30.大孝は終身父母を慕う
章絢は、懐から王妃様に貰った革袋を取り出し、皆に翡翠を見せた。
「筆の材料と玉は揃っている。残りは、麒麟の膠と霊亀の硯か……」
その言葉を聞き、泰潔が記憶を辿る。
「確か、霊亀の硯に関しては記述が残っていました」
「そこには、何と?」
章絢が前のめりで尋ねた。
「えー、当時の皇帝であった武帝に献上したと、そう書いてあったかと……」
「そうか。分かった。もしや、祖父ならば行方を知っているかもしれぬ。霊亀の硯についてはこちらで探してみよう」
泰潔の言に麒煉は思案し、そう言った。
「後は、麒麟の膠か……」と、章絢が呟く。
「麒麟は聖人や優れた君主の許に現れると古来より言われているが……。力不足ですまない」
「麒煉。それはあくまでも言い伝えだ。真実とは限らない。聖人とまでは言われていない張僧繇も手に入れる事が出来たのだ。何か方法があるはず」
項垂れる麒煉を章絢が励ます。
「はい。私も、もう一度、調べてみます」
そう言った直後、ハッとしたような表情になった泰潔に、皆、訝しげな視線を送った。
それに答えるように、泰潔が話す。
「そう言えば、実家はどうなっているのでしょうか? 父や母は元気でいるのでしょうか?」
皆、彼の態度に納得する。
「確か、張前将軍は、前皇帝が退位した時に将軍は辞されたと思うが、その後、後進の教育係として教官となられているはずだ。その夫人も、年は取っただろうが変わりはないだろう」
浩藍が代表して、彼の問いに答えた。
「そうですか」
泰潔は、ホッと息を吐く。
「皆、飛燦国から戻ったばかりで疲れているだろう。後の報告は明日にして、今日はゆっくりすると良い。城に部屋を用意しよう」
「折角だが、俺は早く子淡に会いたいから、帰るよ」
章絢は、麒煉の気遣いを素気無く断った。
それに、師君も同意する。
「儂も妻が待つ邸に帰るわい」
「お心遣い感謝いたします。私も、両親の事が気に掛かりますので、これからそちらに向かおうと思います」
泰潔も申し訳無さそうに、そう言った。
「そうか。では、明日。午後からで良いから、こちらに来るように」
麒煉は残念そうにしながらも、そう言って、泰潔がすんなりと登城出来るように、一筆したためたものを彼に渡した。
「俺は飛燦国の事で、報告しなければいけない事があるから、残るが、張泰潔は先にご両親の許へと帰るが良い」
章絢は泰潔が退室しやすいように、そう声を掛けた。
それにホッと息を吐いた泰潔は、改めて謝辞を述べる。
「畏まりました。李侍中、助けていただき、心より感謝いたします。師君も本当にありがとうございます。このご恩は一生忘れません」
「ああ。今日は、ゆっくり休め」
章絢はそう言って、微笑む。
「はい。失礼いたします」
泰潔も微笑み返し、皆に挨拶をして、その場を後にした。
泰潔の後ろ姿を見送った章絢は、飛燦国での出来事を全て、麒煉と浩藍に報告した。
師君は、助言を求められた時以外は傍らに静かに佇み、若い為政者達を眩しそうに目を細めて眺めていた。
* * *
一通り報告を終えた章絢は、芙蓉宮に戻って来た。
中に入り、子淡の姿を見つけた章絢は、嬉しそうに彼女の名を呼ぶ。
「子淡!」
呼ばれた子淡は、章絢の姿を認めると、彼に走り寄った。
「章絢! お帰りなさい。無事で良かった」
章絢は、抱き付いて来た子淡をギュッと抱き締めて、その存在を確かめる。
「子淡。心配かけたね」
その言葉を聞いた子淡は、抱き付く手に、更に力を込めた。
後からやって来た洸が、二人の様子を微笑ましく眺め、章絢に声を掛ける。
「章絢大哥! お帰りなさい」
「ああ。ただいま」
章絢は子淡を抱き締めたまま、洸の方へと笑顔を向けた。
一頻り、子淡を堪能した章絢は、名残惜しそうにしながらも抱擁を解いた。
そして、真剣な顔で、「洸。大事な話がある」と言った。
洸は、首を傾げて問い掛ける。
「何?」
「あちらで話そうか」
章絢はそう言って、二人を書房の方へと招き入れ、戸を締めた。
二人に椅子を示し、着席すると、早速、本題を切り出す。
「洸。お前の父親が見つかった」
「えっ!?」
洸は、一瞬何を言われたのか分からなかった。
その様子に、驚くのも無理はないと思いながら、章絢は話を続ける。
