6-2 本命は
外形が見えたそのとき、流石は聖女なのだろう。ダヴィサはすぐさまその魔獣が何であるのかをジルに明かしてくれた。名は〈灯火〉、外典魔獣の中位種だ、と。
「ラスティエ様も、もう少し後人のために詳しい記録を残してくれていれば、この上ないことだったんだがね」
その頬に、緊張からか恐れからか、一筋の汗を流しながら。
幸いにして、人的被害はまだなかった。道中で、幾人かの聖職者たちから説明を受けた。街を囲む神聖魔法の結界は、決して街の縁にぴったりと沿うように作られているわけではない。人里と深山の間に農地や里山があるように、街をぐるりと取り巻く緩衝地帯が定められ、その形に合わせて、より広い形での結界が張られている。
それが食い破られている、と。
報告を受けて向かった先に、それはいた。
「……でかいな」
それを目にして浮かんだのは、まずその言葉だ。
身を潜める林の背丈の二倍はある。初めから大きく見えていたその魔獣は、近付くにつれてさらに見上げるような威容を露わにした。剣の鞘を握り締めながら、ジルはじっくりとそれを観察する。
それは、蠍の似姿だ。
ジルはそれを、昔に砂漠で見たことがある。それは西の果てだろう、と人から教えられたこともあるが、詳細は定かではない。大きさこそ全く違うものの、目の前の魔獣はそのときに見かけたそれと、ほとんど変わらない特徴を備えてもいる。
全身を覆う外骨格。
四対八本の脚。
長く、太く、鋭い針の付いた一本の尾。
両腕に、二本の大きな鋏。
今はそれが、宙に向かって振るわれている。
「あれは、結界を噛んでるのか?」
「だね。今まさに、この街の結界を切り裂こうとしている」
光の布のようなものが、ジルの目にも見えていた。
馬車でこの街に入ってきたときは、確かに見えなかったと思う。それが外典魔獣の力を受けて異常な活動をしているのか、普段は見えなかったであろう結界の形を、空に映している。金色に光る布のようなものが空間を歪曲させて、しかし蠍の鋏によってその布は少しずつ、少しずつ裁断されようとしている。
もちろん、そうさせるわけにはいかない。
それでも、すぐに飛び掛かることはしなかった。
音がしていたからだ。
「相当硬い、と見ていいか」
「あれで柔らかかったら驚きだね」
蠍は、真っ赤な身体をしていた。
それが結界に触れるたびに、自分自身の身体と擦れるたびに、音を出す。ジルは、それを聞いたことがある。どこかの市に立ち寄ったとき。宝石売りの前を通った。あのとき、宝石同士が触れ合う重たい音を聞いた記憶がある。
それと同じ音がしている。
一瞬、ジルの意識は剣に向いた。
「正面からは厳しいか」
「アタシが引き付けよう」
「なら、俺は裏から回って甲羅の隙間を」
穿つ、と言いかけて、ふと気付く。
ジルは、ダヴィサを見る。
「耐え切れるのか?」
「これでも騎士上がりでね。そっちの方こそ、ちょっと剣を貸してくんな」
共闘だ。
迷うことなく、ジルはその剣を鞘ごとダヴィサに渡す。すると、彼女は唱える。
「〈綺羅輝くは、不折の光――」
ぽうっ、と光れば、それは見覚えがある。
リリリアがよく、自分の剣にかけてくれていた『聖剣化』の神聖魔法だ。
「リリリアには二枚か三枚劣るから、そこまでは信用しないでおくれよ」
そして、その剣を託される。
にっ、と不敵に笑ってダヴィサは、
「後は、ちゃんとあの魔獣の裏側に『辿り着く』ことだね」
方向音痴ということまで知られているらしい。
知られていない方が不自然か、とジルは思うから、
「ああ」
頷いて、戦闘を開始した。
走り出す。まずは身を隠しながら、林の間を駆けていく。それほどの速度は、今のところなくていい。重要なのはむしろ、相手に気付かれずにいることだから。顔を上げて、〈灯火〉を見失わないように。それでいて、何かに足を取られないように。
