12-1 協力してくれますか
「大丈夫か? どこか違和感があったりはしないか?」
これは絶対に自分が言われることじゃない、とクラハは思った。
が、その心配を一番に向けられるはずの当人はといえば、どういうわけなのかすっかりけろっとしている。リリリアによる治療の効果もあるには違いないが、傷を負っていた様子すら見て取れないというのは、一体どういう仕組みなのか。
「はい。私は大丈夫です」
「もし何かあったら、道中でもいいから気軽に言ってね。気管ももちろんだけど、目もデリケートな場所だから。ジルくんも」
ああ、と頷いて、樹海の真ん中に座り込んでいた。
先ほどまでのあの嵐のような炎は、すっかり収まっている。収めたのはリリリア。それに加えてふたり分の治療まで終えたというのに、やはり彼女もジルと同じくけろっとした顔をしている。
力の差だ、とクラハは思うけれど、これほど一緒にいて頼りになる人たちもそういない。自分なりにこの場でできることをやっていこうと、まずはそう考えて、
「動き出す前に、状況を少し整理させてもらってもいいですか。〈天土自在〉に向かうにしても、どういうルート取りをするか、どのくらいの速度で移動するか考えたいので」
一旦、と言えばジルは首を動かす。
明後日の方向を見ているから、何だろう、とクラハは不思議に思う。思っていると、すぐにリリリアがその意図を察した。
「ジルくん、〈天土自在〉はあっちね」
「……どっちだ」
「こっちだ」
ジルの手を取って、リリリアが〈天土自在〉の方角を指差す。
これは、とクラハは内心の陰りを抑えながら訊ねた。
「眼鏡がないと、やっぱり移動は厳しいですか」
「かなりな。言われたら確かに何かあるなとは思うんだが、遠近感もないし言われてみないとわからない。……手、もういいです」
はい、とリリリアが手を離して、それからジルは今の会話を契機に話し始める。
ロイレンに毒を盛られた、と。
「それでユニスが攫われた、と思う。近くにはいなかったんだよな?」
「うん、いなかった」
「今の話しぶりだと、〈天土自在〉に行ったのか?」
「確証はないけど、他に思い付かないから。少なくとも私たちが同行した限りでは、樹海の奥にあるいかにもな場所ってそこくらいだったでしょ? もしこれで樹海に詳しいロイレンさんだけが気付けた何かがあったなら、それはもう手を上げるしかないよ」
お手上げ、とリリリアが手のひらを見せる。なるほど、と膝の上に手を組んで、考え込むようにしてジルは応えた。
「あの、一ついいですか」
そしてクラハもまた、手を上げる。上げた先は、ここまで同行してくれたリリリアへ。
「うん? 何?」
「結果がある程度出てから訊こうと思っていたんですが、リリリアさんはどうしてロイレンさんがこうすることを見通せたんですか。正直なところ、私は今でも……」
信じられない、と思っている。
ジルから実際にそうされたという話を聞いてもなおクラハは、ロイレンが彼に危害を加えようとしたという話を、心の全てで受け入れることができずにいた。
確かに、短い間ではあった。けれどそれなりに上手くやれてきたはずだと思っている。樹海に踏み入るときだけではない。研究所で次の探索に向けての休養を取っている間だって、自分たちはこの夏の間を慣れ親しんできた。そう思う。
だから、クラハは訊ねる。
「もしかして、外典魔装の気配を感じ取っていたんですか?」
思い返すのは、ゴダッハのことだ。
中央の国の、最高難度迷宮に挑んでいたあのSランク冒険パーティ〈次の頂点〉のリーダー。クラハは所属時期の問題から彼の本当の姿をそれほど知ってはいないが、古くからいた者は皆言った。変わった。操られた。全く違っていた。
外典魔装。
古き時代の滅びの王――滅王が使っていたと言われる十三の武装。それによって、心を乗っ取られていたと。
それ以外に、あの温厚なロイレンがジルに危害を加える理由なんて、思い付かない。
「だったら二回目だな」
ぐ、と首を押さえてジルが言う。すまん水あるか、と訊ねられるから、クラハはすぐに準備していた水筒を差し出す。一度はその手が空を切ったのを見て、少しの不安が頭を過る。
そして、その水筒を受け取ってからもしばらく、ジルは動きを止めていた。
「今、警戒してる?」
リリリアが訊ねると、ジルはゆっくりと頷いた。
「信じてないわけじゃないんだが、あれがあった後にもう一度無防備に貰ったものを飲むっていうのも気が引ける。悪いな、クラハ」
「いえ。私も結構、そういうことはしていますし」
「え、」
「私もしてるよ。匂いを嗅いでから飲んだらいいんじゃない? 無味無臭の毒かもしれないし、私たちだって声を変えてるだけで本当は全然別人かもしれないけど」
じっ、とジルは水筒を見つめる。
それから本当に匂いを嗅ぐと、ごくりと勢いよく傾けた。
