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16-1 頼んだ



「あんた、組む相手いないの?」


 目的の遂行には必要のない記憶ばかりが、いくつも頭に過る。

 それが単なる感傷なのか、それともあの攻撃の続きなのか、もうロイレンには判断がつかなかった。


 今は、始まりの時間のことを思っている。


 季節はきっと、夏だった。半袖のシャツを着て、学園の実習室の、いつもの窓辺に座っている。カーテンがはためいている。部屋の中は薄く翳る。


 話しかけてきたのは、いかにも生意気そうな少女。

 机の上に乗り出してきて、大きな瞳でこちらを覗き込んでいる。


「余ってんの?」

「ちょ、ちょっと。そんな言い方しなくてもいいじゃん」

 その横には、いかにも気の弱げな線の細い少年が立っている。

 彼は困ったような、自分は敵じゃないですよと伝えるような、そんな控えめな口調で言う。


「ロイレンさん。もし班決めがまだなら、今日は一緒に組んでくれないかな。僕たち、ちょっと抽象操作実習が苦手で」

「いや、全然苦手じゃないけど」

「話の腰を折らないでよ。それでほら、ロイレンさんって実習もいつも一番でしょ? よければコツとか教えてくれないかな~……なんて」


 思っちゃったりするんだけど、と小さな声で少年が言う。

 そこでようやく、ロイレンは図書室から借りてきた学術書から目を上げる。ふたりを見つめる。ふん、と鼻を鳴らす。


「お断りだ」

「え、」

「俺は忙しい。わざわざ他人の面倒を見てやるほど親切な人間でもない」

「はあ!?」


 その頃は、万事その調子だった。

 孤独なんて気にならなかった。軋轢なんて、踏み潰して進んでいけると信じていた。まだ自分がどうなるのか、どうなりたいのかもわからない。ただもっと高くへ、高い場所へ。それだけを考えて日々を行くばかり。


「誰が面倒見てほしいなんて言ったわけ!?」

「それはさっき僕が言ったけど」

「あたしは言ってない!」

「いいから消えろ。時間の無駄だ」


 煙たく手を振って、ページに視線を戻せば、後は勝手に去っていく。

 そのときも、そうなると思っていた。


「勝負と行こうじゃない!」

 ばん、と机を叩いて、少女が隣の席にどかっと座る。


 流石に、呆気に取られた。

 

「――は。いや、何を」

「じゃあ僕は審判役ということで」

 さらにその隣の席に、少年が座る。


 始まりは、そんなどうしようもないものだった。

 その頃のロイレンは、全く知らなかった。妙に勝ち気でやかましいばかりに見えた少女が、自分よりもずっと確固たる目標を持っていたことを。気弱に見えた少年が、その一見の印象とは全く違って、したたかと呼べるほどの振る舞いと調整能力を身に付けていくことを。


 自分が、それから十何年も経って、こんな風に過去を思い返していることを。



 風が吹く。幻は、匂いも残さずにどこかに消えていく。

 振り向けば、そこにいた。


「いい加減、あなたの顔を見るのにもうんざりしてきました」

「俺はそうでもないな。何せ、見えてない」


 傷だらけの剣士が、そこに立っている。

 ロイレンは肩を竦めた。よりにもよって、一番厄介なのが最後までついてきた。


「あなたが私を刺し貫いた回数を教えてあげたいくらいですよ。正直言って今、私が世界で一番怖いと思うのはあなたです」

「そうか。じゃあ、俺の有利だな」

「ええ。まあ、そうなります」


〈銀の虹〉は取引によって破壊された。

 だから、この剣士は自分の力で処理するしかない。


 あの最初の襲撃時にまで戻るべきだったのだろうか。

 もっと多量の毒を混ぜるべきだったか。しかしそうすれば、彼は毒の存在に気付いたか。あるいは彼はそもそも毒では殺せず、どんな量であったとしても、結局はこの場所に至るのか。


