13-2 他にもたくさん
は、と息を吐いて、ようやくその魔導師は足を止める。
「何、とか……」
荒く息を吐きながら、彼は胸を押さえている。固まった血が、それでぼろぼろと地面に落ちていった。幹の太い樹木に凭れ掛かって、やがては足からも力が抜けて、ずるりと彼は地面にへたり込む。
目の前に広がるのは、真っ青な海だ。
南方樹海は、南の国の端に位置する半島状の地形だ。しかも森の中をいくつもの河川が行き来しているから、海まで流れ着くのはそれほど難しいことではない。事実、こうしてこの魔導師――ロイレンもまた、即席の筏の上で急流に任せることで、ここまで辿り着けた。
けれど、海から町まで戻るのは著しく難しい。
今やその筏も水の底に沈み、そして同時に、彼はわかってもいる。物理的な問題だけではなく、もっと様々な問題が今の自分には存在していること。
もう、元の場所には帰れない。
わかっていて、ここまで来た。
「……そういえばこんなところ、まともに来たこともなかったな」
水面には、奇妙なくらいに美しく照り返す夏の日があった。
青く透き通る水の色。どこまでも抜けていくような空の色。日の光は生き物の全てに活力を与えるかのように眩く白く、風が運んでくる何もかもが、『ここではないどこか』の匂いをしている。
耳を澄ます。
まだ来ないと思ったから。これが最後の時間になるかもしれないと、そう思ったから。彼は穏やかに瞼を閉じた。
冗談みたいな夏の熱。皮膚の全てが覆われるような湿気。肺に空気を取り込めば、溺れたような心地さえする。
季節の中では、夏が一番嫌いだ。
とにかく過ごしにくいことこの上ないし、嫌な思い出だって多い。
それでもこれだけ夏の長い場所でずっと暮らしてきたのは、嫌な思い出『だけ』ではなかったからだ。
ふ、と息を吐いてロイレンは立ち上がる。その息すら熱を帯びていたことに、あるいは血の匂いが混じっていたことに少しばかりの嫌気が差すが、それでも塗り込んだ薬のおかげで、まだしばらくは身体も保ちそうだ。
だから、次の局面を始めよう。
「……この手段は、できれば取りたくなかったが」
仕方ない、と彼は手に杖を取る。少し腰を曲げるようにして、老木から刳り出したような、何千年も前から存在する古杖の先を、遠慮なく地面に付ける。
ず、と湿った土を削る感触。
精密な、器具を用いて描いたかのような最初の曲線の行き先を見つめながら、ふとロイレンは懐かしさを覚えている。
昔。
こうして、魔法陣の描き方を教えてやったこともあった。
†
「ユニスくん、もっと早くできないかな」
「僕もそうしたいけど、難しいよ。ロイレン博士が作業したのを逆順で追っていくのが一番確実だ。リリリアが片っ端から表示される文字を翻訳して教えてくれるならもう少し別のアプローチもあるかもしれないけど、」
「ならそうしてみる?」
「それでもそっちの方が絶対に遅くなるよ。僕たちにとってはほとんどが未知の技術で構成された高度エネルギー施設の操作盤なんだ。そんなに短時間で攻略できるほど単純なものじゃない。博士だって、君たちがこっちに駆け付けてくるまでの間はこの場所を離れられなかったんだから、っと」
ぴ、とユニスは操作壁から指を離して、「処理待ちだ」とリリリアに告げる。壁に表示された図形が動き始めて、それで今の自分の操作が見当違いのものではないらしいと胸を撫で下ろす。
「他のところに何かないの? 一気にこの施設の……何だろう。そもそもの動きを止めちゃうような緊急用の何かとか」
「あっても押せないよ。だって、先史時代からここにあって動いてたんだよ? これだけ大規模な施設だし、一体どんな影響が出るかわからない」
「でも、いざってときに何も手段がないよりはマシだよ。その処理中って、他のページを見ても大丈夫なの? だったらユニスくん、どんどん動かして見せてくれないかな」
〈天土自在〉の制御室だ。
ジルとクラハのふたりがロイレンを追い掛けてこの場所を離れてしばらく、ユニスはリリリアと共に操作壁と向き合いながら、〈天土自在〉の機能を掌握するべく悪戦苦闘している。今のところ、ロイレンが去り際に施していたらしいいくつかのプロテクトを解除して、ようやく実際の操作に移り始めたところ。
