32.画竜昇天
そのまま離宮で一泊し、明け方、霊亀の硯を應劉から貰い受けて龍居城へと戻って来た麒煉と章絢は、前皇帝、劉章が今朝方、倒れたと聞き、今度は父が居る東の離宮へとやって来た。
案内の者を追い越して、慌てて劉章のいる室へと向かった二人は、起き上がって粥を口に運んでいる父親の姿を目にして、一気に身体の力が抜ける。
「父上!」
「思ったよりもお元気そうで、安心いたしました」
「麒煉に章絢。来てくれたのか……」
劉章は、息子達の姿が目に入り嬉しそうに顔を綻ばせた。
「ええ」
麒煉と章絢は頷きながら、劉章の傍に寄った。
粥を食べるのを止め、散蓮華(レンゲ)を盆に置いた劉章は、寝台から出ようとしたが、二人に止められ、寝台に横になって話すことになった。
心配性な息子達に苦笑しながら、劉章は口を開く。
「政務の方は大丈夫なのか?」
「お気になさらず」
そう言った息子達の立派に成長した姿に、安心したように劉章は目を細めた。
「そうか……」
麒煉は周囲を見渡しながら、「母上は?」と、劉章に尋ねた。
「眠っておるそうだ。突然倒れた私に動転して、気を失ってしまったらしい」
劉章は、困った顔をしてそう答えた。
それを聞いた麒煉も、困ったような表情になる。
「そうですか……」
「後で見舞ってやってくれ」
「分かりました」
劉章の頼みを、麒煉は素直に受け入れた。
「何故、お倒れに?」
「倒れた原因は?」
章絢と麒煉に、ほぼ同時に尋ねられた劉章は、辛そうな表情を浮かべた。
「恐らく呪が原因だ」
劉章の答えに、二人は目を見開く。
「祓われたのではなかったのですか!?」
「もちろん、天帝に教えていただいてから何度も祓って来たのだが、祓っても、祓っても、無くなることがない。ずっと呪に蝕まれている。随分と多くの者に恨まれているようだ」
そう言って、自嘲する劉章に、麒煉と章絢は苦悶の表情を浮かべる。
「そのような……」
「これもまた、私の天命なのであろう」
「父上……」
諦観した様子の劉章に、麒煉と章絢は、掛ける言葉が見つからなかった。
「私は、このような罪深い身で、随分と優れた子に恵まれたものだ。最早、憂いも思い残すことも何もない。ただ、この身が果てるのを待つだけだ……」
劉章はそう言って、瞼を閉じた。
「父上!?」
「章絢。眠っているだけのようだ」
慌てる章絢に、冷静に麒煉が言った。
「そうか」
麒煉の言葉で、章絢は落ち着きを取り戻す。
「だが、長くはなさそうだ……。きっと、俺達に心配をかけないように、随分と無理をして隠していたのだろう」
「ああ。こんなに酷くなるまで……」
麒煉と章絢は、窶れ果て、浅い呼吸を繰り返す劉絢を痛ましそうに見遣った。
その日は、離宮に泊まった二人であったが、政務もある為、劉章の容態が安定しているのと、劉皇太后が元気になったのを確認し、翌朝には龍居城へと帰って行った。
−−数日後、麒煉は机の上に、今まで集めた龍の昇天に必要な道具やその材料を並べ、章絢と話をしていた。
「残りは、『麒麟の膠』、か……」
「そうだな……」
麒煉の呟きに、章絢が相槌を打つ。
「それにしても、麒麟と出会うのさえ難しいと言うのに、その膠とは……」
「全く……。仁の獣である麒麟を傷つけるなど、天帝の逆鱗に触れ、自ら国を滅ぼすようなものではないか」
膠を作る為には、麒麟の骨・皮・腸などを水で煮て、コラーゲンやゼラチンなどの成分を抽出する必要がある。
「国を守る為に龍を昇天させたいのに、その過程で国を滅ぼしては本末転倒だな」
「では、どうする? 泰潔からは、何も連絡がないのか?」
章絢の問いに麒煉が答える。
「ああ。取り敢えず、何も分からなくても、午後から登城するように伝えてある」
「そうか」
そこへ、急いだ様子の浩藍が遣って来た。
「陛下。先程、離宮の方から連絡があり、前皇帝の容態が急変し、明日まで保たぬやも知れぬと……」
「そうか」
「離宮へ行かれますか?」
「いや。傍には母上が居られる。俺は、俺のすべきことを成さねば、父上にも顔向け出来ぬ」
