5-3 幽霊
これ以上八つ当たりされる前にどこかに逃げちゃいなよ、といかにも親切のような口ぶりでリリリアは言った。
しかし、とジルは廊下を歩きながら思っている。
あれは、本当に八つ当たりだったのだろうか。
建物から出なければ、とりあえず致命的に迷うということはないだろう。どうせこうしていても自分の部屋には辿り着けないとわかっていながら、少し一人でゆっくりと考える時間が欲しくなって、当てもなくジルは大聖堂の中を歩いていた。
気になっていたのは、あの質問だった。
滅王から「仲間になって」と言われたら、どうするか。
もちろん、「いいえ」と答えるつもりではいる。が、そんなに簡単な問い掛けでもないような気がした。もしもそうなら、あんな風にはリリリアは言葉を発さないだろうから。それに、頭の隅に浮かんでいる人物もいる。
ロイレン。
〈天土自在〉での事件の動機が、失った友人を取り戻すためだったということは、ジルも聞いている。そして、その動機と滅王との協力関係の間にある奇妙な距離の存在にも、気付いている。
何がロイレンと滅王を繋げたのか。
自分と滅王の間には、その繋がりは発生し得ないものなのか。
「……まさかな」
リリリアは賢い、とジルは思っている。
あの若さ――多分若いと思う、見た目の印象で恐縮だけど――で教会という大勢力のトップの一人として働く能力のこともそうだけれど、ロイレンを相手にしたときのあの立ち回りといい、自分とユニスの危機を察知して駆け付けてくれたことといい、傍から見れば霊感にも映るような鋭さを、彼女は備えている。
もしかすると、と思わないでもないのだ。
リリリアには、自分が滅王による『説得と交渉』の対象に見えているのか?
「ん、」
はた、とジルは足を止めた。
行き止まりだ。
もちろん、ここで踵を返してすぐに来た道を引き返してもいい。しかし、目の前にある両開きの扉は、いかにも立派だった。中から音も聞こえず、今、誰かが使っている気配もない。
首にはペンダントもあるから、入っても怒られるということはない。
気になって、開けてみた。
「おぉ……」
礼拝堂だ、と思った。
ジルは、特にラスティエ教の信徒というわけではない。教会から役職を貰っておきながら、積極的な宗教活動をしたことなど一度もないし、ついこの間、大図書館で改めて子ども向けの本を読むまでは、きっと『常識』とされる部分すら知らなかった。
しかし、旅の途中で宿を貸してもらったときや、何らかの災害対応に協力したとき等、教会に出入りした回数自体はそれほど少なくはない。
それでも、思わず声を出してしまうような一室だった。
天井は、よほど高い梯子をかけなければ手では掃除できまい。二階か、ひょっとすると三階くらいまでは吹き抜けにされているように思う。低い場所は普通の窓が嵌めてあって、高い場所には色付きの硝子が使われている。整然と並べられたいくつもの長椅子は、まだそれを木から刳りだしたときの匂いが残っているのではないかと思わせるほど清潔に整えられて、そのくせ、自分よりもひどく長い時間をそこで過ごしていたような落ち着きまで漂わせている。
ジルは、そのまま歩みを進めた。
一番前の椅子に、行儀よく腰を下ろす。壇上、ラスティエ教のシンボルである大きな円の描かれた旗をぼんやりと視界に捉えながら、もう一度思考に戻る。
問題を解決に行ったはずなのだけれど。
また悩み事が増えてしまったな、と。
「…………」
小さく溜息を吐いて、ジルは椅子に背を預けた。
こういうときは、下手に動かない方がいいのかもしれない。街に侵入してきた外典魔獣のことも、一度だけ行けた知らない場所のことも、どうせ自分ではどうしようもない。リリリアのこともすでに二度も訪ねた後で、しかも答えは変わらず、二度目に至っては本人曰く『八つ当たり』までされた。八つ当たるからには何かしら原因となるものはあるのだろうが、少なくとも、またすぐに行って教えてもらえるような雰囲気ではない。
だから、自然と身動きは取りづらくなって。
頭の中には、さっきリリリアに植え付けられた心配事が浮かんでくる。
滅王の説得と交渉だとか、味方になれと言われたらだとか――
「……いや、」
ではなく。
もっときっと、彼女としてはさりげなく言ったこと。
――自分に自信がないせいだよね。
正直なところ、とジルは。
何度もその言葉を頭の中で反響させながら、思っている。
相当痛いところを突かれてはいる、と。
右の手を、握ったり開いたりを繰り返している。自分の力がどのくらいのものなのかを確かめるように。瞼を瞑っている。この一年と半年の間の、自分の戦績を思い出すように。
何勝できただろう。
何敗しただろう。