「あ、」
とリリリアが指を差した。
「そこ止めて」
「この赤いスイッチ?」
「そうそれ。『緊急時』って書いてある」
「押しても大丈夫そう?」
「わかんないけど、押してみて」
怖いよ、と苦笑いする余裕がやっと出てきた。
どうなっても知らないよ、と責任を押し付けるようにしてそのスイッチに触れてみると、しかし周囲の環境に大した変化があったような気はしない。ただ、操作壁はいつものようにまた違う文字を映し出した。
リリリアが、真剣にその文字を読み取って、
「ここだけ、複数の言語で書かれてる」
「同じことが?」
「同じことが。『緊急停止手続』……他のも同じことが書いてるみたいだし、これかも。ユニスくん、今度はそっちの右下のボタンを押してみて。五秒くらい」
言われたとおり、五秒押す。
窓のようなものが、操作壁に表示された。
「今度は何だい、これは」
「『認証』……『コード』かな。何かを入れるみたい」
「魔法式?」
「どうだろう。今までの流れだと、そういうのがなくてもいざっていうときは止められるように作ってそうな気もするんだけど」
「だったらなおさらわからないな。魔法技術的なものじゃなく、当時に用いられていたランダムな文字や数字の並びだったとしたら、推測のしようがない」
リリリアはしばらく、その操作ページをじっと見つめている。
けれど、こちらの言い分を認めてくれたのだろう。だよね、と肩から力を抜いて彼女は引き下がる。ユニスもまた「いざとなったらデタラメでもいいから試してみよう」とだけ告げて、ついさっきの処理状況が表示されたページに戻っていく。
まだ、処理の完了までには随分時間を要するように見える。
いまだにさっきの戦闘の緊張も色濃く残った、大穴の開いた部屋だ。自然、ユニスの意識は単に待つこと以外の方面にも向けられて、
「あ、そうだ」
確か、と再び操作壁に触る。
「博士がこれを使って外の様子を映してたんだ。リリリア、ついでにそれがどこにあるのか探せないかな。いちいちあの壁の穴から外に出ていって周りを観察しなくちゃいけないのも不便だし」
言えば、リリリアもすぐに的確な言語サポートをしてくれて、必要な機能を見つけることができる。
ぱ、と切り替われば夏の色。本当にその場に窓があるかのように、樹海上空から見た景色が鮮やかに映し出され、しばしふたりは、それに視線を注ぐ。
「……ジルたち、」
ユニスが、ぽつりと言った。
「ここからは見えないね。大丈夫かな」
「ふたりなら大丈夫だよ、って言ってあげたいところなんだけど」
一方リリリアは、いつもよりもずっと真剣な表情で、
「わからないね。ロイレン博士がどのくらい切り札を用意してるかわからないし。ユニスくんは、さっき私たちに教えてくれたので知ってることは全部?」
「全部って」
「些細なことでも手掛かりになるかもしれないから。ほら、さっき、ロイレンさんの目的は昔に亡くなった友人を蘇らせることだってことと、外典魔杖と外典魔鎚のふたつの武装を使ってることを教えてくれたでしょ」
うん、と頷けば、
「でも、その目的と滅王とを繋ぐ線がよくわからないから。たとえば一方的にロイレンさんが滅王の遺産を利用してるのかもしれないし、そうじゃなければ〈天土自在〉を使って時を戻すことが滅王と何か利害を一致させるものなのかもしれないし。もし何か他にユニスくんが知ってることがあるなら、聞いておきたくて」
言われて、そうか、とユニスは気が付いた。
ジルたちがいたときは慌てていたし、情報の大枠の共有に集中していたから、細かいところは伝え切れていない。そこもか、と思って、
「ごめん。それは聞いてる。ロイレン博士は『利害の一致』って言葉を使ってた。もっとも、それがどういう意味なのかまでは話してなかったんだけど」
「……そっか。じゃあ、〈天土自在〉の掌握自体が目的って可能性もあるわけだ」
「かもしれない。リリリアもさっき見てわかったと思うけど、この施設が貯蔵・生成している魔力量はあまりにも多すぎるんだ。もしかすると、博士と同時進行で滅王の信奉者か誰かが、別の計画を進めている可能性もある」
