4-3 取りに来たの?
「何かいる」
と口にしてから動き出すまでの間に、逡巡は全くなかった。
西の国、大聖堂のある大きな街の中だ。ジルは鼻先に石鹸の香りを覚えた瞬間、そしてそれが去っていこうとした瞬間、その意味を即座に理解する。
ついさっき大聖堂に侵入していたという、目に見えない外典魔獣。
泡を撒いて、大聖堂の中にいないことを確認したとアーリネイトは言っていた。けれど、その捜索範囲はあくまで大聖堂の中だけだ。
自らの正体を晒す前に、街に逃げ出した可能性は十分にある。
そして目に見えないという厄介な特性がある以上、この広い街で一度逃がしてしまえば、もう自分だって見つけられない可能性が高い。
ここで捕まえる。
「後から追ってきてくれ」
アーリネイトに一言残して、駆け出した。
平坦な街だ。ほとんど坂道もなければ、階段もない。ここで高さと呼べるものは煉瓦の塀と街路樹が作り出すもので、大聖堂から教会図書館に向かうまでの道は、その樹々が落とした黄金色の葉によって肌を塗られ、塀が遮る大きなカーブによって輪郭を描かれている。
もちろん、ジルにそんなものは通用しない。
道を無視して走るのは、大得意だ。
はっ、と息を吐いて塀に飛び上がる。両足を並べて置くほどの幅もないその場所に、しっかりと立つ。空の匂いを嗅ぐように顎を上げて、目を瞑る。嗅覚を研ぎ澄ます。
「――こっちか」
塀の上を駆け抜ける。
閑静な道ではあるが、誰も通りがからないというわけではない。すれ違う人はふっと額に差した新たな影に、顔を上げては目を丸くする。後ろから追い抜かれた人間は、最初はどこから足音が来たのか気付かなかったのだろう。不思議そうにきょろきょろと見回した後、ジルの後ろ姿の高さを見てぎょっとする。その人々は様々だった。散歩中の高齢者だったりするし、教会学校が近くにあるのか、本を胸に抱えた若者たちだったりする。あるいは夕方の郵便配達人はその俊足と自分の足とを見比べてしまうこともあるし、ある親子連れは咄嗟に我が子を背中に庇い、それでも庇われた子が足の隙間から顔を出し、指を差し、こんなことを言ったりもする。
「登っちゃいけないんだー!」
本当にその通りだったので、ジルは「すみません!」と謝りながら進むことになる。
それにしても、と思った。意外に魔獣の動きが素早い。街中だからと速度を抑えてじわじわと距離を詰めていたけれど、これではかえって追いかけるのが長引いて、リスクが高まってしまう。
一気に詰めるか、と脚に力を入れた瞬間だ。
向こうも一気に加速した。
「――!」
こうなると、もう相当の速度だ。うっかり激突でもされたら怪我人が出る。ジルは迷うのをやめた。ふ、と息を吐く。ふくらはぎの筋肉が膨らむ。誰と衝突することもないよう、塀を渡って一、二、塀が途切れて、家の壁を真横に三、塀に戻って四、五、跳んで、
捉えた。
ばしゅ、と手の中で魔力が抜けた音がする。
「……随分、大したことないな」
その手のひらを見て、ジルは呟いた。
風船でも握ったような心地だった。目には見えないままだけれど、握った瞬間に潰れてしまって、今は布でも触っているような感触だけが残っている。これなら幼児が相手でもない限り、ぶつかった瞬間に外典魔獣の方が破裂したことだろう。
こんなのもいるのか、と奇妙な感心を覚える。
単に強いだけではないといえば東の国で遭遇した〈門の獣〉や〈十三門鬼〉、それから外典魔鏡もそうだったが、こうした性質を持っているものまで今後出てくるというなら、ますます滅王との対決は熾烈なものになっていく。
自分に何ができるだろう、と考えそうになった。
でも、その前に。
「アーリネイト。近くにいないか」
おーい、と声を出したのは、少なくともこれを誰かにすぐ伝える必要があるだろうと思ったから。
