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11-3 はい



 ぱち、とユニスは瞼を開いて目を覚ます。

 ひょっとするとこのまま寝たふりを続けていた方がよかったかもしれないと思える程度には、思考は回復を始めていた。


 あたりをぐるりと見渡す。

 状況に変化はなかった。〈天土自在〉の制御室。自分が生まれるより遥か以前、しかし自分より多くのことを知っていただろう人々が作り上げた古い部屋。


 ロイレンは、変わらずその制御情報を操っている。

 じっ、とユニスはそれに目を凝らした。


 魔力を引き出す、と言っていたことを覚えている。

 ならばその引き出そうとしている量は――と、


「二度目のお目覚めですね」


 思ったところで、背中を向けたまま、ロイレンが口を開いた。


「もう一度言いますが、今度こそ動かない方がいいですよ。また眠りに就いて、時間を無駄にしたくはないでしょうから」

「…………」

「ええ。そうしてくれていると助かります」


 ユニスは、自分の調子をひそかに確かめてみる。

 魔力は元から大して減っていない。問題はそれを扱う思考能力の方。十全とは言えないが、しかし大抵の魔導師には劣らない程度には戻ってきたと、そう思う。


 けれど、問題は。


「――魔杖」

「気になりますか」


 滅王の遺した、十三の外典魔装のひとつ。

 それをロイレンは、操作壁から両手を離さないまま、足の先で小突いた。


「まさか、」


 一縷の望みをかけて、ユニスは訊ねる。


「精神を汚染されているのか、博士」

「本当に『まさか』ですね」


 ふ、と鼻で笑うようにして、ロイレンは答えた。


「確かにかなり扱いの難しい――触れれば死ぬまで魔力を吸い取ろうとしてきて、精神支配までかけてくる――杖ですが、所詮は道具です。……ああ、魔剣の保持者は思い切り食らってしまったんですっけ」


 災難ですが、と。

 ロイレンはその古木のような、あるいは枯れ枝のようなそれを器用に蹴り上げると、左の手で取った。


「私はその方と違って不意打ちでこれを手にしたわけでもありませんし、何より多少の魔法の心得がありますからね。この程度のものには食われません」


 こんな風に、と言えば。

 確かに彼は、その杖を操って小さな光の魔法を放ってみせた。


 ぎ、とユニスは歯噛みをする。

 さっき、再び意識を失う前に見せたあの魔杖の力。あれが健在であるなら、ここで立ち向かうことに意味はない。まだ複雑な魔法を扱うための思考能力は戻っていないし、無駄な試みで時間を空費するのは、今の状況では許容できない。


「それなら、どうして滅王の側についているんだ」


 だから、対話を続けることにした。


「何が目的なんだ、ロイレン博士。そもそも滅王は――君たちは、何が目的で動いているんだ」


 ぴた、とロイレンの手が止まる。

 こっちを見ないままで、彼は言う。


「それを教えたら、私のやることに協力してくれますか?」

「…………」

「そんなことはないでしょうね。短い間でしたが、傍で見ていたからわかりますよ。ユニスくん、君はひねくれたところのないとても良い子です。『何となく正しい』と多くの人が思うことを『確かに正しい』と追認して実行することができる。そんな君がウィラエ先生の下で健やかに育ってきた以上、滅王の思想に同調することはないでしょう。たとえそこに私のように――」


 ぱち、とロイレンの手が動いた。

 数字の羅列が、操作壁に現れる。


「『利害の一致』という言葉を、見出したとしても」

「――博士、」


 その数字に、ユニスは。


「なんだ、その供給魔力量……。〈天土自在〉にこんな――隠されていたのか? おかしい、こんな、」


 思わず、叫んだ。





「ありえない!

 その表示魔力量は、大陸全土のインフラ魔力を遥かに上回っている!


〈天土自在〉とは何のための、いや、こんな魔力量を何のために――!」





 ロイレンが振り向く。

 彼の口が開く。数度のやり取り。質問にまるで逃げることもなく答える。


 ユニスの目が、大きく開く。

 その直後のことだった。


「……なんだ?」


 ロイレンが、再び操作壁に向き直る。

 右へ、左へ。すでにこの古代言語によって記された操作環境を熟知しているのか、彼は迷いのない手振りでそれを行う。


 操作壁が切り替わり、大映しになる。

 そこに現れたのは、〈天土自在〉の外の景色。


「おいおい、」


 燃え盛る樹海。

 目にした光景に、ロイレンが呟いた。



「本当に人間か?」






 痛い。


 痛い、痛い、痛い、痛い!