もちろん、それだけのことではないとわかっている。リリリアが言ったのは、そもそもそういうことではないと思う。もっと素直に解釈するなら、「お前なんて組織に所属して責任のある役職に就いたこともないんだから偉そうに私に説教できるなんて思い上がってんなよバーカ」とか――いや絶対にリリリアはそういうことは言わないと思うけれど自分で自分に矛先を向けるとそんな感じ――になる。剣の腕とか、そういうこととは関係がない。
そのはずなのだけど。
自信、という言葉は勝手にそっちに刺さってくる。
一番は、と簡単にジルはその原因に思い当たる。つい一つ前の季節のこと。あの夏。外典魔獣上位種〈銀の虹〉との遭遇。接敵。……その決着。
国を滅ぼす、というのも全く誇張ではないと思った。
そしてそれが、今のこの文明の規模で見たときに、大陸の滅亡とほとんど結び付くのではないかという予感も、何となく。
土台、人一人が敵う相手ではないのかもしれない。自分は、あまりにも遠くの目標を見据えすぎているのかもしれない。リリリアがあのとき機転を利かせてくれたように、〈天土自在〉のような文明の結晶で以て対抗するべき、強大な敵なのかもしれない。
それでも、ロイレンはあれを操った。
ユニスは、自らの魔法であれを打ち崩した。
一方で、自分は――
「何か、お困りですか?」
吐こうとした溜息が、そのまま肺に帰っていった。
目を見開く。飛び上がりそうになった身体をどうにか抑え込む。剣に一直線に向かっていった手も、途中で理性が止める。
それは、静かな女の声だった。
響いてきたのは、壇上、ラスティエ教の旗の向こうだった。どうして気付かなかったのだろうと心の底から不思議に思う。なかったはずだ。足音も、衣擦れの音も、どころか呼吸の音も。
旗の奥に、誰かがいる。
自分が今の今まで存在に気付かなかった、誰かが。
「あ、えと、」
誰だ、とも口にしがたかった。
だからジルの口から出てきた最初の言葉は、こんなもの。
「すみません。勝手に入ってしまって。仕事のお邪魔でしたか」
「お気になさらず。ラスティエ教の聖堂は、どなたにも開かれていますから」
口ぶりからして教会の聖職者だろう。それ以外の方が、想像するのは難しい。ジルは眼鏡の奥で目を凝らす。旗の向こう。
姿は、まるで見えない。
声も、どこか不思議な感じがする。
まるで、ここではないどこかから響いてきているような――
「こちらこそ、考えごとのお邪魔をしてしまいませんでしたか」
声は言う。
会話、と自分に言い聞かせるようにして、ジルは、
「いえ。大したことでは考えていませんでしたから」
「その割には、お顔が険しいようでしたけれど」
向こうからは、自分が見えていたのか。
だとするなら、よほどその『考えごと』に集中していたらしい。音や気配に気付かなかった程度ならともかく、視界にその姿が多少収まっていてもなおというのは、よっぽどだ。
「ええ、まあ」
「よろしければ、お話をお伺いしましょうか」
一瞬、相槌が打てなかった。
ああいえ、と向こうが続ける。
「礼拝堂は、そうした場でもありますから。人に話せば楽になることもありますし、もちろん、ここで聞いたことは口外いたしません」
一瞬、それは少し魅力的な申し出に感じた。
自分一人で答えが出せないときは、人に相談するのがいい。そのくらいのことは、ジルにもわかっている。相手が聖職者で、それを仕事としているならなおさら気兼ねもない。
しかし、とすぐに思う。
今の大陸の状況で――つまり、滅王を相手に混乱している状況の中で。自分のような『それなり』の剣士が、自分の力の大小に関して不安を漏らすことが、どの程度の意味を持つか。
あるいは、それを聞いた相手がどう思うか。
つい先日も、この大聖堂に魔獣が侵入してきたという前提を踏まえて。
「いえ」
封じ込めるべきだ、と思った。
自分の問題には、自分で対処しなければならない。そう、考えた。
「本当に、大したことではないので」
そうですか、と声は言った。
会話が途切れると、一気に大聖堂は静まり返る。不思議だ、とジルはそのとき改めて思った。確かに旗の向こうには人がいる。いた。だというのにこうして黙りこくってしまうと、今でもそこに人がいるのか、わからなくなってくる。
奇妙なくらいの、気配の希薄さ。
無礼を承知で、少し確かめてみた方がいいかもしれないと思った。
「――雪の、」
腰を浮かせかけた、そのときのことだった。
声がもう一度響いた。ゆきの。雪の。頭の中で、ジルはその言葉を捉える。浮かべる。
「雪の降る道を、あなたは歩いたことがありますね」
故郷の光景。
いつも雪が降っていた、あの小さな、白い村のことを。
「氷漬けの海の上を歩いたことも、その向こう、吹雪の、一面が真白に塗りたくられたような山の頂までを歩いたことも」
その向こうにあった、
あの、高い山を登った日のことも。
「あなたはその日、運命を選んだつもりでいる。でも、心の底ではわかっている。それが『あなたの』運命ではないこと。人から掠め取っただけのもので、決してあなた自身の持ち物ではないこと」
「なん、」