いくらそれほど強くはないとはいえ、外典魔獣が街の居住区に侵入しているのは一大事としか言いようがないだろう。このあたりはもちろん〈網〉――教会特性の対魔獣索敵用魔道具を張っているはずだが、それをすり抜けてきているわけだから。もちろん『弱すぎる』がためにその〈網〉にすら引っ掛からなかったとか、そういう例外的な事態ではあるのだろうが、何かしらの異状が起こっていることは間違いない。
それが少なくとも二体は見つかったのだから、三体以上いてもおかしくない。
だったらもっと本格的に、大聖堂の中だけに限らず街全体を捜索する必要も出てくるのではないかと、それを判断できる人間に情報を回そうと、ジルはそう考えた。
が、いつまで経っても声は返ってこない。
「アーリネイト?」
そこまで高速で移動してきたわけではないはずだ。
道中、アーリネイトとは剣の稽古で幾度かの手合わせをした。なかなかの腕だったし、なかなかの運動能力を持っていたと思う。流石に最後のスパートでは距離が離れてしまってもおかしくないとは思うけれど、途中までのあのじわっとした追い詰め方については、彼女なら全く問題なくついてこられるはずだ。
飛び上がって、塀の向こうを見る。
誰もいない。
途中で何かトラブルがあったのか。もっと後方を気にしておくべきだったか。いやひょっとすると今頃、剣を佩いたままいきなり街中を疾走し始めた不審者に関する弁明に尽力してくれているのかもしれない。だとするなら悪いことをした。
悪いことをした罰なのか。
ここがどこなのかもわからない。
「…………」
ジルは、しばらく塀の前をうろうろした。
一分、二分、三分……。時間は刻一刻と過ぎていく。二人で移動していたのだから帰るときも二人で帰るべきだとは思うけれど、しかしこの時間の経過がどの程度の重みを持っているのかもわからない。案外、自分が知らないところでもうこの魔獣は街にパニックを引き起こしているのではないか。そう思ったら心配になってきた。
心配になってきたので、自力で帰ろうと思い立った。
「どなた?」
ちょうど、そのときのことだった。
扉の開く音がした。ぎくりとしてジルは振り向く。今更気が付いた。自分がどこにいるのか。地図上の位置のことではない。具体的に、周りに何があるような場所にいるのか。
庭だ。
人の家の。
妙に大きな家だった。教会関係の施設と言われても納得がいってしまうかもしれない。その割にその人が開けている扉はいかにも住居らしい小ささで、どっちだ、とジルは迷う。どっちにしろ、と迷わずできることもある。
「すみません、勝手に入ってしまって」
謝罪。
今日は謝ってばっかりだなと思いながらも、しかし謝らなくちゃいけないようなことをやらないといけなかったのだから仕方がない。まずは丁寧に、説明しようとする。
「街中に魔獣が紛れ込んでいたんです。追いかけていたら、あなたの家の庭にまで入り込んでしまって。申し訳ありませんでした」
「魔獣?」
首を傾げられる。ええ、とジルはそれを持ち上げる。
もう一度首を傾げられる。ジルはそれを見て気付く。
見えない。
「ああ、ええと。実はこれが、目に見えない魔獣でして」
言いながら、もう自分で自分を「とんでもない奴だな」と思っている。どう考えても怪しい。信じてもらえるわけがない。この上腰には剣まで提げているんだから、叫ばれて助けを呼ばれたって何の文句も言えない。何らかの棒でいきなり打ち掛かられても仕方ない。
それでも何とか説明しようと、知恵を絞る。
「変わったのもいるのね」
その必要がなかった。
向こうは中年くらいの、長い髪の女性だった。彼女はまるでこちらの状態に頓着しない。いかにも突っかけたような古いサンダルを履いて、こちらに歩いてくる。
かえってジルの方が動揺する。
手の中の魔獣に触れると、「本当だ」と言った。
