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12-3 一勝



 何も気にする必要はない、とわかった。

 ただ大きく、足を動かすだけでいい。たとえそれが適切なタイミングでなかったとしても、無理やりそれをどうにかする力が自分たちにはあると、経験則で知っていたから。


 一歩、二歩、三歩で感触が変わる。飛び上がる。身体を支えるものが不意に何もなくなる。ありとあらゆる場所から熱を持った風が吹き込んできて、このままどこまでも落ちていくような感覚。


 見ず知らずの空に舞う。


 四歩目を置く場所が、優しく手を握るように、その場所に現れる。

 五歩、六歩、七歩、歩き方を覚えた子どものように、ジルは躊躇いもなくその空を駆け跳ねる。


 ちかっと視界の端で光るなら、それが合図とわかっていた。


「未剣――」


 剣に、熱が宿る。





 轟音と爆発に喜べたら、どれだけよかっただろう。

 そう思いながら、ユニスはその一瞬の奇襲を目にしていた。


 最後の最後で、ロイレンはユニスにもう一度麻痺毒を打ち込んだ。だからユニスの頭脳の回転は平時よりずっと落ちていて、運動機能もまた、ジルほどの人間が本気で動く速さを魔法なしで捉えられるほどのものではない。だから、目の前で起こるほとんどの動作は本当のところ、ユニスの思考領域に意味ある形で受け取られることはなかった。


 けれど少なくとも、〈天土自在〉の壁が爆発と共に吹き飛んで、その瓦礫と粉塵の中からひとつの影が矢のように飛び出してきたのはわかった。


 ジルだ。

 眼鏡をかけていない。だから視界は相当に悪いに決まっている。一瞬、彼はロイレンの姿を見つけることができなかったのだろう。ほんのわずかに、索敵のために足を緩める。


 それを待っていたかのように、ロイレンが迎え撃った。

 入念に準備されていた無数の魔法矢が、一斉に放たれる。


 その音をこそ、ジルは待っていたらしい。彼の像が揺らいだかと思うと、次の瞬間には低く上体を下げて、床を舐めるかのような動きでロイレンに迫る。


 いくつかの、彼の進路を塞ぐはずだった魔法の矢が、光を放つ壁によって撃ち落される。


 これもまた、ユニスにはわかった。リリリアだ。彼女が用いる神聖魔法の光は見慣れているから、きっとそうだと見ただけでわかる。完全で精密な、自分だってそうはできないような防御の魔法。魔法が持つ威力を完全に殺し切った後、何もなかったかのようにその場所には空気が流れ戻ってくる。


 それを切り裂いて、ジルが走った。

 地を這う剣先が、空へと帰る疾風のように一瞬の閃きを見せる。ロイレンの膝の下から入って、そのまま首までを一線に掻き切るだろう、鋭い剣筋のその始まり。


 もちろん、ユニスにはそんなものを見て取るだけの力は残っていない。

 だからそれは最初の爆発の瞬間に放とうとして、たまたま今になってようやく声になっただけの言葉だった。




「――ジル、殺すな!」




 ジルの剣は、まるで鈍ったようには見えない。

 けれどそのとき、ロイレンの手に銀色の光が宿った。


「外典、」


 それは、巨大な鎚だ。


 鈍色に輝く鎚が、手の中に現れる。ロイレンは全くそれを操ろうとはしていない。どれだけの重さがあるのだろう、星の重力の中で今にも自壊してしまいそうにすら見えるそれを、彼はただ握る手に出現させただけ。持ち上げることもしなければ、支えることもしない。


 ロイレンは、その手を掲げていた。

 だからそれは、たっぷりの力を得て地に落ちていく。


 その途中には、ジルの頭がある。


「――魔鎚!」




 そして彼は、それを避けようともしなかった。




 もう、そこから先に何が起こったのかは当人たちの他に見て取る者は誰もいない。ジルの手が、剣が、弧を描くように動いた。


 地に伏せていた彼の上半身が、ごく自然に持ち上がっていく。その力がそのまま剣に伝わっていく。頭上からは理不尽なまでの力で以て、ふたりの間に横たわる空間を圧し潰すように鎚が落ちてくる。


