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6.逃げない先にある未来を

「なにを……!」


 仁威の双眸は言葉以上に鋭利に、かつての猛将の懐に切り込もうとしている。その迫力に、古亥ほどの練熟した男が言葉を失ってしまった。先ほどまでのぼんやりとした空気は跡形もなく消えている。


 仁威は真っ直ぐに古亥を見つめている。


 その目の下には珪己と同じ、悩む者特有の影が見えた。


「武芸者であれば誰もが通る道なのです。女であっても、楊家の娘であっても。武芸者である以上、楊珪己にとってこれは避けられない壁なのです。……それは古亥殿、あなたもですよね?」


 古亥は息を飲み、仁威を見つめ返した。


 古亥の瞳がかすかに揺れたことを認めた瞬間、仁威は駿来の言葉を唐突に思い出した。


『もっと力を抜け』


 どきりとした。


 しかしそれも一瞬のこと、仁威はさらに言葉を重ねていた。


「あなたがなぜ稽古をつけなくなったのか、なんとなくですが分かります。何があったかは分からないが、あなたは今頃になって武芸に関わることを恐れだした。そうではないですか?」


 引き締められた古亥の唇は開く気配はない。


「あなたはあの事変の罪悪感を、道場を隠れ蓑にして楊家を護るという行為でごまかしてきた。護るための手段とすることで、武芸を、武芸者である自分を正当化してきた。しかし武芸の本質との矛盾に気づいてしまい、剣をふるえなくなった。違いますか?」


 黙したままでいる古亥にさらに言い募ろうとする仁威の肩が、このとき強く掴まれた。


「仁威。それは言い過ぎだ」


 仁威は肩を掴むその男――侑生にただ視線をやった。


「いや、いいんだ」


 古亥が侑生に対して首を振ってみせた。


「ですが……!」

「お前も古亥殿と同じように楊珪己を甘やかしにでも来たのか」


 その瞬間、仁威の肩を掴む侑生の手にさらなる力が込められた。


「……なんだと?」


 侑生の怒気をはらんだ声音が、三人以外は人気のないこの場で低く響いた。さあっと風がそよぐ。屋敷前の川面の雑草がさわさわと揺れる音が聴こえる中、仁威がゆっくりとその体を侑生へと向けた。侑生の怒気に臆することもなく、逆にその体からゆらりと気を立ち上がらせて。それは今まさに沈もうとする太陽と同質の、仁威の心の奥でずっと燃え続けてきた闘気だった。


「いいか。俺達はお前らとは違う」


 言い切った瞬間、仁威が勢いよく肩にかかる侑生の手を振り落とした。振ったその手の拳を侑生の前でぎりりと握りしめる。手の甲に青く太い血管が浮かび上がった。


「どう理屈をこねようが、お前らは自分達の立場から逃げた。お前は文官となり、近衛軍将軍は今では町の道場の先生だ。……だがな、『俺達』は違う。俺は近衛軍の武官であり続けているし、楊枢密使は今も枢密院にいる。そして楊珪己は武芸を手放したくないと今必死で己と戦っている。……あいつは言ったよな、武官を辞めることは決してないと。あれは適当に口から出た言葉なんかじゃない。俺達は過去に蓋をして新たに生き直そうとしたお前らとは全然違う。だから今まで生きてきたこの道から降りることは決してない。なぜかって? それはな、たとえ過去に何があろうとも、俺達は自分自身をあきらめることは絶対にしないと決めているからだ……!」


 言い切ったその瞬間、仁威が握りしめていた拳をおもむろにふるった。それは目にもとまらぬ速さで侑生の鼻先でぴたりと止まった。その拳は仁威の視線同様、侑生の心の奥深くに攻め込んでくるようであった。


 ややあって仁威は拳を解くと、気を解き、静かに息をついた。


「今はあいつにとって大事な時なんだ。俺はあいつに逃げない先にある未来を繋げたい。いいか、決して邪魔はするな。……古亥殿、無礼をしました。ですが楊珪己は俺の部下ですから今回はご容赦願います」


 古亥に小さく頭を下げ、顔を戻した仁威は、侑生を小さく見やるとあとは黙ってその場を去っていった。


 沈む太陽で茜色に染まる仁威の背を見送りながら、古亥がぽつりとつぶやいた。


「……あいつは正しいよ。だが、あいつはまだわかっとらん。正しいことだけが全てではないというのになあ」


 いつの間にか、どの屋根からも陽光の暖色は消え去っていた。黒い布をはらったかのような空には一つの星だけが瞬いていた。

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