 もうどれだけ、この苦痛に耐え続けていることだろう。

 何時間、何日、何ヶ月――あるいは何秒? 崩壊する意識の中で、精神から遊離したような自動的な思考の中で問い掛けている。


 痺れなんて、生易しいものじゃなかった。

 単なる痛みなんてものでも、きっとない。


 始まりの朦朧は、本当にただの始まりでしかなかった。

 泥の中に鼻と口を塞がれて、それでもなお身動きすることのできなかったあの奇妙な感覚の麻痺――それからこの身体を苛み始めた苦痛は、おそらく知覚できている以上の破滅的な効果を持っている。


 綿埃に、濃酸を垂れ落とすような。

 氷床に、溶けるほどに熱された金属をぶちまけるような。


 口、食道、胃、渡って腸。

 一体なぜこれほどのものを、何の違和感もなく体内に取り入れることができたのかわからない。肉体など所詮は外物によって容易く変形可能な脆い物体でしかないと思い知らされるような、強烈な力。


 そしてこれは、不可逆な変更だ。

 一度変化が終わってしまえば、もう二度とは戻らない。その直感が何度も何度も、ろくに働いていない思考に突き付けられる。傷ができて、塞がるのとは違う。骨が折れて、繋がるのとも違う。この毒が回り切ればもう、肉体は元には戻らない。


 本のインクが溶けて、水に流れるように。

 古い建物が風に壊れて、焼け落ちるように。


 ぐちゃぐちゃに潰れた頭が。

 啄まれるか、土の上で腐るかしか、選択肢がないように。


「――――!」


 だから、叫んだ。

 ずっとそうしてきたように、彼は。



 殺されるよりも先に、こいつを殺してやろうと、そう思った。






「――っ、」

「口塞いで! クラハさんはそこで待機!」


 言われるまでもなく口を、それから鼻を塞いで立ち尽くす羽目になったのは、そこに異臭が立ち込めていたからだ。


 灰と煤の臭いだけではない。何か、本能的に身の危険を感じるような臭気。鼻が曲がるどころの話ではない。肺の中にほんの数呼吸分でも侵入すれば、そのまま手足に行き渡り、指先までボロボロと黒く腐らせてしまうだろう。そんな想像さえ瞬時に浮かぶような場所。


 そして実際に、周囲の木々と土壌は、ぐずぐずと腐り果てている。

 立ち込めるのは、おそらく黒煙だけではない。強い毒性を帯びたガスが混じっている。




 真っ黒な獣のような姿をして、ジルはその真ん中にいた。




 クラハは言葉を失っていた。彼は何も叫んではいないのだ。だというのに、耳に、肌に、びりびりと突き刺すような何かが響いてくる。地面の上に座り込んで、俯いて、下がった前髪の奥には罅割れた唇と、どれほどの力で食い縛られているのだろう、煤けた歯が覗く。


 歪んで見えたのは、熱のせいだ。

 この森を焼く炎は全て彼から放たれたものだと、そこで初めてクラハは気が付いた。そして、それに気が付けば一気に全ての状況が見えてくる。


 毒だ。


 リリリアからこの樹海への突入を持ちかけられたとき、クラハはひとつ、強い疑問を持った。本当にロイレンが滅王に与していたとして、どうやって傍に付いているジルを排除するのか。その答えが今わかった。強烈な、それこそ気化してしまえば周囲一帯を土ごと腐らせてしまうような毒。


 ジルは今、それを自らの中から追い出そうとしている。

 身体に膨大な熱をたぎらせることで、それを血液から、臓腑から、あらゆる肉の至るところから蒸発させようとして――それが結果として、森を焼く炎と化した。


 指先が、髪が、そして彼と世界とを切り分ける肌の全てが。

 ふつふつと、到底生き物の中には収まり切らないような、激しい熱を帯びている。


「頑張ったね、ジルくん」


 しかしリリリアは、まるでそんなもの目にも入らないように、彼に近付いていくのだ。


 決して、風を切るような颯爽とした足取りではない。腐り落ちた大地の上を、焼け爛れた木々の間を、一歩一歩、彼女はただ進むのだ。


 それはクラハの目には、荘厳な儀式のようにすら映った。

 荒ぶる力と炎の奔流の中を、しかし髪の一筋すら炙られることなく、聖女は行く。瘴気を、熱を、真っ黒な煤の上を流れる透明な滴のように、歩いていく。


 真っ黒な獣の前に立つ。

 そして彼女は、子どもを慈しむように膝を突いて、その背に腕を回した。




「大丈夫。守ってあげる」


 瞬間、目も開けていられないくらいの灼熱が溢れた。




「――――っ!」

 クラハは、何かを言おうとした。

 自分でもそれが何の言葉だったのかわからない。ただリリリアの名を呼ぼうとしたのかもしれない。あるいはああして意識を失っているジルに、目を覚ましてと叫びたかったのかもしれない。


