6.李侑生の来訪
すでに太陽は頭上に昇りきってしまったというのに、珪己は今日も自室にいた。
常であれば道場で稽古にいそしむか市街に繰り出している時間帯だ。だが、浩托との仕合以来、珪己は屋敷の中から出たいとは思えなくなっていた。何もかもが億劫で空虚だった。
窓を閉めきった部屋の中で、琵琶をぽろぽろと弾いている。琵琶は母が得意とする楽器だった。生前、四歳のころから母に毎日のように手ほどきを受け、子供ながらも玄人並の腕だと周囲の評判を得ていた。
しかし――母の死去により、珪己はその手に持つものを琵琶から剣に変えた。ただし、父のはからいで、今でも月に一度は楽院、つまり楽器の奏法を習う学校で教授を受けている。
母のことを忘れないためにも、母の芸技を消失させないためにも、珪己は琵琶を心の痛みとともに弾き続けてきた。武芸が心を保つためのものであるとすれば、琵琶は心で泣くのためのものであった。琵琶を弾くときだけは、父や周囲に気兼ねすることなく自分の内面と語り合うことができた。泣いて泣いて、立ち直って奮い立って――そうしていつもの朗らかで前向きな自分に戻るのだ。
だが後宮に入ってからは琵琶に触る機会がなかった。退宮後もなんとなく楽院に足が向いていない。が、幼少時からの鍛練は珪己の中ですでに明確な輪郭をもって息づいており、これだけ久しぶりに奏でるというのに十分に勘を取り戻していた。
ただ、その音色は珪己の心中を表すかのように、ただただ単調で重い。それでもその曲ばかりを飽きることなく繰り返しつまびいていた。
部屋の扉を遠慮がちに叩く音がし、珪己が琵琶を弾く手を止めると、家人が扉の向こうから李侑生の来訪を告げてきた。
まだ誰にも会いたくないが……父からの伝言と仕事の件だという言付けもあり、そうなると珪己には会うという選択肢以外はない。珪己はため息をつくと琵琶を壁に立てかけた。次に弾くときはどのような音を出せるだろうかと思いつつ。
珪己が客室に出向くと、侑生はこちらに紫袍の背を向け、見るとはなしに窓の外の景色に目をやっていた。逆光で珪己は目を細めた。
「お待たせしました」
小さく声をかけると侑生が振り向いた。目が合った瞬間、侑生はその目を少し見開き、それからふんわりとほほ笑んだ。
まだ出会って日が浅いというのに、その笑顔は珪己をひどくほっとさせた。宮城では侑生はいつだって自分を護ってくれていた。そのことを久しぶりに会うことで珪己は思い出していた。会いたくないと思った刹那の気持ちも嘘偽りない本心だったのだが、その醜い心もいつのまにか消失している。
向かい合う席に二人で座ると、侑生は人払いを願った。
そして本題を告げた。
来週実施される新人武官の着任式には礼服がないため出席できないこと。
代わりに次回の式に出席すること。
それまでの間、礼部で官吏補として働くよう珪己に要請があったこと。
礼部の最重要案件の一つ、芯国との調印式を成功させる必要があり、珪己にはこの件に関する仕事が割り振られるであろうこと。
芯国、と聞いて珪己の頬がぴくりと動いた。王美人付きの女官、果鈴が使った毒が芯国のものであったことを思い出したのだ。
「……大丈夫ですか?」
その声に意識を戻すと、侑生が心配そうに珪己の顔を覗きこんでいた。
「もし不安であれば、今回の件は断られても大丈夫ですよ」
その言葉は、優しいようでいて珪己を小さく傷つけた。
「いいえ。大丈夫です。やります!」
向けられ珪己の双眸の強さに侑生は驚いた顔をしたが、「ではよろしくお願いします」と小さく頭を下げた。
机の上に置いてあった一抱えの箱が珪己に押しやられる。
「これが官吏補の袍衣です。これを着て明日から登城していただきます」
蓋を開けると、そこには女物の濃紺の衣が一組入っていた。先月宮城に滞在していた際にもこの袍衣を着た官吏を何人か見かけてはいたが、この色が官吏補を表すことを、珪己は今初めて知った。服の上に置かれている黒玉の飾りが腰帯にかける礼部の証であることは知っていたが。
「……なんだか私、女官だったり文官だったり、変装してばかりですね」
「あと武官の男装もしましたよね」
あらためて言われると、珪己は少しばかり恥ずかしさを覚えた。
ここ開陽では、自由闊達な雰囲気から男装する女性が出歩く姿をしばしば見かける。けれど珪己には変身願望などなく、ここ最近の自分は運命という巨大な流れに抵抗できない小さな木片のようにも思えた。
(……これから私はどうなっていくんだろう?)
侑生の軽口は珪己を明るくするどころか、逆に思案する表情を作ってしまった。侑生は椅子から腰を上げると、うつむく珪己の手をそっと握った。
「……侑生様?」
「珪己殿、こうして部屋の中にばかりいてはよくありません。外にでかけましょう。とてもいい天気ですよ」
そう言うと、侑生は半ば強引に珪己を外へと連れ出したのである。