なるほどね、とリリリアが頷いた。言われなくてもユニスは、次にすべきことに見当が付いている。
「処理待ちの時間に、もう少し〈天土自在〉それ自体のことを探ってみよう。何かわかるかもしれない」
「うん。私もだいぶ目が慣れてきたから、どんどんページを移動してくれていいよ。気になるところがあったら止めてもらうから」
わかった、と言われたとおりにユニスは操作壁に指を当てて、次々にページを送っていく。リリリアはそれを集中した表情で見つめているし、ユニス自身、この操作壁から取得できるだろう膨大な情報量の、ほんの一部でも目を通しておくことが、もしかすると後に何かの助けになるかもしれないとわかっている。
「あのさ、」
だから、その言葉を口にするまでには、逡巡があった。
「うん?」
リリリアは、やわらかい声で訊き返してくれる。まるで「何を言っても大丈夫だよ」と言外に伝えてくれているような、この切羽詰まった状況下でも優しく響く声。それが少しだけ心の負担を軽くしてくれたから、
「ロイレン博士は、『ふたりの友達』を蘇らせたいって言ってたんだ」
ユニスは、その続きまで言葉にした。
もしかすると全然関係がないことなのかもしれない。でも、リリリアはさっき「些細なことでも手掛かりに」と言っていたから。そんな言い訳を心の中に置いて、ユニスは言う。
「そのふたりは、ロイレン博士が魔法学園に通っていた頃の友人らしくて。今からじゃ想像も付かないんだけど、もっと人付き合いが苦手だったころの博士に、ずっと優しくしてくれてたんだって」
言いながら思い浮かべるのは、目の前にいる彼女と、それからロイレンの下へと向かっていった彼のことだ。
あのとき――協力を持ちかける言葉を口にしたとき、ロイレンはそうやって教えてくれたのだ。今の自分の言動は後天的に磨いたものであって、昔はもっと人嫌いの傾向があったとか。そのふたりはたまたま入学して最初の日に隣の席になっただけの生徒で、けれど、ウィラエの研究室に入ったのも一緒で、将来は同じ道に進むつもりですらあったとか。
そして。
フィールドワーク中の事故によって帰らぬ人となり、共に卒業することは叶わなかった、と。
じっと黙って、リリリアはその話を聞いてくれていた。
だからほんの少し、もう少しだけの気持ちが、ユニスの口から零れてしまう。
「取引って、できないかな」
リリリアが、こっちを見た。
「それは、どういう?」
「あ、その、」
言うつもりはなかった。だからユニスは自分で自分の発言に驚いているし、咄嗟に言葉を紡がなければならなくなる。
「ほら今、言ったじゃないか。博士と滅王は利害が一致しているだけで、目的が同じなわけじゃないかもしれないって。それだったら、そう」
たとえば、と指を振って、
「僕が博士に協力する代わりに、滅王について知っていることを教えてもらうとか。それなら――」
「ダメだよ」
けれど、そんなユニスの提案とは対照的に、リリリアの答えは毅然としたものだった。
「私もユニスくんのその秘法について詳しいわけじゃない。でも、遺体も残っていない人をふたり生き返らせるっていうのは、単に肉体に作用するような効果領域の話じゃないよね?」
「…………うん」
頷いたのは、指摘されたとおりだと思ったからだ。
あの秘法は、たとえば物を元の形に直すとか、そういうものとは一線を画する効果領域まで持つ魔法だ。魔法の発明というのは自然法則の発見と似た面があり、ユニス自身、自分が作り出したその魔法の詳細な効果については、わからないところも多い。それでもきっと、リリリアが言うことは当たっている。
おそらく、肉体すら失われた人を蘇らせようとあの秘法を使えば――
「十年の『時が戻る』。ユニスくん自身、その影響がどんな形になるかは想像が付いてないんでしょ。ロイレンさんもきっと、そんな風に穏やかに話が終わるとは思ってない。だから、滅王の力まで借りて強硬手段に出たんじゃないかな」
