23.麒煉の追憶
芙蓉宮の書房で子淡と洸がお茶を飲みながら語り合っていた頃、麒煉は執務室で一人、即席で作られた架木に止まって大人しくしている章絢の鷹を、ぼんやりと眺めていた。
「章絢……」
−−俺は……皇帝になった今でも、何て無力なんだ……。
父上も同じように悩んでいたのだろうか……。
そういえば、退位を宣言した時の父上は、随分とすっきりした顔をしていた気がするな……。
無理もない、父上は執務の場でも後宮でも、殆ど休まることなどなかったであろうから……。
きっと、芙蓉宮だけが心休まる場所であったのだろうと、今ならばよく分かる。
今は、麒煉の子である二人の皇子を養育することが主になっている後宮も、劉章が皇帝であった時は、とても子を育むような場所ではなかった。
皇后は、嫁いで数ヶ月が経つと、病を理由に芙蓉宮へと移った。
そして、それを機に多くの官吏達が自身の娘や親類の娘達を後宮へと送り込んで来た。
その為、束ねる者がいなくなった後宮は、それまで以上に荒れるようになった。
この頃、劉貴妃は麒煉を身籠る前で、父である劉太傅も太傅となる前であった為、公主は生んでいたが、後宮の長となる程の権力を持ってはいなかった。
ただ、自身と娘の身を守ることに一杯一杯で、何とか日々を遣り過ごしていた。
尚、他の妃達は子を生んでおらず、後ろ盾の地位も劉貴妃と然程変わらない程度であった。
劉章は、ただ業務をこなすように、夜、後宮を訪れて、一時程後に去って行く。
それ以外の時間に、女達が口や腹から血を流し、亡くなろうとも、見向きもしなかった。
麒煉の物心がついた頃の最初の記憶が、麒煉の代わりに乳母と乳兄弟が毒の入った茶菓を食べ、血を吐いて悶絶する光景である。
信頼していた女官に貰った茶菓を麒煉が食べる前に、乳母が毒味し、食いしん坊であった乳兄弟も手を伸ばしてしまった為に起きた忌まわしい事件であった。
乳母は一命を取り留めたが失明し、幼かった乳兄弟は命を落とした。
信頼していた女官に裏切られ、尚且つ、本当の兄弟同然だった乳兄弟を亡くし、失明した乳母は後宮を去ることとなり、麒煉は心に深い傷を負い、孤独に苛まれるようになった。
この事件を発端に、麒煉が生また時に太傅へと出世した劉太傅が以前にも増して、後宮のことにも口を出すようになる。
そのおかげで、麒煉の安全は確保されたが、自由は殆どなかった。
そんな環境で、腐らずにいられたのは、母や姉、そして師君の存在があったからと言える。
劉太傅の前では、都合の良い傀儡のように演じ、師君から人としての礼節や君主の在り方などを学び、母や姉には子供らしく甘えた。
そうやって、麒煉は脆く壊れてしまいそうな傷ついた心をなんとか守り、成長していった。
ちなみに、麒煉の四つ上である姉の珠星公主は、二十歳の時に、当時、科挙で状元(首席)となり、頭角を現していた趙浩藍の許へと降嫁した。
それによって、浩藍は中書省の侍郎(副官)に出世することとなり、更に、麒煉が皇帝となってからは、中書令へと出世する。
姉が降嫁したことによって、麒煉と浩藍との付き合いは増え、本当の兄弟のような関係になっていく。
−−そういえば、数日前に、「何を仰いますか! 臣が君を支えるのは当然のこと。章絢は己の職務を全うしているだけです。どうか、気になさらないで下さい」と言った時の子淡の顔が、毒を飲んだ乳母に重なって見えた。
「臣として、お役に立つことが出来、身に余る光栄です。ですから、そのようなお顔はなさらないで下さい」と言って、彼女は毒に苦しみながら、自分ではなく俺の心配をしていたな。
俺は、彼女や乳兄弟の払った代償に、ちゃんと報いることが出来ているだろうか?
麒煉は答えを求めるように目を瞑る。
思い浮かべた昔の彼女の面影からは、何も答えは返って来なかった。
目を開けた麒煉は、深く息を吐く。
「……それにしても、『臣』、か……。子淡は全く俺のことを男として見てくれなかったな……」
麒煉はそう独り言ち、苦笑する。
−−子淡と初めて会ったのは、十年程前のことであったか?