「そうですか」
麒煉の答えに、浩藍は満足そうに頷いた。
午後から、泰潔だけでなく、彼と一緒に画院にいた師君と子淡、そして洸も、麒煉の室へと遣って来た。
「泰潔。何か新たに分かったか?」
麒煉は早速、泰潔に質問した。
泰潔は、麒煉に頭を下げる。
「申し訳ありません。麒麟の膠については、『聖人の許に麒麟が現れ、膠をお与え下さった』との記述しか見つけることが出来ませんでした……」
「そうか……」
皆一様に肩を落とし、残念そうな顔となった。
「このまま、ただ麒麟が現れるのをずっと待っている訳にも行かぬのであろう?」
師君の問いに、麒煉が答える。
「そうですね。麒麟の膠以外全てのものが揃った今こそ、龍の昇天の好機であると私の勘が告げております」
「そうか。お主の勘は当たるからのう」
師君は、顎髭を撫でながらそう言い、思案する。
「麒麟の膠を手に入れる、何か良い方法が無いものか……」
「一つ、試してみたいことがあります」
麒煉の言葉に、皆が顔を寄せる。
「何か方法があるのか?」
章絢は、期待を滲ませた顔でそう尋ねた。
「我が名はなんだ?」
麒煉からの問い掛けに、何故そんなことを聞くのかと、眉を寄せながら、章絢が答える。
「麒、煉……?」
「まさか……」
師君がその問いの意味を察し、目を見開く。
「そう。我が字は、麒煉。諱は、麟。恐れ多くも瑞獣の文字を名に貰い受けた、この国の皇帝だ。聖なる麒麟に及ばずとも多少なりとは力があるとは思わぬか?」
「ですが、御身を傷つけるなど!」
泰潔が、慌てて止める。
「何、己の身一つでこの国が守られるのならば、君主として本望ではないか」
「陛下!」
麒煉の言動を浩藍も諌めようと語気を強める。
「膠を作るには御身をかなり損なってしまいます。それは流石に、賛同いたしかねます」
泰潔が代替案を出す。
「あの。乾坤一擲ではありますが、慈悲深い麒麟のご加護を願って、膠の代わりに陛下の血を数滴捧げることで許しを請うてはみませんか?」
それに麒煉は渋い顔をする。
「それでは我が身惜しさに天帝をたばかったとお怒りを買いはしまいか?」
「では、如何致します?」
「……やはり、我が身を差し出す」
今まで静かだった章絢が、眉を吊り上げ怒気を含んだ声で麒煉に言う。
「麒煉! 分かっているのか? お前がいなくなればこの国は又もとの覇権争いをしていた時のように血が多く流れることになるんだぞ!」
「いいや。そうはならない。お前がいる」
「バカ言うな! 俺にお前の代わりは務まらない。新しい法案はどうする? 道路の整備は? 工芸品は? 全てが道半ばだ。そんな中途半端な状態で投げ出すのか?」
「章絢」
「いいや、そんなことよりも、喜と伸は? あの子達にとってお前は唯一無二の父親だ。お前の代わりなんていないんだ!」
「落ち着け、章絢。分かっている、分かっているさ……」
握りしめた、麒煉の手からは、血が滴っていた。
「そうだ! 麒麟の絵を描いて、その影から膠を作るのは?」
洸が、場の空気を変えるように、突然そう発した。
ピリピリしていた空気は霧散し、皆の肩が下がる。
「それでは、絵を描く為に用いた塗料に含まれている膠が、そのまま採れることになるだけではないか? 果たして、それで、代わりになるのか?」
顔から険の取れた章絢が、呆れたようにそう言った。
洸はガックリと項垂れる。
「じゃあ、どうすれば……」
皆が悩み、途方に暮れていると、その場に凛とした神々しい声が響き渡った。
——我が名を持つ者よ。
声のする方へと視線を向けると、幻の瑞獣、麒麟の姿が目に入り、皆一様に、瞠目する。
麒麟はそのまま話し続けた。
−−其方達のその高潔なる心に応え、この麒麟竭をもって我の代わりとすることを許そう。
それをもって、画竜に息吹を与え、天帝に国の守りを請うがよい。
麒煉は操られるように、麒麟の前へ行き、その場に跪いた。
「ははー」
そして、麒麟から差し出された麒麟竭を、両手で恭しく受け取る。
「貴方様の御慈悲に心より感謝申し上げます」
