8.再認識された喜び
その夜、二人は木刀を打ち合わせ、心ゆくまで武芸を楽しんだ。
二人の間には確かに剣気が見られた。だが、その気の中には殺意はかけらも見られず、ただその気をもっていかに相手に勝つかに注力する類のものであった。
だから、珪己は本当に久しぶりに、木刀を持ちながらも心を湧き踊らせた。心を抑えることなく、ただひたすらに剣技を追及する――それがこれほどまでに自分を熱くさせることに感動すら覚えていた。
木刀を打ち合うたびに手のひらから伝わる衝撃と硬さにしびれを感じる。その感触は心にも快い震えを呼び起こし、快感は体中に喜びを伝えていく。
(……やっぱり侑生様に頼んでよかった!)
枢密院に勤める文官は中書省勤めの者よりも武芸に秀でている者が多い。緩やかな官服をまとっているとはいえ、侑生は明らかに筋肉質な体を有しており、間違いなく武芸の心得があると珪己は踏んだのだ。不本意ながらも侑生に何度か抱きしめられたことのある珪己は、触れたときの感触や熱を思い出せばそう推測できたのであった。
予想外だったのは、この青年が思った以上の強者であるということか。文官、特に上級官吏にしては珍しいことだ。
とはいえ、武芸に秀でているという侑生の特質は珪己にとっては『好ましい』の一言につきた。大人びた所作で幾度も自分を翻弄してきた侑生は、珪己にとってはまれに異国人のように思えることがあったのだが……今、武芸を通して二人の間に共通点を見出すことで、珪己は侑生への強い親しみを感じていた。
珪己は侑生と稽古をすることで、武器を持つ恐怖を打ち消そうとしている。
対する侑生のほうでも、この少女との稽古に子供のように無我夢中になっていた。
(さっき仁威に言われたことは、先日、玄徳様に言外に指摘されたことと同じだ)
木刀を打ち合いながら、侑生はふいにそのことに気づいた。
事変のために武官を辞め、それからは、侑生にとっての武芸とは玄徳を護るための手段へとその性質を変貌させていた。今でも毎日、自家の庭で独り稽古はしている。だがそれは、ただ動きを忘れないようにするためだけの無機質なものでしかなかった。
(だが私も昔は武芸が好きだったんだよな……)
幼いころは年中暇さえあれば道場に通っていた。どうにかして勉学をさせようとする家族を振り切り、最後には見放され、それでもまったく気にしなかった。手に豆ができても、体に青あざができても、剣を握るのが嫌になることはなかった。初めて相手から一本取った時の喜びが胸になつかしくせりあがってくる……。
今もこうして剣を交えることが本当に楽しい。
忘れえぬ武芸への熱情そのままに、侑生は剣を介して向かい合う珪己へと強く意識を集中させていった。
――珪己との再会はまだわずかに肌寒さを感じるこの初春のことだった。
侑生は楊武襲撃事変の後、科挙の受験のために一度故郷に戻った。だがほどなく開陽へと戻っている。開陽から離れた地で過ごすほどに、あの日駆け寄り抱きしめた少女の儚さが……楊家の生き残りの娘のことがどうしても気になり仕方がなかったのだ。
とはいえ、侑生がしたことは、遠くから少女の様子を確認していただけだ。贖罪の根本である楊家、そして玄徳に付属する一つとして、珪己の無事の成長を確認する。それが侑生にとっては義務にすら思えていたからだ。
昼夜をおしんで勉学に励み、くじけそうなときに己の罪を再確認させたものは――。
官吏となり、嘘の恋を重ね、疲れきった心身を再度奮い立たせたものは――。
そうして、武芸を楽しむ心を捨てたことと引き換えのように、その少女の存在は侑生の心を占めていった。
侑生にとって、玄徳の補佐をすることが使命、文官となることが責務であるとすれば……珪己の成長を見守ることは、侑生が保つ数少ない人間らしい感情をわずかでも動かす――そう、喜びであった。
少女は自分のことなど何も覚えていないし、もしも自分のしたことがつまびらかになれば嫌悪感を示されるだろう――分かってはいても、あの日抱きしめた少女が健やかに成長し、武芸に夢中になり――侑生は自らが捨てた青春を珪己に投影せずにはいられなかったのである。たまにその姿を見るだけでも十二分に空虚は満たされていた。
しかしこの春、八年の時を経て、侑生は運命によってとうとう珪己の前に姿を現すことが赦された。
自分の名を名乗れば、少女はその名を呼んでくれた。
少女の名を自分も呼んだ。少女はそれに応えてくれた。
抱きしめれば、もうその少女は八年前のそれではなかった。
罪深く汚れた自分の所作に頬を染めてくれさえした。
そして――今はこうして、二人息を荒くしながら剣を交えるまでになっている。少女の顔には喜びしか見られない。
(この少女がいれば、これまでの自分の行いはすべて赦されるのではないか……)
そう錯覚したくなる気持ちが、影が生命を宿したかのように胸の奥からゆっくりと湧いてくる。
あやまたず隙が生まれ――これに珪己が満面の笑みを浮かべた。
腹の底から少女らしからぬ太い声を発したかと思うと、すかさず侑生に木刀を打ち落としてくる。これに侑生は反射的に剣を頭上に掲げ、降ってかかる木刀を流すように払った。
珪己の木刀と侑生の木刀がぶつかり、強い衝撃に両者の手がびりびりと震える。
しかしこの程度でひるむ珪己ではない。払われた剣を、その勢いを利用するがごとく切先を回転させ――珪己が剣をやや上段に持ちあげる。そして休むことなくさらに打ち込んでいった。
がん!
がん!
右に左に珪己の木刀を払いながら、やや防戦一方となった侑生が剣を受ける都度一歩後退していく。
これに珪己が会心の笑みを浮かべた。
これで決めるとばかりに木刀を大きく振りかぶる。
「てえええーーい!!」




