4-2 死神
「ジル殿でもダメか」
部屋を出てからしばらくして、アーリネイトはぽつりと呟いた。
あれから、それほど間を置かずに彼女は部屋まで戻ってきた。リリリアに報告する。「大聖堂の中には、すでに外典魔獣の姿は見当たりませんでした」それに対して、リリリアはどの立場から答えたのだろう。そっか、とだけ短く呟く。
けれどその先は、多分聖女として言ったのではないかと思う。
「この子、迷っちゃうから道案内してあげてくれないかな。折角来てもらったのに、何もなしで帰しちゃ申し訳ないし」
そういうわけでアーリネイトは、連れ立ってリリリアの部屋を出てくれた。行きたい場所はと訊かれても、この街の施設に詳しいわけでもない。図書館、とリリリアの言葉をそのまま復唱するように口に出せば、大聖堂の敷地の外へと連れ出された。一度は馬車で通った道。街路樹の美しく植えられた、人の賑わいの割にはどことなく落ち着いた雰囲気の街並みを、二人で歩む。
そして、彼女のその呟きを聞いた。
言えることは、一つしかない。
「申し訳ない。力になれなくて」
「いや、構わない。あれであの人も壮絶な頑固者というか……。他の聖女からの引き止めにも応じず、こちらとしても藁にもすがる思いだったんだ。考えが変えられなかったところで、ジル殿の責任というわけでは全くない。むしろリリリア様の言う通り、ここまで遥々来てもらってこちらが申し訳なかった」
いやいや、と口にするのは今度はこっちの番だった。
むしろ、とジルは言うことになる。友人があまり良くない状況にあるということを報せてもらえて助かった。自分も別に大図書館で役に立つわけでもなかったし、ここには来られなかったユニスも、自分が代表して向かったことで気も楽になっただろうから。
「それに、あんまり落ち込んだ様子もなくて安心した。それを確かめられただけでも来た甲斐はあったよ」
「……ジル殿の目にも、そう見えるか」
気になる言い方だった。
どういう意味だ、と視線で問い掛ける。すると彼女もその意を汲んで、
「全く落ち込まないというのも、変な話だと思ってな。あれでリリリア様も、当然聖女に至るまでには相当な業績を積んでいるわけだ。教会の最高権威だからな。当然その肩書には様々な名誉も信望もついてくる。それを手放して惜しくないのかというと――」
そこで、言葉が止まった。
アーリネイトは、まじまじとこちらの顔を見つめている。
「なんだ?」
訊ねると、いや、と彼女は、
「その実例が目の前にいたと思ってな。ジル殿。一つ、訊いてもいいか」
「ああ」
「ジル殿ほどの剣の腕があれば、富も名声も思うがままだろう」
そんなことは、とジルは思った。多分、顔にも出た。
「いくら剣の腕があったって、できないことばかりだぞ」
「できないことばかりでも、そのできる一つがそれほど突出していれば、何だって手に入るだろう。その上で訊きたいのだが、なぜ一所に収まることもなく、旅を続けているんだ?」
ああ、とジルは納得した。
呪いの話を知らなければ、確かにそこを不思議に思われても仕方がない。だから、説明しようとした。実は自分が旅に出たきっかけは幼少の頃にこの目に死の呪いをかけられたがためで、その呪いを解くには呪いの主である狼を打倒する必要があって、だからその日に向けて今もこうして力を蓄えているのだ――と、
「あなたは自ら得たものに、何の価値も感じないのか?」
言おうとしたのに。
重ねられたその問いかけに、ジルは戸惑ってしまった。
多分これは、本当はリリリアに訊きたいことを、代わりに自分に訊ねているのだ。その上で質問の意味を汲み取ると、こういうことになる。
聖女なり剣士なりそういうことで突出して、名声や信望や肩書や様々なものを得てきたというのに、そういうものを捨て去ることに何の躊躇も感じないのか。
ジルはこのことについて、明白な答えを自分の中に持っている。
アーリネイトのその問いかけに、非常に明快な答えを返すことができる。
ああ、感じない。
「ジル殿?」
足を止めた。
しばしジルは、その場で考え込んでいる。もう一度アーリネイトから名を呼ばれて、ようやく受け答えを始める。けれど、すぐには浮かんだ答えを口にしない。その場をしのぐような言葉で時間を誤魔化しながら、頭の中には別の考えが浮かんでいる。
リリリアも、自分と同じように感じているのか?
自分で決めたことなら仕方がないと、大して引き止めもせず、彼女の感情に寄り添うこともなく、簡単に引き下がってよかったのか?