麒煉の言葉に頷き、麒麟は窓を通り抜け、翔るようにして天へと去って行った。
あまりの速さにその姿は瞬く間に掻き消える。
「まさか、鳳凰だけでなく麒麟をこの目で見ることが叶うとは……。陛下の御代は天帝に認められたということであろう。大変喜ばしいことじゃ。これでもう、陛下に退位を促す愚か者は完全にいなくなるであろう。良かった、良かった」
師君は長い髭を弄びながら、「ふむ、ふむ」と頷いた。
その横で、洸や子淡、浩藍は、ぽかんと口を開けて、麒麟が去って行った窓の方を眺めていた。
立ち上がり、窓から天を見上げた麒煉の肩に手を乗せた章絢は、麒麟竭へと目を向け、「全て揃った」と、感慨深げに言う。
それに麒煉も同意する。
「ああ。後は準備して、目を描き入れるだけだ」
皆、休むこと無く、作業へ移った。
誰にも見つからぬように、そのまま麒煉の室で準備をする。
手分けをして玉を磨り潰し、粉末にしたものを液状にした麒麟竭で溶く。
出来上がった塗料を霊亀の硯へと流し入れた。
その瞬間、煌めきが増し、光を発したように見えた。
「わー、何とも不思議な色の塗料ですね」
泰潔が、感嘆の声を上げた。
師君も感心し、頷く。
「ああ。玉の色とも、麒麟竭の色とも違う、金色のような色であるな」
鳳凰の羽と連理の梧桐の枝を用いた筆は、泰潔の手により、既に仕上がっていた。
「準備は出来た。さあ、天迎宮へと向かおうか」
麒煉の言葉に皆頷き、歩き出した。
天迎宮へとやって来た麒煉は、師君、章絢、子淡、泰潔、そして洸のみ、中に入ることを許可し、後の者は外で待機するように言い渡した。
「洸。張僧繇の子孫であり、造士であるそなたが、目を描き入れるのが一番だと俺は思っている。任せても良いか?」
「宜しいのでしょうか?」
洸はそう言って、父である泰潔、そして、師である師君、子淡へと目を向ける。
皆、力強く頷いた。
「洸。落ち着いて、何時もの絵を描く時と同じように、目を描き入れればきっと大丈夫よ」
そう言って、子淡が励ます。
「その通りじゃ。そなたなら、大丈夫」
師君も、微笑んで太鼓判を押す。
「洸。もし、上手くいかなくても、何度でもやり直せば良い。だから、気負わず何時ものように楽しんで描くことだ」
泰潔も、緊張を解そうと声を掛けた。
「洸。泰潔が言った通り、駄目でも気にすることはない。気楽に描いてくれ」
章絢が緩く言って、洸の肩を叩いた。
「さぁ、洸」と、麒煉が促す。
「分かった。取り敢えず描いてみる」
洸は、筆を持ち、穂先に塗料を付けた。
震えそうになる腕を叱責して、遂に目を描き入れた。
その瞬間、龍が浮き出し、辺りに雷が鳴り響いた。
「うわっ!?」
洸は、驚き尻餅をつく。
そうこうしている間に、龍が天迎宮の壁を突き破り、昇天して行った。
「成、功?」
「龍が昇った!」
「洸。もう一体も。さあ!」
「うん」
泰潔が、洸の手を引いて起き上がらせ、もう一体の龍のもとへと導く。
洸は再び、穂先に塗料を付け、もう一体にも描き入れた。
すると、こちらの龍も直に壁を壊して、天へと昇って行ってしまった。
今度は、直に壁から離れた為、尻餅をつくことはなかったが、余りの風圧に目を開けていられなかった。
風が弱まり、目を開けた洸は、辺りを見回した。
「龍、居なくなったね」
それに、章絢が頷く。
「ああ。壁自体が無くなったな」
「柱のお陰で崩れずにいるが、直に修繕しなければな」
そう言って、麒煉が溜め息を吐いた。
天迎宮から出て来た六人は、一様に空を見上げる。
そこには、嬉しそうに天を翔る四体の龍の姿が見えた。
「これで守りは完璧となったのか?」
「ああ。多分な」
麒煉の呟きに、章絢が答えた。
※ 乾坤一擲……運を天にまかせて、一世一代の大勝負をすること。
麒麟竭……アフリカ原産のリュウゼツラン科の木本、竜血樹の樹幹からとれる濃紅色の樹脂のこと。
(ちなみに、実際に翡翠の粉末を麒麟竭の樹脂で溶いて塗料を作ったことはないので、上手く出来るかは分かりません)




