3-2 すごい説得力
「何読んでんですか?」
「うわっ」
到着から数えて、八日目。
雨降る朝の、縁側で。
ひょい、と背中側から覗きこまれて、ジルはどわっと跳び上がった。
「んな……なぜ気配を」
「ビビらせたろと思って。珍しいですね、読書なん……」
て、という言葉は。
若干の恐れとともに、放たれる。
うっかりジルはそのタイトルを隠すのを忘れて、チカノの前に晒してしまっていたから。
『なぜあなたには友達ができないのか~孤独を作る七つの要因~』
その明け透けなタイトルを、きっぱりはっきりと。
「…………相談乗ろっか?」
「いや違う! 気遣うな! これは友達から貰ったやつで……!」
「いや友達から『友達を作る本』貰うって何? それ、友達だと思ってるのはあなただけっていう悲しいやつなんじゃ……」
ええい面倒な、こんなことなら部屋の中でこそこそ読んでいるんだった――そう思いながら、「なんでもいいだろ」の一点張りでジルはチカノを押し切ろうとする。そしてチカノはあっさりと「まあ確かに、何でもいいですね……」と押し切られてくれたけれど、「無理に訊こうとしてごめんね……」という言葉とともに一抹の寂しさだけは心の中に残された。
「私きょうは朝から夜までぶっ続けで当番入ってて屋敷空けるんで、それだけ声掛けとこうと思って」
「ああ、了解。てか大丈夫か、それ。昼からでも代わろうか」
「んー、いやいいです。お気持ちだけありがたく。見張り台の役って私かお父さんしかできないんですよね。町の外まで射程持ってるのが私たちだけなんで」
まあそりゃそうか、とジルは納得して引き下がった。
今の自分が戦闘能力で彼女に劣っているとは思わない……実際、ここに来てからの数度の手合わせで、確実に上回っていると確信した。
けれど、だからと言って同じ役割をこなせるわけではないのだ。
剣の他は徒手格闘くらいしか修めていない。
ゆえに自分では、彼女のように町全体の見張りをしたり、必要な際に遠距離攻撃で先制――というわけにはいかないのだ。
「それじゃ、サミナトは一日屋敷に?」
「いや。今日雨じゃないですか。だからもしものときのためにお父さんも町の巡回に入ります」
「ああ、視界が……」
ちらり、とジルはチカノから視線を外して、庭を見た。
普段は落ち着いた緑と、物言わぬ石によって構成された静かな場所――そこに今は、夕立めいた雨がぼたぼたと降り落ちている。
砂利の上には白く、霧のように飛沫が立っていて。
これでは確かに、いくらチカノやサミナトが見張り台に立っていたとしても、小さな魔獣であれば見逃してしまうに違いない、と思われた。
「大変だな」
「ねー。今年は山の花も咲かないし、春が来ないうちに梅雨が来ちゃったような感じですよ。髪の毛もまとまんないし肌べたつくし……。あ、んじゃそういうことで。イッカは残していくんで、何かあったらあの子に訊いてください」
「ああ。了解。気を付けてな」
どうも、と肩のあたりを叩いて、チカノは去っていく。
それからはしばし、ジルは本を閉じて、雨降る庭を眺めていた。
山の花が咲いていたとしても、今頃はその全てが雨粒に打たれて地に落ちていたことだろう……そう思えてしまうくらいの、激しい雨。
ここに来てから、九日目。
状況は、特に変わらず。
ちらほらと魔獣が現れ、それを道場の面々が討伐している。その中に外典魔獣の印は見当たらず、一方でジルはぎこちないながらクラハに剣を教え、時折はチカノとの手合わせも行いつつ、感覚の調整をしている。
大過なければ、大きな成果もなく。
ただぼんやりと時間が過ぎていく。
「……ちょっと、焦るな」
ぽつり、そう呟けば。
不意にジルはその口を閉じて、後ろを振り向いた。
今度はわかった。
チカノと違って、気配を消しているわけでもなかったから……自分の座る場所のすぐ近くの部屋から、人が出てきたのが。
「おはようございます。ジルさん」
「おはよう。それじゃ、稽古場借りにいくか。あ、用事とかあったらもう少し後からでも大丈夫だぞ」
「いえ、大丈夫です。今日もよろしくお願いします」
毎朝こうして深々と頭を下げられるので。
こちらこそ、とジルも応えて、頭を下げて。
ふたり、廊下を静かに歩いていく。
まだこの日に何が起こるのか、何も知らないままで。
†
「お、誰もいないな」
「そうですね。……あの。もしかして、使っちゃいけない時間帯とか……」
先導してくれていたクラハが足を止めたのを、ジルは「特にはないぞ」と追い越して、稽古場の中へと入っていく。
道場の稽古場は、屋敷の本邸とは渡り廊下で繋がりつつ、しかしその建物を別にしている。
丸々一つの建物がそのまま一つの部屋。二百枚の畳があったとしても、この空間を埋めるにはまだ足りないだろうほどの空間。
ふたりもこの数日の間、すでに何度か通った場所ではあるが。
今日に限っては、普段は必ず誰かしらはいるはずの門下生の姿が、ひとつも見当たらなかった。
大窓を雫が伝っている。
とうとうと、雨が屋根を叩く音が、箱の中に響いていた。
