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6-3 怖くないの?



「どうだった?」

「やっぱり、まだ砂嵐が動く気配はありません。今日のところはここで休んで、明日また様子を見てみるのがよいかと」


 宿場までは、何とか辿り着けた。

 夜。少し歩けば、髪に微かな夜露が落ちるような季節。クラハはフードを下ろすと、戻ってきた宿のラウンジの一角、ユニスの向かいの席に腰を下ろした。


 そうか、と彼は頷いた。


「カドリオン氏が言っていた『大きな災いの気配』っていうのは、あれのことなのかもね」


 はい、とクラハも頷く。


「規模から見て、中位種でしょうか」

「いや、上位種の可能性もある」

「……ですか」

「そう思う気持ちもわかるけどね。君の場合は、」


 ちらり、と彼の視線が上へと向く。

 天井、ではない。天井の向こう。二階より先の、自分たちが取った部屋の方。


 ニカナが今、眠っている方。


「一人で抑えた、というのが気になってるんじゃないかな」


 これもまた、全くそのとおりだった。

 上位種は、南方樹海でその一つを目にした。〈銀の虹〉――〈天土自在〉の力を用いなければ、あるいはユニスが周囲の大破壊を覚悟しなければ、その半身ですらも到底討伐することはできなかった、大いなる魔獣。


 砂嵐が、その上位種に由来するのだとしたら。

 いくら聖女候補とは言っても、一人でそれを抑え込んだりできるものなのか。


「まだ不完全なんじゃないかと思う」


 疑問の答えを、ユニスが口にした。


「不完全、というと」

「ロイレン博士が〈銀の虹〉を用いていたときのことを思い出してみてくれ。あのとき彼は〈天土自在〉の魔力を吸い出して、〈銀の虹〉に供給していた」


 だから、と彼は言う。


「同じように、まだあの『砂嵐の魔獣』も不完全なんじゃないかな。羽化する前の、蛹みたいに」


 しばらく、クラハは考え込んだ。

 そういう見方もあるのか、と。てっきり自分はこれまで、滅王の封印の解け具合のような何かしらの基準があって、その閾値を超えた魔獣だけが、自分たちの目の前に現れるのだと思っていた。しかし、ユニスのその『不完全な魔獣』という見方を採用すると、




「――滅王も、すでにどこかにいるとは考えられませんか?」




 ユニスは、大きく目を見開いた。

 それから彼は、周囲を窺う。その動作で、あ、とクラハは自分の口を塞いだ。


「すみません、迂闊でした」

「いや、いいよ。誰も聞いてないみたいだ。……でも、ちょっと内緒話にしよう」


 カチャ、と手の中で動いた。

 いつもの魔合金だ。それだけで、クラハにはわかる。ユニスが何かしら、その『内緒話』に適した魔法を張ったこと。周囲には声が届かないようになったこと。


「十分ありうる、と考えてもいいと思う」


 ユニスは、言った。


「何となく、これまでの一連の流れからして滅王は最高難度迷宮の奥底に封印されたままのように感じてしまうけどね。実際のところ、『力』だけがそこに封印されていて、たとえばその『力』を乗せるための意思の原型であるとか、分け身であるとか、そういうものがすでに自立して活動をしていたとしても、僕はおかしくないと思う」


 息を呑んだ。

 喉が渇く。生唾を喉に送る。


「ただ、」


 しかし、ユニスはそう続けた。


「『力』が蘇っていないんだったら、それ自体はそこまで心配することでもないと思うよ。僕たちの前に姿を現さない……勝負を一気にかけてこないのは、まだ向こうの準備が整ってないってことだ。あの『砂嵐』と同じように蛹の状態なんだったら、これまで僕が想像していたような『外典魔装を通じて何らかの思惑が達成されようとしてる』って状態と、さして変わりはしない」


 むしろチャンスだね、とユニスは言った。

 チャンス、と訊き返すまでもない。


「蛹の状態で仕留めることができれば、ですね」

「ああ。もっとも、そこまで滅王が脆弱な存在だとは思えない。かのラスティエでも封印が精々だったわけだからね。おそらく不完全な状態に攻撃を与えても、さしたる効果はない。『蛹』のまま仕留められる相手はむしろ、南方樹海での一件から見るに……」