他人は自分じゃない。
そして自分は、ユニスの分の心配も一緒に背負って、ここまで来ている。
「申し訳ない」
ともう一度言った。
「振り回す形になるんだが、もう一回、大聖堂に戻っていいか」
リリリアと話したいことができたから、と。
言えば、アーリネイトは少し驚く。けれどその後には、今までで見た中で一番だろう、はっきりした笑顔を浮かべて、
「もちろんだとも!」
街路に響き渡るくらいの、通行人が一斉にこっちを振り向くくらいの、言い出したジルの方が焦ってしまうくらいの大きな声で答えてくれる。
じゃあ、とジルは早速踵を返した。そちらではない、と当然のようにアーリネイトに止められる。導かれながら、ああでも、と思う。ついさっき、ユニスの顔が思い浮かんだのの延長だ。向こうでもしっかり調べものをしてくれているのだから、こっちはこっちで、教会の図書館くらいは後で見てきた方がいいんだろうか。けれど流石に素人の自分が見てわかるようなことは、もう教会の人たちが調べ終えて――
「――石鹸?」
その道の途中、ジルはまたも足を止めることになる。
それほど近い距離ではない。けれど、今向かっている大聖堂の方角でもない。
だというのに、ついさっき大聖堂に撒かれた石鹸の匂いが、不意に、何もないはずの道端に香った。
†
「君には、ジルの呪いの方を調べてもらいたいんだよね」
とは、〈原庫〉調査の前にユニスが言ったことだった。
いいんですか、ともちろんクラハは訊ねた。今回の調査の目的は、あくまで滅王に関する危機対策の一環ではなかったか。魔法連盟の一員でもない自分が、この機会にタダ乗りするようにして私的な目的を達してしまってもいいのか。
う、とユニスはその指摘に怯みつつ、ごにょごにょと、
「でも、外典魔獣中位種を単独撃破できるジルが、対滅王陣営のこっちとしてはとんでもなく強力な味方なのは間違いないし。滅王との戦いがどのくらい長引くかわからない以上、彼の寿命を縮める原因を取り除いておこうって取り組み自体は合理性が認められる……はず」
しかし、その提案はクラハとしてもありがたい。深く突き詰めることはせず「はい」と頷いて、その依頼を受諾した。
おかげで今、大図書館の〈原庫〉を彷徨い歩いている。
広大で、どこまで続いているかもわからないような大迷宮だった。
パッと目を留めた一区画を取っても、それは人が一生に読む本の量を超えていることだろう。〈天土自在〉のように、縦に伸びる塔のような形をしているわけではない。むしろ、天井はあからさまだ。吹き抜けは三階ほどで、図書館としては確かに大きいと思うけれど、この手の歴史的な価値まで持つ大型建造物にしては、そこまで果てしないものではない。
問題は、奥行きだ。
いくら〈図書館の大魔導師〉といえど、これだけの数の書物をコンパクトにまとめ切ることはできなかった。
外側から観測できる施設の体積よりも、実際に中に入ってから動くことのできるスペースの方が遥かに大きい。これは錯覚ではなく、空間を操る秘法が施されているのだそうだ。一つの街より広大で、その空間の中にある棚のたった一台が、棚に並ぶ本のたった一冊が、人一人が生涯をかけて見出したような無数の知識で溢れている。
ページの隙間から、知識が量を伴って流れ出してきたら、いったいどれほどの海を作り出すことだろう。
ただその間に立つだけで眩暈がするような空間を、クラハは歩いた。ときどきは、同じく調査中の魔導師たちとすれ違う。彼らもまた、訪ね歩くようにして書架の間を行く。
誰の足取りもふらふらと安定しないのは、この場所にそれほど正確な地図がないからだ。
仕様上の問題なのだという。これだけの魔導書が集積した空間を魔力的に安定した状態に保つために、新たに書物が収蔵されるたびに〈原庫〉は配列を変えていく。分野ごとに大まかな『固まり』は存在し、またそれらの『固まり』の場所を観測するだけの機能はあるが、詳細として検索可能なのは書名と著者程度。それだって驚異的な秘法の賜物だとクラハは思うけれど、実際にこうして何かを調べるときは、この広大な場所を自らの足で歩き回り、また実際に本を手に取って、内容を検めなければならない。
魔獣がいないだけで、ほとんど迷宮の中を歩いているのと同じだ。
「呪い、呪い……」
物騒な呟きが口から漏れたのは、音の少ない空間だったからだと思う。あちこちの書物が足音を柔らかく吸い込んでしまうし、外界の物音も遮断されてしまう。その上、続くのはどこをどう見渡しても書物の収められた本棚ばかりの同じ景色なのだから、自分で自分の感覚を刺激しないと、気が遠くなってしまう。
それからぴたりと足を止めたのは、『呪い』の棚の前ではない。
ただ、方角を表す言葉をそこに見つけた。北、と背表紙にある。クラハはあらかじめ受け取っていた内部の地図で、自分の現在位置を確かめる。目の前にあるはずの書棚の『固まり』の名称を探し出す。
地方史。
まずはここから、と思った。
最初に目を留めたものの中には、目当ての情報は見当たらなかった。北の国に関する政治史が書かれているだけで、中には『写本済』の栞も挟んである。こういうものはわざわざ〈原庫〉の中で読む必要がない。棚に戻して、次のものを手に取っていく。