ガキン、と音がしたらそれが合図だ。
「おぉおおお――!」
遠く、ダヴィサが吼える声を聞いた。
音だけで、ジルは判断する。騎士上がりというだけあって、わかりやすい戦い方だった。彼女は大盾を手にこの場まで駆け付けた。激しい激突音。剣で斬りかかったか、盾で押し込もうとしたか。
蠍もまた、一度は結界からその鋏を離した。
大きく振りかぶる。速さはそれほどでもない。重要なのは重さだ。その腕が林の木々を薙ぎ倒していく。ほとんど爆発のような轟音を生み出す。軌道を見てわかる。ダヴィサが止めた。
「ふッ――」
そこから、一気にジルは加速した。
木々の間を、地上を滑る燕のようにすり抜けていく。脚が見える。もうここまで来たら、姿を隠す必要もない。一歩を踏む。蠍が反応する。脚を振って振り落とそうとする。そのときにはもうジルの姿はそこにない。胴に飛び移っている。蠍が身をよじる。尻尾を己の身体に向ける。その尻尾の中で液体の動く音がいかにも聞こえてくる。毒液だ、と思った。滅王との対峙は、とにかくこの手の飛び道具と縁がある。
関係ない。
外骨格の隙間に、剣を通した。
生き物がモデルの相手なら、こういう手段が通じる。どれだけ硬い装甲を持っていても、それ一枚で身体を覆っているようでは関節の可動域がなくなるから。身体を動かすためには、たとえば人間が肘や膝を痛めやすいように、あえて動かしやすく、脆くなる部分を作る必要がある。
そこに、剣の切っ先が刺さる。
入った、と思った。
後は力を込めるだけだ。ジルはその巨大な甲羅の上、一息に踏み込んでいく。動きとしては剣を引きずって走るような形になって、かなり不自然だ。それでも巨大な敵を相手にするのはこれが初めてのことではない。やり方は知っている。
低く、這うようにして駆ける。
異常な感触がした。
ジルは初めにそれを、手の内の違和感で感じ取る。妙に軽い。次に鼻。異臭がする。それから目を動かすまでもない。それはすでに、光の形で視界に入ってきている。
火が。
〈灯火〉の体内から、噴き出していた。
「そういう、」
ことかよ、と呆れる時間はない。
心の準備は、なかったわけではなかった。これまで戦った中位種相当は〈オーケストラ〉と〈灰に帰らず〉と〈十三門鬼〉だ。どれも単なる強さ以外の何かを持ち合わせていた。だから単純に斬って終わりという楽観はしていない。何かしら起こると思っていた。何かしら起こったら、と考えていた。
ダヴィサに拵えてもらった『聖剣』は、すでに半ば融解している。
やるしかない、と腹を決めた。
「未剣!」
〈爆ぜる雷〉。
炎を、爆ぜ飛ばした。
耳だけが遠くに吹き飛ばされたような、とんでもない轟音が響く。〈灯火〉は衝撃に仰け反る。ジルの身体は宙に放り出されている。東西南北と左右よりかは、上下の方が区別が得意だ。
空が上。
地面が下。
「ダヴィサ、剣を!」
後は、向こうが自分を見つけてくれることに賭けた。
ジルは手を差し出す。そのまま、〈灯火〉に視線を合わせる。未剣が生み出した力が、甲羅の内側から蠍の身体に炸裂した。今は外骨格の数枚が弾け飛んでいる。弾け飛んだ場所から、一種の液体のようにすら見える量の炎を、無尽蔵に吐き出し続けている。光の布を、端から燃やし尽くすように。
『聖剣』もまた、未剣の威力に耐えかねて、すでに柄も残らずに溶けている。
それでも、ジルが林のもっとも背の高い樹木に足を着いたとき、
「使いな!」
それは、完璧な軌道を描いて手の中に収まった。
ダヴィサが腰に提げていた剣。
「秘剣――」
動きに、迷いはなかった。
だからこそ、その時間があった。
ジルは、考えていた。およそ人のうちに右に並ぶ者の見当たらない速さで、空中を疾駆しながら。つい一年も前には到底及ぶことはなかったであろう強靭な魔獣の懐に、鎧もなしに飛び込みながら。
俺はずっと、このままなのか?