 ジルは、それに剣を添わせた。

 ほんの小指一本にも満たない程度だろう、鎚の落下軌道にズレが出た。


 鎚はジルから見て左の方向に流れる。彼は剣の柄を握っていた両手を、いつの間にか左手ひとつに持ち替えている。離れた右の手が、踏み込みの推進力を得てさらに前にと進んでいく。


 鎚が地面に触れる。

 途端、さっきの爆音が子ども騙しに思えるような轟音が響く。


 それでもジルの手は止まらない。右の、何の武器も持っていない裸の拳が伸びていく。足、腰、胸、と彼の身体の全てがそれを支えて、真っ直ぐに、それこそ一本の剣のように刺突する。


 ロイレンの胸郭に、それは届いた。

 皮を破る。肉を裂く。骨に達して、さらにその奥をかき分けるような、その瞬間。


 ほんの僅かに、ジルの足元まで揺らぐ。

 一瞬遅れて、床の砕けて舞う粉塵が、弾けるようにその部屋の中に広がった。





「ユニスさん!」

 最初にクラハが見つけることができたのは、茨に囚われた彼の姿だった。


 ほんの数秒にも満たない間の出来事だったと思う。〈天土自在〉が自分たちの目の前に現れた瞬間に、リリリアが神聖魔法によって光る足場を作った。それをジルが踏み越えて、遥かな空に舞う。未剣を以て大塔の横壁を破壊し、一気に踏み込んでいく。その後を今、クラハはリリリアが用意してくれた足場によって後詰めのように到着した。


 全く視界は利かない。

 瓦礫の砕ける音が続いて、一体戦況がどうなっているのか判断が付かない。だからクラハが咄嗟に唱えた風の魔法は、部屋の中心まで進まない。ジルはそもそも眼鏡がないから、彼の戦闘行動においてこの砂塵の及ぼす影響は少ないはず。そのことを思えば、視界を晴らすことでロイレンに利するような行動は取れなかった。


 晴らした中にユニスを見つけられたのは、単なる僥倖だ。

 その僥倖を逃さないように、クラハは彼の下にすぐさま駆け付けた。


「今外します!」

 ロイレンが用意した拘束具ならどれほど硬いものだろうと不安だったけれど、案外と刃物がよく通った。ぎ、ぎ、と何度かの引っ掛かりこそあったものの、何とか彼を解放することに成功する。


 そうしたら、ぐったりと力なく、ユニスは凭れ掛かってきた。


「大丈夫ですかっ」

「クラハさん、寝かせちゃって」

 遅れて現れたのは、もちろんリリリアだ。


 言われたとおりに彼を床の上に寝かせれば、すかさず彼女が横について、神聖魔法による治癒を始める。だからクラハは、すぐに自分が意識を割くべき次の対象へと向き直る。


 部屋の中央、石煙が晴れていく。ジルは、たったひとりでそこに佇んでいる。

 見つめる右手が、真っ赤に染まっていた。


「――やられたな」

「ジルさんっ、」

 呼び掛ければ、眉根を寄せていた彼はこっちを見る。ぶん、と右手を勢いよく振ると、付着していた血液がぱっと飛んで、床と壁に鮮やかな赤いシミを作る。


 よく見れば、彼の手それ自体に傷があるわけではない。

 返り血だ、とクラハが理解したのと同時、ジルが言った。


「神経毒だ。仕留め損ねた」

「ガス?」

 ユニスから目を上げないままリリリアが訊ねれば、ジルは首を横に振って、


「どういう理屈かわからないが、この血に触ってると痺れる。クラハ、洗い流してもらっていいか」

「は、はい!」


 クラハはすぐに動き出す。荷物の中から水筒を取り出して、彼の腕に水を掛ける。一度、二度、ジルが手を握ったり開いたりを繰り返す。確かにどこか、違和感のある動きには見えた。


「すまん、リリリア。かなり深くまで踏み込んだつもりだったんだが、最後に力が逃げた」

「ロイレンさんは?」

「下だ。外典魔鎚……やたらに重いハンマーで床を砕いて落ちた」


 落ちるのは俺の得意技だと思ったが、とジルは呟いて、


「意識があるか、逃走経路があるかはわからない。追撃するにも視界が悪すぎて思い切れなかった。腕をダメにしてでも剣で仕留めに行くべきだった。俺のミスだ」

「ううん、大丈夫。こっちの拠点から即座に追い出せたのだって大きいから。ユニスくん、どうかな。これでちょっとは身体が動かない?」

「う……く、」

「よしよし。大丈夫そうだね。ジルくんも、気にしなくていいよ。さっきの奇襲に対応できたってことは、向こうも用意はしてたってことだろうから。体勢を整えてから改めてもう一度追おう」