そこにある多くの書物は、最初に手に取ったものと同じだった。つまり、魔導書でも何でもない普通の書物で、すでに図書館の手によって写本されたものが開架にも並んでいる。こういうものがあるということを、クラハは知っていた。先史時代の失われた文明への反省から、一部の歴史書や学術書は、こうした魔法的保護のかけられた『原本』が存在している。ここにあるものも、そういうものの一部なのだろう。
得るものはなかった。
そうとわかったら、次の場所へ向かう。
様々な『固まり』を渡り歩いた。地方史から始まり、地方風俗史に民間医療、もちろん呪いそのものに関する棚にも当たったけれど、一番近くにあったのは単なる概説の棚で、それもやはり、それほど大した内容のものではない。それでももしかしたら次の本こそは、その次の本にこそは有益な情報が載っているのではないかと、クラハは何度も何度も同じ動作を繰り返す。
歩く。本を取る。めくって、眺めて、本を戻す。歩く。取る。めくる。戻す。歩く、取る……。
段々と、意識が鈍ってきた。
同じ動作ばかりを続けると、人間はこういう状態になっていく。とめどもない、永遠に風景の変わらない平野や洞窟を歩いている状態に似ている。やることと言えば、その同じ動作を数えることくらいだ。一歩、二歩、三十七歩。五冊、十二冊、百八十二冊。「あるかも」と思って目を通すのと、初めから「ないだろうな」と思ってそうするのとでは、やはり入れ込み具合も注意力も違ってくる。何度かクラハは、一度棚に戻した本をもう一度引き抜くようになる。さっき読み飛ばしてなかったっけ。こんな単語があった気がするけど、どういう意味だったっけ。どういう文脈だったっけ。
何か大切なことが書いてあったんじゃ。
死神。
「――――」
その言葉を見たとき、ふっと意識が明瞭に戻った。
急に視界が広がった気がする。クラハは頭を振って、それでも頭の隅にまだ残る霧を振り払おうとした。もしかすると、この場に流れる濃密な魔力に当てられていたかもしれない。目を瞑って顎を上げる。深く息を吸って、吐く。
手に持った本の表紙を見る。
それは、とても小さな本だった。
ポケットの中に入れて持ち歩けてしまう程度のものだ。周囲に並んでいる重厚な装丁の書籍と比べればいかにもちんまりとしていて、配架の仕方がもう少し雑なら、あるいはこの後クラハがそれを何の気なしに棚に戻してしまえば、ひょっとすると背表紙が埋もれてしまって、二度と誰にも見つかることもないかもしれない。そんな本。
表紙には、元はおそらくタイトルも何もついていなかったのだろう。今日一日で随分と見慣れた、そういう本を一目見てわかりやすくするために図書館員の手によって付けられた、既定のカバーが付けられている。
『異教の神』と、そこには記されていた。
クラハは文字を追っていく。現在この大陸ではラスティエ教が非常に広範な支持を得た、実質的な支配宗教であり――と始まることから、少なくとも先史より昔に書かれたような文章ではないことがわかる。奥付を見ても、発行年は書いていない。続きに戻る。一方でしかし、ラスティエ教以外の宗教もまた、少なくとも現代において完全に存在しないとは言えない。その多くは迷宮や魔力混迷地帯の影響、あるいは純粋に地理的・自然的な要因によって周囲の共同体との交わりが必然少なくなる過疎地域に連綿と根付いたものであることから、これらのうちにはラスティエ教よりも古い、先史時代からの歴史を持つものもあると思われる――。
そこからは、別の神を祀ることについての社会的考察が滔々と。
読み飛ばして、各論へ。
北、という文字があって、ページを繰る手を止めた。
『極北の神
安定的な呼び名は存在しない。多くの場合、それらは単に民の間では「狼」と呼ばれ、猟師の間では「雪狼」「氷」「白君」等、個人や家によって独自の呼び方を持つ。直接肉眼でその神を観測したという者は取材時に発見できなかったが、信仰者の間では、その姿について「巨大な白い狼である」という共通認識を持っている。
祭祀場や教会に当たる場所は、存在しない。ただし、この神について信仰者たちは「冬季にのみ、海氷を渡ることで通行可能となる高山の奥地に住まう」とその位置に関して共通した認識を持っている。
この神の実在について、信仰者は、曖昧な態度を取る。
神事とそれを司る巫者は、存在しない。
文字による教典は、存在しない。口伝による継承が存在する。その内容については、別紙のとおり。』
クラハはその『別紙』を探す。けれど、巻末には見当たらない。どこか近くに収蔵されているのだろうか。あるいはすでに失われてしまったのだろうか。考えながら、さらにその先を読み進める。
『(筆者考ココカラ)周辺地域には、地域の固有種として白い毛並みを持つ狼の群れがある。このことから、それらの狼そのものが、あるいはこれら固有種の狼と類似した一般に魔獣と呼ばれる存在が高山に棲息しており、それが信仰の基盤を作り上げた可能性も考えられる。また、信仰者の態度についてはこの宗教に固有のものというより、ラスティエ教成立以後の大陸全体の影響を受けた普遍的なもののように思われた。口伝の内容を踏まえると、この神は極地型の宗教における――』
「『死神』の役割を果たしている……」
その文字を、クラハは指でなぞる。口の中に呟く。
そのとき不意に、背後に気配を感じた。