当時は、子淡を男の子だと思っていたな。
そんな子淡のことを女性として強く意識したのは、耀華を亡くした時であったか……。
あの時、慈悲深く慰めてくれた子淡はまるで天女のような優美さであった……。
その時の姿を思い浮かべ、麒煉は再び瞼を閉じる。
−−子淡が章絢のことを思っているとは知らなかったとはいえ、あの時は申し訳ないことをしたな……。
麒煉は、子淡への恋慕に気付いてから、直に求婚した。
章絢のことを思っていた子淡は、もちろん断った。
だが、この時子淡は、身分を理由に断った為、麒煉は中々諦めず、何度も求婚した。
困った子淡は、遂に章絢に相談した。
そこで、章絢が麒煉に自分の思いを話し、子淡が断った本当の理由を知った。
皇帝である麒煉は、強引に子淡を後宮へと召し上げることも出来た。
章絢と子淡の婚姻は、麒煉次第で、叶わなかったかもしれないものであったのだ。
だが、麒煉は章絢と出会ったばかりの頃に、自分へと固く誓った、弟の願いを必ず叶えるという誓いに逆らうことはせず、それに従って章絢の願いを叶えた。
もちろん、子淡自身もそれを望んでいるのが分かったからであったが……。
それと、造士である子淡の意に反したことをするのは、天帝の怒りを買うことになるという恐れも僅かばかりあった。
−−結婚式での二人は、本当に幸せそうで、子淡に無理強いしなくて良かったと、心の底からホッとしたものだった。
だから、余計に今回のことでも二人に負担をかけてしまい、申し訳なさで一杯になる。
「章絢、どうか無事でいてくれ……」
「陛下……」
過去に思いを馳せていた麒煉は、いつの間にか入室していた丹管に全く気付かなかった。
独り言に相槌があって、初めて気付き、あまりの恥ずかしさに、赤面した。
「い、何時から居たんだ?」
「ほんの少し前です。気付いておられなかったのですか?」
「いや、何でも無い。今言ったことは忘れてくれ」
「はっ!」
堅苦しい返答をする丹管に苦笑し、麒煉は彼と仲が良かった亡き妻のことが頭に浮かんだ。
−−麒煉は馬鹿ね。
そう言って、笑いながら呆れていた耀華のことを思い出す。
彼女とは元々、武芸の朋友であった。
麒煉は、当時、十六衛大将軍であった彼女の父に、剣などの武芸を習っていた。
その場に度々同行した男装の耀華と何度も手合わせし、互いに切磋琢磨していった。
それもあって、元々さっぱりした気性であった彼女は、麒煉にとって気安く出来る貴重な存在であった。
片思いしていた飛燦国の王女が亡くなり、沢山の候補者の中から皇太子妃を選ばなければならなくなった時、彼女ならば、恋慕は無くとも同士として、家族としてやっていけるとそう思い、自らの伴侶に選んだ。
その判断は、間違いではなかった。
彼女は、二人も皇子を生み、後宮を住み良い場所に変え、軍部にも多大な貢献をしたのだから。
−−後にも先にも、俺に馬鹿と言える女性は、君だけだろうな。
耀華。俺にとって君がどれだけ大切な人だったか、亡くしてから気付くなんて、俺は本当に馬鹿だな。
耀華。君に逢いたいよ。
「馬武官。武皇后は、私を恨んでいるだろうか? 思い合っていた君と引き離して」
麒煉のいきなりの問い掛けに、丹管は驚きながらも直に否定する。
「陛下。恐れながら、それは陛下の勘違いでございます」
「勘違い?」
麒煉はそう言って、眉を顰める。
「はい。これでは亡くなった武皇后が浮かばれません」
「どういうことだ?」
「武皇后と私は、ただの乳兄弟です。私はただの乳母の息子に過ぎません。主人に懸想するなど、恐れ多いことでございます」
「だが、耀華は……」
「恐れ多いことながら、武皇后は、誰にでも気安い方でございました。末っ子であらせられた武皇后は、弟が欲しかったのだと、私のことを弟だと、そのように仰って過分に取り立てて下さっておりました」
丹管は語気を強くし、はっきりとそう言い切った。
丹管の母は、丹管の姉を生んだ時に耀華の乳母となった。
その三年後に生まれた丹管を、耀華は乳兄弟であった本当の姉と同じように、弟として可愛がった。
ちなみに、丹管の母は、今は後宮で、主に喜の面倒を見ている。
そして、乳兄弟であった姉は同じような武官の家に嫁に行った後、子を生み育てていた。
だが、伸が生まれた時、耀華が伸の乳母にと彼女を望んだ為、耀華の遺言を叶えようと、彼女は再び出仕した。
「そうだったのか……」
丹管の言い様に、麒煉は納得せざるを得なかった。
「はい。武皇后は病床にあってからも、陛下のことばかり話されておいででした。陛下のことをそれは愛おしそうに、『陛下は馬鹿だから、自分の身を直ぐ危険に晒してしまうのよ。だから、私がいなくなったら、代わりにあなたが陛下を守ってあげて』と、そう何度も私に仰っておられて……」
不意に、顔を歪めた丹管は、言葉を詰まらせた。
「……耀華……」
−−そうであった。君の「馬鹿」には、愛が詰まっていた。
まるで、「愛している」という代わりに言っているかのようだった。
私は、それに今まで気付けなかった。
なんて鈍感な男か。
「耀華。君は……」
−−落花情あれども流水意無し。
俺達は、似た者夫婦であったのか……。
麒煉の頬を涙が伝う。
それは、憐憫や悔恨によるものか、それとも愛惜の情ゆえのものであったのか、麒煉本人にも分からなかった。
※ 落花情あれども流水意無し……落花は流水を慕うが、川の水はそ知らぬ顔で流れてゆく。一方には情があるのに相手には通じないことのたとえ。