 ちらり、と彼の目が外へと向いた。

 窓の外。すっかり日は落ちて暗闇。だから、その先をはっきりと見ることはできないけれど。その視線が意味するところは、クラハにもわかる。


 砂嵐の魔獣。

 外典魔獣上位種。


 もしもあれが、〈銀の虹〉と同じようにまだ不完全な状態にあって、その力を真に現すまでの猶予が人間に与えられているとしたら――


「ま、そのあたりはまた向こうに着いてからの相談だね」


 目の前にいる、彼。

 星を落とす、大魔導師。


「……ですね」


 自分が考えることでもあるまい、とクラハは思った。

 ユニスの言う通りだ。何にせよ、向こうの大聖堂に着いてから話し合いになる。自分の仕事はひとまずその場所まで彼を、そして彼女をしっかりと送り届けること。


「それでは」

 そうと決めたら、椅子を引いた。


「私は、少しニカナの様子を見てきます」

「ああ、よろしく頼むよ」

「その後一応、またこちらに戻ってくるつもりですが。ユニスさんの方では他に何かありますか」

「特には――あ、一つだけ」


 はい、と頷く。

 ユニスが言う。


「そろそろ『さん』は取ってみるとか……どうかな?」





 最後に投げかけられた重たい要求のことはともかくとして。


 宿の上階へと続く階段を上りながら、クラハは考えていた。

 突如現れた砂嵐の魔獣。ユニスの見立て。


 ニカナは、一体何者なのか。


 たとえそれが不完全なものとはいえ、外典魔獣上位種をたった一人で抑え込む。

 そんなこと、リリリアでもできるだろうか。



「ニカナ、起きてる?」

 ノックをして、声を掛けた。


 しばらくクラハは、その場所に立ち尽くしてみる。ノックをし直してみる。やはり何の応答もなく、一度は踵を返しかける。それから考え直す。


 もしかしたら、動けなくなっているのかもしれない。


「ニカナ?」


 きい、と扉が開くのだから、多少はこういうことを向こうも想定してくれていたのだろう。そういう風に、頭の中で勝手な理屈を付ける。


 あるいは戸締りなんて、そんな当たり前のことをする余裕もなかっただけかもしれないが。


「……大丈夫?」


 部屋の中は、暗かった。

 ただ夜が来たから、というだけの話ではない。カーテンは閉め切られ、明かりの一つも点いていない。机の上のものも何も、宿に入った瞬間から動かされた形跡もなく、コップは伏せられたまま乾いている。


 ニカナは、ベッドの上にいるのだと思った。

 毛布を被って丸くなっている。頭まで隠してしまっているから、顔色も窺えない。


 そのまま眠っているのかもしれない。


 それでもクラハは、小さな声で囁いた。


「熱はどう? まだ苦しい?」


 あの後のこと。

 つまり、あの馬車道の途中で『砂嵐の魔獣』を目撃して、ニカナが大声で叫んでから。


 彼女は、ふっと意識を失った。

 地面にばたりと転がった。全く身体に力が入っていないような倒れ方で、傍にいて動揺した。もちろん急いで抱え上げる。大丈夫、と問いかける。


 心臓は動いていたし、息もしていた。

 けれど、そうして抱えただけでわかるくらいの、酷い高熱に見舞われていた。


 馬車に寝かせて、急いで移動して、宿屋の一室に担ぎ込む。その頃には彼女もかろうじて意識を取り戻していたから、水筒を唇にあてがって、多少の水分補給をさせた。宿場町の教会から聖職者を連れてきて、容体を見てもらった。


 一時的な疲労だろう、というのがそのときの見立てだったけれど。

 それから水を飲んだ様子もないのだから、見ている方としては、心配で仕方がない。


「…………」


 少し考えてから、クラハは椅子に腰を下ろした。


 あまり気を許していない人間が傍にいるというのも、向こうからすれば気疲れする状態かもしれない。それでも、返答がないのだからきっと、眠ったままなのだろう。誰かは傍についていた方がいざというときは対応しやすい。


 明かりは点けずに、闇の中。

 じっと、クラハはそこに佇んでいた。



「――怖くないの?」



 だから、声がしたときは椅子が傾くほどに驚いた。


「お、」

 ベッドの膨らみは、微動だにしていない。けれど流石にこれだけ近くだから、どこからその声が聞こえてきたのかは間違いようがない。


「起きてたの?」


 ニカナだ。

 うん、と小さく声がする。それでようやく、もぞりと毛布が形を変える。


「クラハは、怖くないの?」


 それでも、顔は出さないままだった。


 色んな考えが、クラハの頭には過っている。かすれた声を聞けば、まずは何かしら水分を補給した方がいいとか。熱の具合はどうなんだろうとか。熱だけではなく、あれだけの力を行使したのだから、そもそも身体への負荷はどうなのだろうとか。水分だけではなく、何かしら食べて栄養を補給したりはできるだろうかとか。