ダヴィサの手助けを受けた。それは、二本目の剣を受け取ったことだけではない。それ以前に、一本目の剣を『聖剣』に変えてもらったこともそうだ。ただの剣のままだったら、そもそもあの甲羅を爆発させることすら能わなかっただろう。
そして、その一本目を用いて自分が取った戦術は、きっと〈銀の虹〉には通じない。
あれを相手にも継ぎ目を見つけることができたなら、とその程度で解決する話ではない。あのとき、剣を合わせてわかった。自分の力では及ばなかった。きっと今も及ばない。及ぶと思っているのだったら、蠍を相手に継ぎ目を狙わない。正面から外骨格を狙う。甲羅を狙う。狙えなかったのは、できないとわかっているからだ。
一度負けた相手に、自分はまだ負けている。
もっと――
「――〈月の夢〉」
もっと、とジルは考えていた。
真っ二つに両断された、〈灯火〉を背にして。
吐き出された残り火も、毒液も、その身に受けて平然としながら。
†
ダヴィサが拾いに来てくれたのは、林に撒かれた〈灯火〉の炎が抑え込まれてからのことだった。
「ダヴィサ。大丈夫だったか?」
「…………」
一見、彼女には何の傷もないように見えた。
その代わり、呆れたように口を開いていた。
「なんだい、その恰好は」
言われるよな、と思っていたからジルは、用意しておいた答えを返す。
「気にしないでくれ。ちょっと見苦しいから、上着を貸してもらえるとありがたいんだが」
そりゃいいけどね、とダヴィサは本当に上着を一枚貸してくれる。ジルは、ボロボロになった上衣を脱いでからそれを羽織るか、あるいは着たままでそうするか、少し迷った。
「火傷は?」
その間にダヴィサが距離を詰めてきていたから、結局そのまま羽織ることにした。
「特にない。元々、熱の類が技に出るんだ。炎に焼かれてどうこうってことは、俺の場合はほとんどない」
「毒は」
「この間苦しめられたから、浴びても身体に入れないようにするやり方を覚えた」
言いながら、一応ジルは右手を握ったり閉じたりを繰り返してみる。身体に違和感はなかった。この間盛られた毒と比べたら、この蠍のそれは大したことがなかったと思う。
それほどのものをたったカップ一杯分のコーヒーの中に、味も香りもなく潜ませることのできるロイレンを思えば、今更ながらに背筋に薄ら寒いものが走るけれど――
「なあ、あんた」
「ん」
「敬老精神はあるかい」
顔を上げると、ダヴィサが苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
話が見えない。何か失礼なことでもしたか。おののきつつ、ジルはとりあえず「ああ」と答える。
ガッ、と頭を掴まれた。
そのまま、ぐしゃぐしゃにかき回された。
「んな――」
「もう少し、自分を大切にしな」
ぱ、と急にその手が離れる。何なんだ、と言おうとする。そのとき、ジルは自分の身体が綺麗になっていることに気付く。煤も毒も、神聖魔法の力で綺麗に払われている。
「……どうも」
「なんて、そうやって若いのから仕事を奪いっぱなしにできるなら楽なんだけどね。やり方には言いたいこともあるが、おかげさまで助かったよ」
ありがとうね、とダヴィサは言う。
それから彼女の視線が上を向くから、ジルもまた、釣られる。
光の布は、まだそこにあった。
「大丈夫なのか、あれ」
「いや。結構破られたね。ついでに言うなら、端の方も燃えてる」
「張り直しか?」
「そんなに単純なもんじゃない。定期的に張り替えちゃあいるんだが、大聖堂に蓄えられた魔力を大いに使うものだからね。その蓄積をここでもう一度張り直すために使うかどうか……」
「他に使うために取っておいた方が有用かもしれないって見方もあるわけだな。中位種が来たら、どうせこうやってまた破られる可能性もある」
「とは言っても、ちょいと妙だがね」
妙、と訊き返すと、ダヴィサは答えた。
「中位種くらいなら――いやまあ、あんたが来てくれなきゃあアタシがここで立ったまま往生する羽目になったかもしれない魔獣が相手だが。それでも、この結界は教会の虎の子だ。そのくらいの魔獣を相手に簡単に破られるっていうのは、考えがたい」
「能力かもな。そういう」
「だろうね。結界破りを主眼にした魔獣……」
そこでジルは、ダヴィサが考えていることを理解した。
上と下なら間違えない。貸してもらった上着を手で押さえながら、ジルは地面を蹴る。枝を蹴る。さっきそうしたのと同じように、木の上に飛び乗る。
ぐるりと、辺りを見回した。
「何が見える?」
下から、ダヴィサが訊ねかけてきた。
最初は、何もそれらしいものはなかった。けれど、眼鏡をかけていてもいつもの癖が出る。もしかしたら自分の目に映っていないだけなのかもしれない。そう思って、じっと目を細めて、しばらくどこかに焦点を合わせようとしてみる。
そのうちに、現れた。
「――砂嵐」
方角はわからない。
砂嵐が生まれて、膨れ上がって、しぼんだ。こういう奇妙な自然現象は、大陸の秘境を訪れればしばしば目にできる。けれどジルには、そういうものには見えない。その砂嵐を見ると、こう思う。
「何かが、こっちに来るぞ」
まいったね、と木の下でダヴィサが呟くのが聞こえた。
彼女は溜息を吐く。破られた光の布を見上げて、言う。
「〈灯火〉は、名の通り道案内だね。本命は――上位種か?」




