
それから。
改めて、不意に。今日何度目だろう、思うことがある。
何もできていなくて、情けない。