 その声にこもった、切実さのこととか。

 過ったから、席を立たずに答えた。


「怖いって、何が?」

「……今まで、何回も滅王と戦ってきたんだよね」


 うん、と小さくクラハは頷いた。

 少しだけ、話が見えてきた。


「そうだね」


 記憶を遡っていくことはできる。


 南方樹海。ロイレンと〈銀の虹〉。

 東の町。〈十三門鬼〉と〈門の獣〉。

 最高難度迷宮。〈灰に帰らず〉と〈インスト〉。


 どれも、滅王本体というわけではない。けれど、滅王の陣営と対峙したことがあるかと問われれば、頷いて答えるべきなのだろう。


「怖く、なかったの?」


 けれど。

 その先の質問には、何と答えていいかわからなかった。


 ニカナが言いたいことは、もう何となくわかっていた。彼女が高熱を出したこと。あのとき呟いた「もう嫌だ」という言葉。これはきっと、繋がっている。


 彼女は、直面した。

 外典魔獣上位種と。引いては、それらを使役して先史文明を滅ぼした、滅王の強大さと。


 それゆえに、と思えば。

 自分が彼女に掛けられる言葉は――


「昔ね、」


 考えているうちに、ニカナが続けた。

 うん、と小さくクラハは相槌を打つ。話は続いているのだろうか。それとも、何か別の方向に飛んだのだろうか。そんなこともわからないまま、紡げなかった言葉の分を埋めるように。


「あたし、島に住んでたんだ。生まれも育ちも、その小さい島」


 彼女が挙げたのは、昔、地図の中に見たことのある島の名前だった。

 大陸の西部に位置する、いくつもの島の内の一つだ。クラハも、流石にその全てを覚えているわけではない。


 けれど、その名前だけは知っている。


「リリリアさんが……」

「そう。〈島守りの聖女〉様が来て、嵐から守ってくれた場所」


 そうか、と腑に落ちるようなものがあった。


 リリリアとニカナの間には、何かしらの繋がりがあったのか、と。だからというわけではないのだろうけれど、その繋がりは、クラハの頭の中で自然な図式を描いてみせた。リリリアがかつて助けた島。その場所に生まれたニカナが、リリリアの後を引き継いでいく。


「見てたんだ。リリリア様が結界を張って、うちの島を守ってくれるところ。雨の中で、祈るみたいに、すごく綺麗に手を握ってたところ」


 彼女の後を、というのはすごく重たいことなのではないか。


 ほんの一夏の間を傍にいただけでも、クラハは思う。彼女の能力は卓越している。それは単に神聖魔法の力量のみにかかわるものではなく、たとえばロイレンを相手に駆け引きを完遂したような、その立案と実行力を見ただけでも。どんな人間なら、と問われると、ほとんどクラハには想像すらできない。


 けれど、


「そのとき、あたしね」


 二人の間に、そうした繋がりがあるとしたら――




「絶対、『ああはなりたくないな』って思ったの」




 †



 その頃、西の街。

 同じくらいに暗い部屋が、ある家の中にある。


 眠るためだったのだろう。その家の主は、簡素な寝巻に袖を通している。髪も解いて、ベッドの上に腰掛けている。カーテンは閉め切られ、火の気はなく、枕元の水差しにつるりと雫が滑り落ちる。


 そのカーテンの僅かな隙間から、夜明かりが覗き込んでいる。

 それは壁に当たって、青白く光っていた。


 家主は女だ。若くは見えるが、おそらく四十を過ぎているだろう。彼女はその青白い光に目をやる。ほんの一瞬前までその足を毛布の下に潜り込ませようとしていたのに、その明かりに気を変えられたらしい。彼女はもう一度、内履きに足を通す。立ち上がる。


 扉を開ける。

 その奥を覗き込んで、閉じる。


 振り向けば、当然にその夜の明かりが目に入る。目を細める。


「そろそろ、」


 それから、彼女は呟いた。


「誰かが……」


 窓辺に寄る。カーテンを閉める。完全に真っ暗になった部屋。満足したように彼女は頷き、先ほどまでしようとしていたことの続きに戻る。内履きを脱ぐ。毛布に足を入れ、胸の上まで引いて、仰向けのまま静かに目を閉じる。


 他には誰もいない家だ。

 だから、たとえばその部屋の柱に刻まれた数字も、線も、名前も、その夜にはもう誰の目にも入ることはない。


 それは子どもの成長を記録するためのものだ。背が伸びたと子どもが主張したとき、あるいは大人が感じたとき。ぴったりとその柱に背中を付けさせて、頭の上に線を引いて、日付を書き込んで、前と比べてこんなに大きくなった、と知るためのもの。その線は古いものもあれば新しいものもある。名前だっていくつもある。もしかすると、長い間、何世代もの親子がそうして、そこに記録を書き込んできたのかもしれない。


 その名前の一つには、こんなものがある。


 クラハ。



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