「もう一回毒を盛るつもりなんだったら、さっきの俺を助けたりしないだろ。放っておけばそのまま死ぬんだから」
「樹海が焼けると困る人が、とりあえず助けてみて後からとどめを刺そうとしてるのかも」
「そのときはまた樹海を焼いてもう一回助けてもらうよ」
樹海には悪いが、と。
ジルは着替え終えた上着の袖で、口元を拭った。
「それで。クラハの言うとおり、ふたりが来てくれたのは外典魔装の関係なのか」
「他人の意思を操れるくらい強い出力を伴っているんだったら、〈天土自在〉を見つけるまでの調査中に感じ取れたと思うな。あんなに近くにいたらね」
怪訝な顔をしたのは、クラハとジルで同時だった。
だって、その言いぶりでは、
「ロイレンさんは、自分の意思で滅王に協力しているということですか」
リリリアは、答えなかった。代わりにジルが、その質問を補ってくれる。
「滅王関係とも限らないんじゃないか。怪しいのはわかるが、ロイレンは一言もそんなこと喋らなかったぞ」
「そうなんですか?」
「一応。意識が朦朧としてたからうろ覚えだけど、倒れ際に聞いたのは毒を盛ったってことと……」
ジルの顔が僅かに歪む。どうしたのかと覗き込むが、彼はそれに気付かない。少し間を空けて、自分から口を開いた。
「『友情なんてこんなもの』とか、そんな感じのことを言ってた」
最初から計画していたのかもしれないな、と。
幾分さっきの気分から落ち着いてきたのだろうか。ジルは静かな声で、しかし自分と同じなのだろう。どこか現実味を感じられていないような曖昧さで、そう零す。
一方で、リリリアはそれを聞いても何も応えない。
ただ、彼女は立ち上がった。
「私がここまで来たのはね、ただの勘だよ」
いつもよりも真剣な口調でそう言って、
「たまたまそれが当たっただけ。外典魔装や滅王との関わりがどうなっているかは、ごめん。教会の人間なのにどうなんだと思うだろうけど、少なくともこの距離からは感じ取れない」
でも、と続ける。
客観的な状況から、と。
「妥当らしい推測を導くことはできるよ。まず、ジルくんを排除したのはジルくんがいると都合が悪い……つまり、止められるようなことをするつもりだから。そしてユニスくんがジルくんと同じように排除されず連れ去られたのは、そうする必要があったから」
必要って、とジルが訊ねる。
リリリアが、その推測を口にする。
「魔法か何かに、利用するつもりなんじゃないのかな。
その利用の場にふさわしい場所があるとしたら、私は〈天土自在〉――先史文明が残した、エネルギー施設だと思う」
†
「そこまで自分の肉体を操作できるのか」
火の消えた樹海が、管理室の壁面には大映しになっている。
ぎ、と椅子の背もたれにロイレンが体重を預けて、銀色の髪をかき上げた。
「馬鹿げてるな。体系的な魔力コントロールを学んだわけでもない人間が、ただの肉体操作だけであれほどの発熱を――樹海のあの難燃性の木々すらも燃え散らすほどの発火現象にまで届くものなのか」
「博士、もうやめてくれないか」
少しずつ、ユニスは意識をはっきりと取り戻しつつある。しかしそれにつれて、むしろ自分自身の不調が浮き彫りにされつつもある。
今はもう、隙を見て魔法を放とうとも思わない。なぜと言って、その程度の抵抗は今のロイレンには――外典魔杖を手にした彼には通用しないとわかっているから。
本調子ならばともかく、相手は外典魔剣〈灰に帰らず〉と同格。つまり、あの最高難度迷宮を踏破したジルが、ゴダッハというSランク冒険者の抵抗があってなお、互角の勝負を演じたほどの武装なのだ。
あらゆる魔法が無効化され、攻撃も、束縛からの解放も叶わない。
だからもう、ユニスにできることは説得の他になかった。
「やめる?」
ロイレンが答えた。
彼の頭は、まるでこちらには向かない。外の様子を壁面に投影して観察する一方で、彼は〈天土自在〉に対する操作も続けている。膨大で、次々に切り替わる言語を右へ左へ、あるいは同じものを表示したり、また全く違うものに対して何らかの魔力的な操作を加えたり。ユニスはその操作壁に表示されている古代言語を読み取ることができないから、実際にどのようなことを彼が試みているのかはわからない。
「間に合わないんじゃないのか」
しかし、表層的な部分ならば、理解することができる。
ぴたり、とロイレンの手が止まった。
「鎌かけですか」
「後ろから見ていたんだから、そのくらいのことはわかるよ。博士はさっきから、ときどきそうやって手を止めている時間があるよね」
それは、とユニスは言う。
どうしようもない時間なんじゃないか、と。
「博士が行った操作を〈天土自在〉が処理するまでに、時間が掛かっているんじゃないか。これほど大きな装置だ。魔力の移動はもちろん、魔力が関わらない物理的な部分の稼働にだって時間が掛かってもおかしくない」