「何かいる。もう仕留めたの?」
「あ、ええ、はい」
「お疲れさまでした。庭で悪さをされる前に倒してくださって、かえってどうもありがとう」
浮世離れしたようにすら見える動じなさだった。
いくら大聖堂のある街とはいえ、とジルは思う。ひょっとして、とその気持ちのまま訊ねる。
「聖職者の方ですか」
「いいえ。どうして?」
慣れてらっしゃるように見えるので、と続けると、ああ、と頷かれて、
「昔、冒険者だったから。確かに人よりは慣れているかもね」
そういうことか、とようやく納得がいった。
元とはいえ同業なら、話は早い。
「そうですか。じゃあ、その、申し訳ない。実はこの件、急いで教会に報告したくて」
ええ、と彼女は頷く。落ち着いた調子で、
「あまり害はなさそうだけど、魔力的に込み入った場所では色々障りが出そうだものね。この街は大型施設も多いし、気を付けるに越したことはないでしょう」
「ですね。同感です。それで、戻り道を教えてほしいんですが」
じっと顔を見られた。
いや、と言い訳を始めたくなった。
「そのペンダント」
けれど、人は自分が気にしているほどには自分の弱いところを見ていないものだ。彼女のまなざしは、ジルの胸元に注がれている。
それで、ああ、と思い出した。
初めからこうやって、権威を笠に着ればよかったのだ。
リリリアから貰った教会のペンダントが、首に下がっている。
「そうです。一応、教会の関係者で」
「ええ。多分違うと思うのだけど、一応訊ねてもいい?」
「はい?」
「取りに来たの?」
何を言われているのかわからなかった。
そして答えは、その沈黙だけで十分だったらしい。「いえ何でも」と彼女は質問を取り消して、
「あっちに回ると門があるから。そっちからどうぞ」
それで道案内は十分、と言いたげな調子だった。
多分、実際にそれで十分な人間が多いのだろう。この街の区画はよく整理されている。しかしもちろんジルは、「それだけじゃ絶対俺迷うよな」という確信を持っている。
「門から出て、どっちに行けば?」
「どこへでも。そういう風になっているから」
けれど彼女は重ねて、そういう不思議なことも言った。
「もし外に出てもわからなかったら、一度家の中に戻ってきて。そのときは案内するから」
そう言って、門のところまで送り出される。
欲を言うとジルは、このまま教会まで送り届けてもらえた方が嬉しい。しかしとりあえず一人で行ってみろと言われると、これ以上食い下がるのもいい大人としてどうなんだという気もしてくる。
ダメだったら戻ってこよう、とダメの確率を九割九分くらいで見て、「どうもお手間を」と頭を下げて門から出た。
すぐに十字路に出る。どっちに行けば、と周りを見渡す。
振り返ったとき、家がなくなっていた。
「――――は?」
「ジル殿!」
いくら何でも、と自分で自分を疑いそうになったときのことだった。
聞き覚えのある声が耳に届いて、もう一度振り向くと、頼りになる人がそこに立っている。
「探したぞ」
アーリネイト。
彼女が肩で息をして、この秋の日に額に汗をして、そこに立っている。
「え、あれ、」
「すまないな。途中まではついていけていたんだが、最後の加速で急に消えたように――ん、どうした?」
何かあるのか、とアーリネイトがこっちの視線の先を見る。
壁。
しかない。
「いや、さっき――ああいや、そうだ。こっちが先だ」
外典魔獣が、と説明をしながら、そしてようやく内蔵する魔法が切れたのか、手の中で姿を取り戻し始めたその魔獣を見つめながら、ジルは考える。混乱の中だから、思考は取り留めもない。いくつもの疑問が浮かんでは、答えを得ないままに消えていく。
その中の一つに、こんなものがある。
そもそもこの魔獣は、どうしてこの街に侵入してきたんだ?