 それは、もしもここで負けたら、確かめてみるとしよう。


「行くぞ」


 ジルが、剣を抜く。

 ロイレンは、外典魔鎚を天高く掲げた。





「ジルさんの誘導は終わった。ロイレンに間もなく接敵する」


〈天土自在〉でウィラエがそう言えば、ありがとうございます、とリリリアが答える。彼女は、眠るクラハの額を優しく撫でている。


「あの子ひとりじゃ、ロイレンさんのところに辿り着けないだろうから」

「どうかな。ここからのナビゲーションを妨害する様子もなかった。ロイレンは、迎え撃つつもりでいたのかもしれない」


 ついさっきまでウィラエが行っていたのは、ジルの追跡のサポートだ。

〈天土自在〉の外部モニタも利用して、ロイレンが離脱していった先を探る。それから光や音の魔法を照射して、ジルに進むべき道を伝える。


 それが今、終わった。

 彼女は再び、操作壁の方へと指を落とす。


「クラハさんの容体はどうかな」

「大事はありません。着地のときも、ジルくんが上手く勢いを殺したみたいで。ダメージとしては、外典魔装との間接的な接触だけです」

「そうか。反応率の高い魔合金を介しての接触だからな。かえって直接に、魔装の悪影響が出たことだろう」


 ええ、とリリリアは頷く。

 クラハは、ついさっき〈銀の虹〉の足元から〈天土自在〉に送られてきた。短時間で、それだけの移動をこなすことのできる技術。転移魔法。


 送ったのは、ユニス。

 彼はもう、焼け焦げた〈銀の虹〉の近くには留まっていない。


「過熱状態だな」

 ウィラエが、操作壁を見ながら言った。


「先ほどの攻撃で、供給路に負担をかけすぎた。防衛用の緊急使用を考えるなら、しばらくは攻撃ができない」

「残存魔力は?」

「すぐに使用可能な領域に限れば、二割ほど。やはりロイレンは、ただでは攻撃を受けなかったな。あれに乗じて、ほとんどの魔力を引っ張り出した」


 そうですか、とリリリアがまた頷く。

 彼女は、外部モニタを眺めていた。


「本当は加勢に行くべきなんでしょうけど。私がここから離れるのを、ロイレンさんが許すとも思えませんね」

「だろうな。不甲斐ないが、外典魔杖を相手に防衛するのは私には不可能だ。残り二割の魔力まで根こそぎ奪われるし――最悪、破壊を盾に何らかの取引を持ち掛けられるだろう」


 だから、このふたりはここで終わりだった。

 後はもう、見守ることしかできない。〈天土自在〉の制御室。あれほど賑やかだった夏は、どこに消えてしまったのだろう。今はただ、静かだった。


「使ったんだな」

 ウィラエが、言った。


 リリリアは、しばし答えない。眠るクラハの顔を、労わるように見つめる。しかし、やがて彼女は立ち上がる。ウィラエの隣に立つ。外部モニタを見つめる。


「人の心に入り込んで、自分に都合の良いように操る」


 彼女の声は、美しい。

 震えもしない。肩が強張ることもなく、背筋は自然と伸びて、まるで恐れるものなど何もないかのように見える。瞳に映るのは、焼け焦げた〈銀の虹〉。外典魔獣上位種。有史以来どころではない。先史からも含めて有数の人類の敵。この大陸すら覆しうる脅威を人的被害なく打倒した功績は、聖女という肩書にすら余りある。


 それでも、彼女は言った。



「この世で最低の魔法です」



 後はただ、静かに立ち尽くすばかり。


 ウィラエは、そっと彼女の傍に寄り添う。

 何も言わずに、その背を撫でた。





 交錯は、刹那のことだ。

 そしてこのふたりが対峙するとき、単純な反応速度の差は必ず生まれる。ジルが、先に飛び出していた。


 対してロイレンは、すでに準備を終えていた。肉体の反応速度では、到底ジルには及ばない。だが、魔法の発動速度ならばそれに準ずる。魔導師は、剣士と命のやり取りを何度も繰り返したことで、戦闘への順応を果たしている。


 この決闘場にあらかじめ用意していた魔法に、最後の一滴を注ぐ。


 音と光と、匂い。

 それらが全て、一斉に弾けた。


 ジルの動きが、一瞬鈍る。何かを見極めようとする。しかしロイレンは、彼が何を見極めたのかを知る必要はない。それが何であろうと、確かめ続ければいいだけなのだから。


 外典魔鎚は、膂力で振るものではない。その重みは魔導師の手に余るもので、だから彼はそれを、魔力によって掲げる。剣の避け方は、実を言うとまだ掴み切れていない。しかしそれだって、何度も試行を重ねるだけの話だ。