「ずっと、飛燦国に囚われていたんだ。今回、偶々見つける事が出来て、一緒に帰って来た。会いたいか?」
「そりゃ……」
洸は、迷いながらも頷く。
「お前の父親には、まだお前のことを話していない。お前がどうしたいのかを優先させるつもりだ。お前が名乗り出たくなければ、そのまま他人として過ごす事も出来る。お前次第だ」
「そう……」
章絢の気遣いを有り難く思いながらも、洸は複雑な心境になる。
「洸にも心の整理をする時間が必要だろう? 一晩考えて、明日、返事をくれないか?」
自分を思ってくれる章絢に励まされ、覚悟を決めた洸は、自分の素直な気持ちを彼に話す。
「章絢大哥。ありがとう。でも俺、一晩も考えなくても、爸爸に会いたい。父親らしい事をして欲しいとか、今までどうして会えなかったんだとか、そんな事はどうでも良くて、ただ会いたいんだ」
「そうか。分かった。明日、一緒に会いに行こう」
洸の気持ちを嬉しく思い、章絢は明るくそう言った。
「うん」と、洸も嬉しそうに頷く。
「お前はどうでも良いと言ったが、会う前に、俺の方から分かる事だけ説明させて欲しい。その方が、会った時の混乱が少ないと思うからな」
「分かった」
章絢は、泰潔の境遇を分かる範囲で全て話した。
洸と一緒にそれを聞いていた子淡はその身の上に同情し、涙を流す。
「そうか、爸爸も妈妈のことをずっと思っていたんだね」
「ああ」
「良かった」
「きっと、お前の父親は、お前のことを知ったら喜ぶだろう」
章絢はそう言って、洸の頭を撫でる。
「そうだと良いな」
洸は、照れくさそうにしながらも、嫌がらずに撫でられていた。
* * *
翌日、章絢は洸を連れて、麒煉の許を訪れた。
「随分、早く来たな。午後からと言っていたが」
麒煉は読んでいた書類から顔を上げて、室に入って来た二人に視線を向ける。
「家に居ても、洸が落ち着かないようだったからな。ここに早めに来てみようかと」
「そうか」
麒煉は章絢に相槌を打ち、書類を片付け出した。
「邪魔になりそうなら、別の場所で時間を潰すが……」
章絢は、仕事を中断した様子の麒煉に対して、申し訳無く思いながら尋ねた。
「いや、大丈夫だ」
整理し終えた麒煉は立ち上がり、二人に椅子に座るように促した。
着席すると、早速、麒煉は章絢に尋ねる。
「洸には全て話したのか?」
それに、「大体は」と、章絢が答えた。
「洸は、父親に会うことに同意したんだな」と、麒煉は洸の意思を確認する。
「うん。俺、爸爸に会いたい。妈妈のこととか、沢山話を聞きたいんだ」
洸は首肯し、気持ちを伝えた。
「そうか。彼も洸に会えたら喜ぶだろうな」
そう言いながら、麒煉は笑みを浮かべた。
それに、章絢も同意する。
「ああ」
麒煉は二人に為に、客間に点心を用意させた。
昨夜から緊張していた洸は、朝食もあまり食べられなかった為、卓に並べられた彩り豊かな料理を見て、一気に空腹を感じた。
目を輝かせ、涎を垂らしそうな洸の様子に、麒煉は満足そうな表情を浮かべ、席に着いた。
章絢もサッと席に付き、残っていた空席に洸が遠慮がちに腰掛けた。
「さあ、召し上がれ」
「はい!」
麒煉に促され、洸は目の前にあった餅を口にした。
「美味しい!」
洸は行儀悪く、頬張ったままそう言ったが、麒煉と章絢は緊張で固くなっている彼を、わざわざ注意するようなことはしなかった。
ただ、微笑ましそうに見守る。
「そうか」
「ハハ。やっぱり、早めに来て正解だったな。洸も少しは緊張が取れただろう?」
章絢に笑われて、洸は恥ずかしそうに、赤く染まった頬を掻いた。
「あっ。そうかも……」
「折角会えた息子に元気が無いと、父親も悲しむだろう? しっかり食べて、元気な姿を見せてやれ」
「うん」
麒煉の言葉に、洸は素直に頷いた。
食事が済み、麒煉の室に戻ると、直に師君、泰潔が訪れた。
「陛下」
麒煉は入室した泰潔に椅子に座るよう促しながら、「昨夜はゆっくり休めたか?」と、軽い調子で尋ねた。
泰潔は、腰を下ろし、それに答える。
「ええ。両親も不肖の息子の帰郷を喜んでくれました」
「そうか。良かったな」
「はい。ありがとうございます」
「早速だが、お前に会わせたい者が居て、な。……洸」
麒煉は、泰潔の斜め前の席に座っていた洸に声を掛けた。
洸は、それに頷き返す。