 了解、と答えて、


「クラハ、ありがとう。痺れは消えてきたから、もう大丈夫だ」

 彼は腕を引く。

 だから今度は、クラハもさらに次の仕事に取り掛かることになる。


「リリリアさん。私が先行して追跡しましょうか。それとも、他に優先してやるべきことがありますか」


 自然、訊ねる先にはリリリアを選んだ。

 なぜと言って、ユニスはまだ壁に背を預けてぐったりしたままだし、ジルは眼鏡がないために現状の情報を取りまとめるのに苦があるだろう。そうなれば方針決めは自分かリリリアかのどちらかに委ねられる。


「必要なら、どのルートを通ったかを皆さんがわかる形で残しながら、ロイレンさんを追うこともできますが」

「行くならジルくんと一緒に行ってほしいんだけど……ちょっと待ってね」


 そして、ふたりのうちでどちらに大きな決定権があるかといえば、リリリアなのだ。外典魔装の名がとうとう出てきた以上、彼女より広く状況を把握できる人間は他にいないだろうから。


 リリリアがユニスの背に手を当てる。光が彼を包んで、ほんの僅かに唇が動く。


「あり、がとう。何とか、動けそうだ」

「もうちょっとしたら楽になると思うからね。でもごめん、先に教えてもらっていいかな」


 声を張り上げなくてもいいようにだろう。リリリアはユニスに顔を寄せて、


「もしわかるなら、聞かせて。ロイレンさんはここで何をしてたの? 目的は何?」


 ユニスの目に、少しずつ光が戻ってくる。

 理性の灯だ。リリリアの解毒の力が彼の指先に、足に、胴に、それから頭に回っていく。けほ、と舞い上がる粉塵に彼はひとつだけ咳をする。


「博士、は」

 もっとも重要なことを、彼は教えてくれた。




「時を、戻そうとしている。

 秘法は盗まれて――後は、魔力だけだ」






「化け、物だな」

 力ない動きで、その魔導師は壁に肩をぶつけた。


〈天土自在〉のずっと地下だ。塔の内部を縦に貫く大穴が空いて、その穴が続く限りではもっとも底に当たる場所。魔導師は積み上がった瓦礫の中から這い出すと、ふらふらと満身創痍のまま、外へと続く道を探して歩いている。


 だくだくと、押さえた胸の傷からは血が溢れ出していた。

 血の痕を床に流しながら、荒い息で彼は呟く。


「四千、と」

 それは腕を犠牲にした攻め手によって、剣に胸を刺し貫かれた回数。


「二千七、百」

 それは魔鎚による床の破砕が間に合わず、逃走すら能うことなく地に伏した回数。


「加えて、三、千」

 それはあの混乱の中で床を崩落させてなお、猟犬のごとき嗅覚で迫る剣士の手に、その腕を取られた回数。


 いくつもの数字を数えながら、魔導師は行く。

 腰元から取り出した薬品を口に含んで、胸に浸して、ずるずると足を引きずるようにしながら、壁に支えられるようにしながら、彼は進んでいく。


 足し上げた数字のことは、途中で忘れてしまった。

 きっと、万は下らない。一つや二つ、桁は上がってしまうかもしれない。けれどやがて、魔導師の歩みは確かなものになっていく。最後に浮かべた曖昧な数字の単位に、『敗』の文字を刻み込む。


 外に出ると、真夏の明るさだ。

 目も眩むような光の中、銀色の髪を揺らして魔導師は、とうとう胸から流れ落ちる血を止める。


 空に願いを掛けるかのように、顔を上げる。

 そうして微かに口の端を釣り上げて、掠れた声で、最後の数字を言葉にした。



「一勝、掴んだぞ」



 その眩い光の中に、魔導師は踏み出す。

 手には、約束のように杖が握られていた。



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