遺体や他の何かを媒介に死者の再生を試みるつもりなら、それが一番穏当に思えた。それは最初の実験で自分が確認した、『林檎』に魔法を施す形の、延長にあるからだ。
それができないならば、ロイレンはもっと大胆な手段を取る必要に迫られる。自分に魔法を使い、十年の時を遡り、過去を変えるか。あるいは自分だけではない。世界の全てに魔法をかけて、十年前の『状態』の全てを取り戻すか。
しかしユニスには、その二つの手段の違いがわからない。違いがあるのかどうかすら、わからない。
何せあのとき――あの最高難度迷宮の奥深くで使ったあのときが、意識を持つ生き物に、ひいては自分自身に使った、初めてのことだったから。
自分が時を戻して塗り替えたのが、『自分たち』なのか『世界』なのかも、わからない。
それどころか、最初の実験で時を遡ったのが『林檎』なのか『林檎以外の世界』なのかすらも、今はわからないのだ。
「でも、」
しかし、ユニスは一縷の望みを込めて言った。
「もしかしたらただ、『そのふたりが生きている』だけの、より幸せな世界が手に入るかもしれないじゃないか」
「『それだけの世界』なんてものは、ないと思うよ」
だって、とリリリアが言うのは、やはり優しい声だ。
「『いてもいなくても何も変わらない』人なんて、いないんだから。『そのふたりが生きている』世界っていうのはきっと、いま私たちが生きているのとはずっと、かけ離れた世界だと思うよ」
そしてきっと言葉自体も、深い優しさと思いやりに満ちている。
だからこそユニスには、それはとても残酷なものに聞こえた。
黙りこくってしまえば、もうそれ以上リリリアは何も言わない。ただ背中に手のひらを当てて、心を落ち着かせるように撫でてくれる。しばらくユニスはその温かさに身を任せて、しかし、ひとつの遠い想像に思いを馳せた。
もしもジルやリリリアが死んでしまったとして。
自分は、ロイレンと同じことをしないと言い切れるだろうか?
疑問が心に沈み込んでくる。深い深い、それこそ海の底へと潜っていくように、胸の奥の深い場所へと、その寂しさは取り残されたように落ちてくる。
不安に耐え切れなくなって、ユニスはリリリアの服の袖をぎゅっと掴んでしまう。そのことを遅れて自覚して、何かの言い訳をしようと口を半端に開きかけて、彼女の顔へと視線を上げる。
リリリアが目を見開いている。
「これ、」
指差したのは、操作壁だ。
さっきまでと表示が変わっている。リリリアが自分で動かし方を覚えたらしい。真新しく現れたそのページに、ユニスは同じく目を凝らす。
図形だ、と思った。
その図形の中に、自分がよく知っている形を見つけるまでは。
「地図?」
それは、大陸の形だった。
地図の授業はそれほど多かったわけでもないけれど、ウィラエと会う前のあの学校ですら習った。今でもたびたび目にするし、たとえば自分たちがいるこの南方樹海の突き出した半島状の地形なんか、絵の不得意な人間ですら簡単に描き表せるような、わかりやすい特徴だろう。
操作壁には、そんな大陸が描かれたページが表示されている。大陸の周囲は当然、誰もが知るように海によって囲まれている。
けれどその地図は、決定的に現代のものとは違っている。
大陸が、他に五つもある。
そのどれもが、自分たちの知る唯一のそれよりも、遥かに大きい。
「いや、」
絶対にそんなわけがない、とユニスは思う。
だって見たのだ。子どもの頃に、魔力が暴走したことがある。あのときに自分は星の外側に目を置いて、今自分たちが住むこの星がどんな形になっているかを、はっきりと目にしたのだ。
あれが夢や想像の類だったとは到底思わないし、実際、他の魔導師たちの手によってすでに、この星に大陸がひとつしかないことは客観的に確かめられている。
だったら、導き出される妥当で手近な推測はたったひとつ。
「大陸って、」
リリリアが、代わりにそれを口にしてくれる。
「昔は、他にもたくさんあったの?」
処理完了の知らせが、操作壁の端に現れる。
呆然とする気持ちを抑えながらユニスは次の操作を行うべく壁に指をやる。
そのとき不意に気になって、彼は〈天土自在〉の外を映し出した。




