5.再燃した恐怖
楊家の隣にある道場から、少年たちの威勢のいいかけ声が聞こえてくる。
ひときわ大きい声の主は浩托だ。珪己と同い年の少年剣士・浩托は、珪己が後宮に入ってから現在に至るまで、珪己に代わって師範代行を務めている。道場の主である鄭古亥は珪己が不在の間もその重い腰をあげることはなかった。そのため、珪己の次に腕の立つ浩托にお鉢が回ってきているのである。浩托は商人の息子であり、本来はこのように毎日長い時間を道場のために使える立場ではないのだが……。
だが、浩托は珪己や生徒のために、文句一つ言わずにその重い任に当たっていた。それは珪己が半月ぶりに道場にやってきた際、浩托と木刀による仕合をしたことの結末に由来する。
久しぶりに見る珪己はいつものように明るく快活であった。なので、浩托もいつものように珪己に木刀を手渡し、
『ほらよ。腕はなまっていないだろうな』
そう言って仕合を申し込んだ。挑戦的な浩托に、珪己は笑いながらその木刀を受け取った。生徒の少年たちがわいわいと騒ぎ、久方ぶりの二人の対決を囲んだ。
だが、結果は予想外のものだった。
二人は向かい合い礼をすると、木刀を持ち上げ、その切先を相手の眉間に合わせた。一拍ののち、浩托は先手とばかりに、気合いとともに珪己との間合いを一気につめた。同時に振り上げていた木刀をためらうことなく珪己の頭上に打ち降ろしたのである。
それは未熟者が相手であれば頭をかち割ることもできる剣筋ではあったが、珪己であれば難なくよけることができる程度のものだった。浩托自身もそれは分かっていて、実は珪己がよけたその後に必殺の剣を繰り出すことを狙っていたのだ。珪己が不在の間にひらめいたこの連続技を、浩托は早く試したくてたまらなかったのである。
しかし、珪己はよけなかった。しかも常であれば強く見返してくる珪己の瞳が、浩托の剣気にあてられ、うろたえるように揺れたのである。木刀を持つ手が弱々しくなるや――珪己から一切の剣気が消えた。
(このままでは本当に頭に当たってしまう……!)
あわてた浩托の足がもつれた。
その結果、浩托は派手に転び、それでようやく珪己を損なう前に仕合をやめることができたのだ。
仕合を見守っていた幼い生徒らからは、
「浩托、転ぶなんて情けないぞ」
「戦う前に負けるなんて、さすが浩托!」
などと散々に言われたが浩托は否定しなかった。……いや、できなかったのだ。目が合うと珪己はびくりと体を震わせた。まるで目の前の浩托が恐ろしい敵であるかのように、その顔は青白く変貌していた。
「お、おい……」
思わず出た声とその顔は、同情の類に見えたのか。
珪己は木刀を取り落とすと、ごめん、とだけ言って道場から逃げ出した。
そして、それ以来道場には一度も来ていない。