ロイレンの手は、動くときはずっと淀みなく動いている。
しかし、ここに来てからどのくらいの時間が経っているだろう。少なくとも一夜は明けていて、その間に彼がただ眠っていただけとは考えづらい。それだけの時間を作業に費やし続けて、なおもその手が動き続けるというのなら、
「博士がやろうとしていることを達成するまでの間に、ジルたちが駆け付けてくるんじゃないのか」
鎮火した樹海を示唆しながら、ユニスは言った。
「ジルは生き残ったんだろう?」
ロイレンは答えない。
「博士が作り上げた渾身の毒は、ジルには効かなかったんだ。その上、あれだけの火事を短時間で収め切れたのはどう考えても彼だけの力じゃない。リリリアかウィラエ先生、どっちかが来てる」
確信を口にしたけれど、本当にそうなのかは実のところ、ユニスにはわからない。
ジルがあの火災を起こしたこと――信じがたいが、自分の身体の中に眠る熱量を以て体内に入り込んだ毒を焼き切ったこと――までは、ロイレンの発言もあって確かなことだと言えるのだ。しかし、火災が収まったことについては、多くの〈魔力スポット〉を擁する南方樹海に何らかの防衛反応が起こったなど、他の理由を考えることもできなくもない。
何より、どうすればふたりが事態を察知して、いち早くジルの下まで助けに行けたのか、そのことがさっぱりわからない。
しかしそれでも、ユニスはそれを説得材料として使う。
「ジルと真正面からやり合おうとは、ロイレン博士だって思ってないんだろう? そこに他の誰かが加われば、一層勝ち目はないよ。……投降してくれ、博士」
どうしてこんなことになってしまったのだろう?
少しずつ意識が明瞭になるにつれて、ユニスはそう思わずにはいられなくなっていた。
理由がわからないのだ。ロイレンがここまでのことをしている動機が。裏切られて傷付いたとか、そんなことを考える段階にもまだ至れていない。外典魔装による侵食を受けて操られているのかと思えば、本人曰くそんな様子もない。
だからユニスは、もう一度訊ねるのだ。
「一体君は、何がしたいんだ?」
沈黙が降りる。
ロイレンはしばらく、黙って操作壁を眺めていた。何らかのメーターが光として表示されているのが、ユニスの目にも見えている。それは遅々として進まず、ジルがここに辿り着くまでの時間に満ちうるのか、少なくともユニスにはわからない。
「三つ」
と、ロイレンが片手を上げた。
「君に言うことがあります」
一つ、と彼は指を立てて、
「間に合わないと君は言いましたが、微妙なところです。あの熱ではジルさんの眼鏡も無事ではないでしょうし、増援がリリリアさんだけならわからない。あのふたりの方向感覚のなさ――というより、外界に対する興味のなさと言い換えましょうか。そういうものは、一緒にいて感じ取るところでしたから」
いいや、とユニスは反論の言葉が浮かんでいる。
リリリアだけが増援ということは、まずない。彼女ひとりではこんな樹海の奥深くまでは辿り着けないはずだ。リリリアが来ていた場合、少なくとも誰かが傍付きとして同行しているはず。
しかし、彼はそれを飲み込んだ。
三つと言うからには、三つ分の手掛かりが期待できるのだから。わざわざここで、自らに与えられる情報を失う理由はない。
「二つ」
ロイレンが、もう一つ指を立てる。
そして驚くべきものを、ユニスは見た。
「それは……」
「ジルさんへの対抗手段が全くないかと問われれば、その答えは『いいえ』です」
それは、『二本目』だ。
彼はそれを、ただ指先に付けた糸で釣り上げるかのように、ユニスの視界の外から引き出して見せる。くるり、と手首が返ればそれはどこかに消えてしまって、
「三つ」
とうとう彼は、こっちを向く。
それで初めてユニスは、もしかすると自分は今、取り返しのつかない状況にあるのではないかと心が揺れるのを感じた。
恐ろし気な顔をしているわけではないのだ。むしろその逆。ロイレンは、この夏の間にずっと見せていたようなあの穏やかで理知的な表情を、今のこの時に至っても保ち続けている。
「試す前から諦めてしまうのは、確かに姿勢としては褒められたものではありませんね」
そのことが、強い違和感となってユニスの心を襲う。
自分は今、何と向き合わされているのだろう?
「私は滅王の力こそ利用していますが、彼の本来の目的とは遠い場所――その通過点をこそ目的として動いています。もしかしたら君も、その『通過点』までであれば、同調してくれる余地があるかもしれない」
試してみましょう、とロイレンは立ち上がった。
一歩、また一歩とユニスに近付く。目線を合わせるように、床の上に膝を突く。そのひとつひとつの動作の丁寧さが、全く彼に抱いていた印象から外れていない。
じゃあ、今まで。
自分はこの人の、何を見ていたのか。
「ユニスくん。こんな目的を聞いたら、君は私に協力してくれますか?」