「今日は雨だから、それで巡回に多めに出てるのかもな」
「……あ。確かに、視界が悪いとどうしても対応が遅れますもんね。……あの、すみません。それに関連してなんですけど」
「うん?」
「手伝わなくて、いいんでしょうか。あ、いえ。ジルさんが、というわけではなく。その、私なんかは何もせずにここに居座ってしまっているので、もし何かあればと思ったんですが」
うーん、とジルは低く声を上げて、
「正直チカノもサミナトも気にしない……と思うんだけど。でもそうだよな。クラハからすると何か居心地悪い感じはしちゃうよな」
「あ、いえ。特に私の気持ちは、大丈夫なんですが」
大丈夫じゃないんだろうな、とその言いぶりを見てジルは思い、「うーん……」とさらに唸った後、
「……まあ、連携とかならクラハの方が俺より得意か。ちょっとチカノと相談してみるよ。実戦の数積みはクラハのためにもなるし、向こうも手が多い方が助かるだろうから」
「は、はい! お手数おかけしますが、よろしくお願いします……! あ、でもその、ジルさんから言っていただかなくても、私から直接チカノさんに――」
がらり、と。
クラハの言葉の途中で、扉の開く音がした。
ジルもクラハも、ほとんど同時に振り返る――稽古場の入口。そこに、ひとりの少年が立っていて。
「じーるせーんぱーい!」
ズダダダ、と凄まじい勢いで、突撃してきた。
クラハが驚く一方で、ジルは大して焦りもしない。
少年――イッカが走ってくるのを冷静に見つめて、彼がダン、と大きく飛び跳ねるのもまた、見て取って、
「おりゃぁッ!!」
「元気だな、朝から」
ものすごい勢いで、弓矢のような跳び蹴りをしてくるのを。
ぽん、と掴んで、ひょいっ、と投げ飛ばした。
わ、とクラハが驚いたような、悲鳴交じりの声を上げる。
けれどイッカはその投げ飛ばされた勢いのまま、空中でクルクルクル、と回って、さらにすとん、と体重を感じさせないような身の軽さで着地して。
振り向いてから、またズダダダッと駆け寄ってきて、こう口を開く。
「ねー! 今日僕だけ留守番なんだけど! ひどくない!? 僕一応、今いる人だとサミナト先生とチカノ先輩の次に強いはずなんだけど!」
「それはしょうがないだろ」
ぐいい、と胸倉を引っ掴んで寄せてくるイッカに、ジルは「落ち着け」とゆったりとした声色で、
「決め技が雷のやつを雨の日の集団戦に組み込む勇気は、普通の人間にはないぞ」
「サミナト先生とチカノ先輩は普通の人間じゃないじゃん!」
「いやそれは……うん。まあ、そう言いたくなるのもわかるけどな。でも、常識があればそうはしないんだ。たとえ普通の人間ではなかったとしても」
えー、と言ってイッカが左頬を膨らませるのに、ちらりとジルは思う――なるほど。サミナトもこのじゃじゃ馬を抱えているのにチカノが継ぐ気があるとかないとかやっているようだったらそりゃ不安にもなるなとか、そんな余計なお世話を胸の中。
「適材適所って言葉があるだろ。たまたま向いてない日だったんだよ」
「えー。でもチカノ先輩とか何でもできるし、僕だって……」
「じゃあイッカ、俺が『今からひとりで巡回の手伝いに行くか……』とか言い出したらどう思う?」
「うわすごい説得力」
そうだろうそうだろう、とジルは頷いた。
そうであっていいのか、という疑念は彼の中にもないではなかったが、そうであるものは仕方がなかったので、とりあえず自信満々に頷いておいた。
「だから今日のところは大人しくしておけ。いつかあなたが必要になる場面も来るんだから」
「ほんとかなあ……」
つまらなそうに口を尖らせた彼は。
じゃあさ、と交換条件のようにジルに語り掛けようとして、しかしその直後、その視線を隣に移して、
「……クラハさんだ」
「あ、はい。おはようございます。イッカさん」
あからさまに今気付きました、という顔ののち、イッカは「おはようございます」と深く頭を下げて。
上げて。
「ね、ね! いま暇? 前に約束した手合わせってどう!? やろうよ、ね、ね!」
今度はクラハの方に、ぐいい、と迫っていった。
「ええと……」
「約束?」
「あ、はい。先日……すみません、勝手なことを」
いやいや、とジルはクラハの謝罪を退ける。
別に、勝手なことも何も、と彼は思っている。個人が個人として約束をするのは、もちろん自由だ。自分が口を出すことではないと、それはきっぱり思う。むしろ自分の都合も多分に混じる中で連れてきた場所で、クラハが自分以外の人間と関係を築き始めているらしいことには、安心する気持ちすらある。
けれど。
「イッカさん。もしお時間に余裕があるなら、ジルさんとの稽古が終わってからでも……」
「あ、うん! それでも全然いいよ! ごめんね稽古の途中で邪魔しちゃって――」
「いや、」
ふたりの会話に、割り込む必要があると思ったのは。
「やるなら、俺が見てるところでやった方がいい。お互い、怪我しないようにな」
このふたりには、大きな力の差があると思っていたから。