「迷うのは当たり前です。あなたは初めから、間違った道の上にあるのだから。何もかもを捨てて、まるで異なる運命を進もうとしているのだから」
自分を知っているのだ、と最初は思った。
この声はどこかで、自分の噂を耳に挟んだことがあるのだろうと。ヴァルドフリードと旅をしている頃、何人かにはこの話をしたことがある。そのうちの誰かが放った噂が、今になって自分に返ってきたのだろうと。
けれど、そうではないようにも思えた。
だって、今言ったことは、まるで、
「あなたは、何を――」
「引き返しなさい」
歩み寄ろうとした足が、その一言で縫い留められたように動かなくなる。
「あなたは『運命の子』ではない。何も成し遂げられない。欲したものを得ることはできない。他の二人とも違う。いつか、自分と引き比べて惨めになる日が訪れる……いえ。もう、すでに来ている」
昔、と。
もう一つだけ、ジルは思い出した。
幼い頃に、こういうことがあった。村の外れの小さな家。雪の降る道。人に隠れて、一人になりたくて、寒さを堪えて座っていた。その窓の向こう。引かれたカーテン。その陰から掠れた声がして――
「あなたが進んだ道は、間違っている」
扉の開く音がした。
反応が遅れた。進むべきか、振り返るべきかわからなかったからだ。それでも、その扉の方から呼び掛けられれば、選ぶべき行動はたったの一つに定まる。
「おや、竜殺し。礼拝かい」
振り返った。
そこに立っていたのは、ダヴィサだった。四聖女の一人で、リリリアが自主謹慎を決め込んでいる今、大聖堂の責任者を務めている。初めこそ挨拶にすら向かわずにいたけれど、外典魔獣の侵入の一件もあって、昨日のうちにちゃんとこちらの事情は説明し終えている。
老齢ながらピンと背筋が張った彼女は、扉を開け、力強い枝木のように光を背負っていた。
「感心だね。ラスティエ教の信徒じゃないとは聞いたが、宗旨替えならいつでも大歓迎だよ」
「ああ、いや」
「品行方正に加えて信仰心にも厚いときたら、こりゃうちでも放っちゃおけない。どうだい、今からでも正式に騎士団への加入を――っと」
どうした、と。
歩み寄ってきた彼女は、怪訝な顔をして足を止める。
老眼なのだろうか。目を細めて、少し顔を前後に動かして、
「何かあったのかい。幽霊でも見ちまったような顔だ」
「――幽霊?」
ああ、とダヴィサは頷いた。
「昔から――それこそアタシが小娘の頃からある噂でね。何てことはない、他愛のない不思議話だよ」
礼拝堂には、幽霊が出ると言う。
夜の、ランタンを掲げて迷い込むような、いかにもな時間帯でもいい。あるいは街のお祭りに皆が出掛けていって少し寂しくなってしまったような、明るい昼の日でもいい。
一人でこの場所に座っていると、声が聞こえてくる。
それは、おおむね女の声をしている。誰、と訊ねても、それは答えない。姿を探せど、その声がどこから響いているのかはわからない。それは、いかにも少女たちを守る良き霊のように、あるいはひっそりと姿を隠した良き先生のように、訪れた者の悩みを聞き、助言を施すこともある。ときどきは、友人に打ち明ければ悲鳴が上がるような、おどろおどろしい呪いの言葉を吐いたりもする。
「ラスティエ様からのお告げだ、なんて言わないところが信徒の慎ましいところだね。もっとも、こういう噂話は若いのが集まるところにはいくらだってあるものだが」
ダヴィサは笑うが、ジルは笑えなかった。
それを見たダヴィサは、いよいよ「まさか本当に」と真剣な調子で訊ねてくる。まだジルは、態度を決めかねている。決める前に、できる限りのことをしておく。一言断って、壇上へと歩いていく。旗を持ち上げる。そこにいるかを、確かめる。
誰の姿もない。
「……幽霊、と言うと」
誰が、と訊きたくなった。
噂されている幽霊とは、一体誰のことなんですか、と。
けれど、そうやって自分の問題にばかり目を向けているわけにもいかない。そう思ったからジルはその質問を呑み込んで、
「実は――」
と口を開く。
それを聞いて、ダヴィサが動き出す。
そのとき、礼拝堂の扉がもう一度開いた。
「ダヴィサ様!」
ばん、と体当たりするような勢いで開けたのは、若い聖職者だった。肩で息をしている。額から水を被ったような汗が流れている。膝に手を突くような姿勢は、よほどの距離を走ってきたのだろう。
「街の、東に、」
しかし彼女は、その切れた息のままで、
「魔獣が、」
後はもう、言葉は要らなかった。
ダヴィサが駆け出す。伝令役を務めた彼女に、すれ違いざま肩に触れ、ねぎらいの言葉と次の指示を出す。その間にジルは追い付いている。
ダヴィサの隣で足を動かしながら、
「手伝います」
「心強いね。悪いけど、急ぐよ!」
彼女は当然、この大聖堂がある街を知悉しているのだろう。足取りに迷いはない。ジルは、彼女の歩みにただついていく。
ついていきながら、考えている。
リリリアの言葉。
幽霊のお告げ。
ぐ、と腰の鞘を、ジルは強く握った。