洸の方へと視線を向けた泰潔は、じっとその顔を見詰めた。
初対面である筈の洸に、何故だか既視感を覚え、不思議な心地になる。
「この者は、洸と言って、亡きニマ王女の息子だ」
「ニマの?」
麒煉の予想外の説明に、泰潔は思わず目を見開いた。
「ああ。今年で十なると言う。お前の息子ではないか?」
「私の?」
泰潔は、惚けたように麒煉に問い返した。
「王女は、お前と別れて逃げた後、砦西の山中で一人、洸を生み育てていたそうだ」
「本当ですか?」
ニマが龍居まで逃げずに、砦西の山中で一人出産し、育てていたことが信じらない泰潔は、思わず麒煉に鋭い視線を向けてしまった。
その視線を受けて、麒煉は王女の苦労を思い、辛い表情で話を続けた。
「ああ。昨年、流行病で残念ながら亡くなったそうだが」
「そう、ですか」
泰潔はそれだけ発し、茫然自失となった。
「ほら。お前と目元や鼻の形がそっくりじゃないか?」
章絢にそう言われて、泰潔の虚ろな目が洸を映す。
その目から、一雫の涙が流れた。
「ああ、私に子供が……」
泰潔は、ふらふらと立ち上がり、洸の傍までやって来た。
「ニマとの子が……」
洸の頬へと手を伸ばし、泰潔はその感触を確かめるように、優しく撫でた。
「爸、爸……」
洸は戸惑いながらも、そう呼んだ。
「ああ。こんな私を爸爸と呼んでくれるのか? お前と母親を傍で守ることが出来なかった私を……」
涙を流し、自分を見詰める泰潔に、感極まった洸は、思い切り抱き付いた。
「爸爸! 会いたかった!」
「そうか。そうか……。今までよく頑張った。生まれてくれてありがとう。生きていてくれてありがとう。妈妈を守ってくれてありがとう。ありがとう。ありがとう……」
洸を抱き締め、その頭を撫でながら、泰潔は何度も、何度もお礼を言った。
傍で見ていた、麒煉、章絢、師君の三人も、貰い泣きし、袖で涙を拭う。
親子は、暫しの間、抱擁し涙を流し続けた。
泣き止んで、少し落ち着いた洸は、泰潔から身体を離す。
「これを……」
洸はそう言って、泰潔に連理の枝の梧桐を差し出した。
それを泰潔は、大事そうに両手で受け取る。
「ありがとう。大切に保管してくれていたんだね」
「うん」
親子の話が一段落ついた頃を見計らって、麒煉が泰潔に尋ねた。
「この絵は、そなたが描いたのか?」
麒煉は、以前、画院の倉庫に仕舞った、飛燦国の王女の肖像画を見せた。
泰潔は、その絵を隅々まで観察し、答える。
「ええ。亡くなった妻の絵です。ですが、何故こちらに?」
「妻というと、第二王女の方だったよな?」
疑問に思った章絢は、横から口を挟んだ。
「はい。第二王女のニマです」
泰潔のはっきりした回答に、麒煉は戸惑いを隠せない。
「この絵は、第三王女の肖像画として俺のところへ縁談の話と一緒に送られて来たのだが……」
「そうでしたか……。第三王女は元々身体が弱く、私もお会いしたことはありません。ただ、噂では妻も第三王女も生母の若い頃に生き写しのようによく似ていると言われていました」
泰潔は、過去を思い出しながら、そう答えた。
「なるほどな。行方をくらました第二王女の肖像画をそのまま第三王女の絵として送って来るとは、王も大それたことをする」
そう言って、章絢は気遣わし気な視線を麒煉へ送る。
麒煉は初恋の女性が第三王女ではなく、泰潔の妻であり洸の母親の第二王女であったことを、内心複雑に思いながらも過去のことと割り切った。
だが、元々、飛燦国王は自分に娘を娶らせる気はなかったのだと思うと、何とも苦々しい気持ちになったのだった。
「この絵は、其方に授けよう」
そう言って、麒煉は泰潔へ絵を差し出した。
「宜しいのですか?」
泰潔は、躊躇いがちに絵を受け取った。
「ああ。画院の倉庫に仕舞っておくよりも、其方が持っている方がその絵も喜ぶであろう?」
「有り難うございます!」
泰潔は絵を大事そうに抱え込み、麒煉へ謝辞を述べた。
「爸爸、見せて」
「ああ」
洸に強請られ、泰潔は絵を見せた。
「妈妈、本当に王女様だったんだね……」
豪華な衣装や装飾品を纏い、優雅に微笑む絵の中の母親に、洸は何とも言えない不思議な心地となったのだった。
※ 「大孝終身慕父母(大孝は終身父母を慕う)」……本当の孝行者は、一生その父母を慕い、忘れることはない。