 立ち位置を僅かに変える。

 ロイレンは、魔鎚を振るう。


 一度目で、それは直撃した。





 ジルは〈銀の虹〉が破壊された際のやり取りの意味を、すでに理解していた。


 もちろん細かい条件はわからない。だが、ロイレンを相手にもっとも剣を振るい続けたのは彼だ。だからあれだけの規模の攻撃の応酬を前にしてジルは、なぜロイレンが時を戻してあの結末を避けなかったのか、その理由に察しがついている。


 戻せなかったのだ。

 何か、時を戻すことで不都合が生じるような状況に陥ったのだ。


 だから、自分も同じ状況を作り出してやろうと思った。


「――っ!」

 外典魔鎚を、あえてその身に受ける。


 直撃だ。しかも、後方に跳んで衝撃を逃がすことすらしない。ジルは確かに、中央の街で外典魔剣を葬った。外典魔鏡を割り砕くことだって容易いだろう。けれどそれはあくまで、最善の立ち回りを取った上でもたらされる結果の話。


 外典魔装による攻撃をまともに受けてしまえば、当然、甚大なダメージを負う。

 わかっていて、あえて受けた。


 痛みを堪える。足を下げない。視覚も聴覚も嗅覚も、この魔導師の前では信用がならない。けれど、この痛みを伝える触覚だけは疑う余地がない。


 衝撃からの逆算。

 ロイレンがどこにいるかをジルは理解する。剣を握る右手が、動く。


 次の瞬間、ロイレンは魔鎚を手放した。





 樹海の奥へと、魔鎚とともにジルは消えていく。

 これもまた取引だったのだと、ロイレンはそれを見つめていた。


 不気味だった。あれほどの剣士が、自分の一撃を容易く受けるはずがない。偶然と断ずるにはあまりにも不自然で、だから、そこに狙いが隠れていることにすぐに気が付いた。


 それはリリリアが仕掛けてきたものよりもずっと無骨で、不器用な取引だ。


 初めは、単に触覚を用いてこちらの位置を探ってきたのだと考えた。五感の多くを制限された状態において、その形の打開を模索するのはそれほど違和感のある話でもない。


 しかしジルは、これだけ肉体の能力に差のある自分を仕留め切れずにいることを問題視できないほど、鈍い人間でもないはずだ。


 結局のところ、大抵の致命傷に対してこちらは誤魔化しが効くのだ。斬られて、突かれて、それでも間際に杖を用いて時を戻せばいい。五感を妨害されたジルは、奇跡が起きない限りはその小さな杖がどこにあるのかを把握できない。腕だの何だの、そんなわかりやすい道具を使って杖を握る必要もない。背に隠していたっていい。足で踏んでいたっていい。身体のどこでもどころか、身体に触れていなくたって

、魔道具を手足のように使うことくらいはできる。


 その状況を理解しているだろうジルが、『回避されて終わる定めにある』一閃のために、魔鎚の一撃を正面から受けるような愚を犯すはずはない。


 警戒のためにと、何が起こるのか確かめようと、ロイレンはひとまず魔鎚と自分のリンクを断ち切ることを優先した。魔法を切り離す。魔鎚は勢いを保つ。ロイレンはでたらめな方向に後退する。


 ジルの足が、地面から容易く離れるのを見た。

 それで、理解した。初めから狙いはこれだったのだと。彼が持ち掛けてきたのは取引で、その内容はあまりにもわかりやすい、直接的なものだったのだと。


 この一撃で、沈んでやる。

 だから、魔鎚を手放せ。


 後は、天秤にかけるだけだ。

 滅王から授かったふたつの外典魔装。うち魔杖は目的の達成のために不可欠なものだったが、魔鎚はそもそもが、ジルへの対策として用意したものだ。能力は『振動を操る』という非常に便利なものだったけれど、それ自体は自分の魔法でも代用できる。重要なのは重さと威力だった。万が一近接戦闘が発生した際、至近距離で大魔法を使うのは難しい。間合いの中に留まられたら、いくら時を戻してもキリがない。だから、ジルを近付かせないための道具が必要だった。