 それとも「死んでしまう」と、リリリアに伝えたかっただけなのか。

 いずれにせよ、声を出すためにと開いた喉は一瞬のうちに焼けてしまって、形を得る前に言葉は消えてしまう。


 見ていた。

 ジルから放たれる叫びのようなものが、一層強くなるのを。彼を抱きしめるリリリアが帯びたほのかな明かりが、信じられないほど美しくて、優しかったのを。


 ジルの爪の先が、リリリアの首の後ろに向かっていく。

 その動きが、ぽん、と彼女が彼の背中を叩いた途端に、ぴたりと止まったところを。


「――あ、」

「もう大丈夫だよ。怖かったね」


 リリリアは、何度も優しくジルの背中を叩いた。その一つ一つが、彼の目に正気を戻していく。


 そして、それは樹海に対してもだ。

 クラハはそれを、奇跡以外のどういう言葉で表したらいいのかわからない。火が、炎の嵐が、どんどんと消えていくのだ。それどころか、あの毒に冒された土壌までもが、彼女の手が一つ、二つ、と音を鳴らすたびに元の姿を思い出していく。


 自分の顔にあった、煤の感触すらも消える。

 ジルもまた真っ黒な獣から、よく見慣れたあの青年の顔立ちに、戻っていく。


 目が合ったような気がした。

 彼の眼鏡はもう、熱の中で溶け落ちてしまった。だからきっとこれは錯覚だと、クラハは思っている。


 そしてきっと、本当の意味で正気になったわけではなかったのだと思う。

 だってどっちかだけでも本当だったなら、彼はきっとそんなことは口走らなかったはずだから。


「――殺す」

 ぎょっとするような、低い声だった。


 消えたはずの熱が、しかし今度はもっと精度を研ぎ澄まして現れたように思えた。彼の手が土を抉る。ほんの一跳びの間合いに獲物を見つけた獣のように、ジルが素早く立ち上がろうとする。


「ダメです」

 ぐい、とそれをリリリアが容易く抑え込むものだから、クラハは目を疑った。


 ぎ、とジルの身体が軋むように動いたところを見れば、ただ言葉だけで止めたわけでもないらしい。神聖魔法による力の増強を上手く使ったのだろうか。傍目には全く見て取ることはできないけれど、しかしとにかく、リリリアはジルの動きをそれで一時的に止めて、


「剣もなければ眼鏡もないでしょ」

 一言付け加えて、完全に留まらせる。


 ジルはそれに視線を動かすだけで、何も言わない。まだ混乱していて、他の言葉を取り戻せていないのか。その隙間に差し込むように、さらにリリリアは続ける。


「剣は借りなきゃいけないし、眼鏡がないなら……あってもだけど。道案内もしてもらわなきゃいけないでしょ。それにほら、気付きなさい」


 言って、こちらを振り向いた。

 驚いて背筋が伸びる。しかし彼女はそれを気にしないで、


「こうやって助けにきてくれたクラハさんが、今どうなってるのか。さっきの炎で喉も目も焼けちゃって」


 言われて、クラハもようやく気が付いた。

 喉だけではないのだ。確かに、さっきから目に奇妙な感覚があるような気がする。防護の魔法をしっかり張ったつもりだったけれど、それでも足りなかったのか、それとも熱量ではなく光量のあまりに瞳が焼き付いてしまったのか。


「まさかジルくんは、そんなクラハさんに『治してる時間はないから早く行くぞ』なんて言わないよね?」


 二秒。三秒。ジルの視線が泳いでいる。

 戸惑ってというわけでもなさそうだった。本当に、頭のない魚が水の中を漂うような泳ぎ方だ。どこかに浮かび上がってしまった魂を、そうとも知らぬままに探しているようでもある。


 しかし、やがて。

 その焦点が合って、彼は言うのだ。


「はい……」


 頼りになるなあ、とリリリアは笑った。



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