 リリリアとウィラエは、〈天土自在〉に張り付けている。

 後詰めとして想定されるのは、ユニスとクラハ。あのふたりを相手に、もう外典魔鎚は必要ない。


 だからロイレンは、その取引に乗った。

 今は、彼が消えていった樹海の先を見つめながら、安堵の息を吐く。


 吐く、はずだった。


「――不死身か?」





 不死身なわけがない。

 ただ、痛みを堪えて立ち上がっただけだ。


 視界が真っ赤に染まっている。恐らく血だろう、とジルは思う。蓄積したダメージがどうだとか、そんな他愛のない話ではない。外典魔鎚の直撃は、全身を粉々にするような衝撃だった。


 実際、粉々に砕けているのかもしれない。

 見えないからわからないし、関係がない。


「あとは、杖だけ、だな」

 生肉をそのまま食べているような妙な匂いが、ずっと口の中に満ちている。


 足を引っ掛けて、ジルは躓きそうになる。それはあまりにも重たいし、地面に埋まっている。岩ではない。木の根でもない。


 外典魔鎚の残骸だ。

 ついさっき、べたべたと触りながら、斬るべき場所を見つけて、真っ二つに斬り裂いた。


「根くら、べを、しよう」


 ジルは、まだ剣を握っている。

 死にかけの獣のような足取りだ。折れていない骨も、砕けていない肉もないように思う。それでも、それがちょうどいい。ジルは取引の成立条件がわかっている。ダメージが少なければ、ロイレンはまた時を戻す。


 この取引が割に合ったものだと思わせなければならない。

 だから、死にかけくらいがちょうどいい。


「杖を、狙う」

 剣を取り落とさないのが、精一杯。掲げる気力すらない。

 それでも、宣言する。


 ジルは杖を狙う。外典魔鎚がなくなった以上、接近戦の間合いの維持はこれまでより容易くなる。チャンスはある。


 一方でロイレンは、時を戻し続ける。何度も何度も時を遡る。今度こそこちらの命を奪うために、あるいは何らかの形で無力化するために、最善の行動を模索して、何十の何百の、何千の一秒を繰り返す。


「先に壊すか、殺すか、だ」


 その何万回で、杖を壊して時戻しの秘法を封じるのが先か。

 あるいはとうとう剣士にトドメを刺し、時戻しの秘法を使う理由を失うのが先か。


 先に負けた方が負ける。

 当たり前の――けれど途方もない一瞬の、根競べ。


 ジルが、一歩進む。

 ロイレンは、引き下がらなかった。


 満身創痍。ロイレンはきっと、勝機を見た。ジルはそのことを理解する。ロイレンは賢い。おそらく客観的に見て自分は、今にも息絶えてしまうような、そんな生き物に見えるのだろう。前提となる代償は多大で、けれどこれ以外に道はない。


 ジルは、もう一歩を踏み出す。

 やわらかい感触が、胸の下に広がった。


 目は元から利かない。鼻も、血の臭いで麻痺している。だから視線を下げても、息をしても、それが何なのかすぐにはわからない。




「ジル」


 声が、代わりに教えてくれる。

 それは、友人だった。




 抱き留められている。彼の感触は、夏の日差しを浴びるように温かい。慈しむように、肩を撫でられる。触れれば激痛が走るだろう身体が、不思議とそのときだけは、痛くない。


「大丈夫。ここからは、僕がやるよ」


 気の利いたことを言ってやろうという気持ちもあった。


 けれどジルはもう、そんなことにも頭が回らない。抱き留められたまま、視線を上げる。真っ赤な視界の中に、別の色が映る。


「そうか」


 真っ青な、きっと竜が飛んだっておかしくないような、広い空。


「頼んだ」





 ユニスはそっと、意識を失ったジルを草の上に横たえる。

 ボロボロの姿。隣には断ち切られた外典魔鎚。状況は、もう理解できている。


 振り向けば、ロイレンが杖を構えて立っている。

 だから、ユニスは言った。



「終わりにしよう。ロイレン博士」


 二頭の竜が、向かい合う。



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