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5.夕暮れに重なる二人の影

 景観を美しく整えることを目的に、開陽の中心部の家々は均等に並び建てられている。それらの屋根の一方が赤に近い橙色に染まり、逆方向に位置する屋根は軒並み墨の混じったような薄青い色に染まるこの時間帯、夜の訪れは真近にせまっていた。誰しもの心に潜められている郷愁的な思いがじんわりと湧き出てくるような、そういう光景が広がっている。


 とはいえ、足早に道を急ぐのは子供や少年少女、幼子を抱えた親ばかりだ。まだ宵の口、これからが稼ぎ時である店も多く、妓楼や酒楼へと足取り軽やかに向かう集団もちらほら見かける。彼らにとっては今こそが出立の時で、その先には心踊る何かが待ち受けているのだろう。


 行き交う人々の中には官吏の姿も当然見られる。珪己と仁威もその一人だ。


 珪己が官吏補となってからほぼ例外なく続いている二人での帰路であるが、あの日から珪己は仁威とうまく話せないでいた。


 早朝の稽古は続いている。ただし、かんざしを持たないこれまでどおりの体術だ。気を発することなく、ただ粛々と進められるそれを珪己は甘んじて受け入れていた。だがそんな自分が歯がゆくて仕方がなかった。


 何かきっかけがあれば、と思う。強くなりたいと思う心にも嘘はない。


 だが、朝目が覚めて、棚に入った珊瑚の簪を見ても……どうしても手が出ないのだ。震える手を抑え、そっと棚戸を閉めるだけの毎日が続いている。


 稽古場に簪を持参しない珪己に、仁威が何を思っているのか。その表情からは読みとることはできない。


 今もそうだ。仕事を終え宮城を出れば、正門の外には必ず仁威が待っている。そして、黙って珪己の隣に立ち、屋敷まで送る。何か会話を、と珪己が焦って見上げても、仁威はただ前を向いているだけで一向に取りつくしまがない。心なしかその表情には日々険しさが増しているようにも思える。


 息苦しい。

 だが苦しいのはこの空気のせいだけではない。


(袁隊長、私に呆れているのかしら。それとも嫌われた……?)


 武官となってから、己の正体を隠していた時ですら、仁威は真摯に珪己を見守り助けてきた。女でありながら武官を志した珪己を一度も疎んじることもなかった。


 珪己にとっての仁威とは、上司でありながらもそれ以上の意味を持ち始めていた。だからこそ、今のような状況は珪己にはこたえた。期待を裏切っているという実感は悲しみとなって珪己を闇に突き落としていく。不甲斐ない自分に腹がたつ。


 それでも無情に……二人は何の会話もせず、とうとう楊家の近くまでたどり着いた。早く仁威から離れたいような離れたくないような、矛盾した気持ちを抱えながら、珪己は足元ばかりを見つめていた。


 見れば、地面に映る二人の影は長く伸び、膨れ、まるで体の一部が一体と化したかのように重なり繋がっていた。その情景に珪己は素直にうらやましさを感じた。こうやってほとんど毎日一緒に歩いているというのに、今はなんと心の距離の遠いことか。


(そういえば。官吏補として初めて登城したとき、袁隊長ったら私達の関係に微妙に変な設定をするよう命令してきたのよね)


 知っているけれど特に仲がいいわけでもない関係――仁威は二人の関係をそう定義するよう要求してきた。それは結局覆され、侑生を通して私的に仲よくなったことになっているが。


(……私が武官でなくなれば本当にそういう関係に戻るんだろうな)


 本当はこんなにも自分に影響を与える人――そう、大切な人だというのに。




 と、隣の仁威の歩みも遅くなり、ぴたりと止まった。


古亥こがい殿?」


 ささやくように頭上からこぼれた仁威の声に、珪己が顔を上げると、楊家隣の道場前に鄭古亥の姿があった。


 珪己は思わず小走りで駆け寄った。


「師匠! 今日は遅くまでいるんですね」


 無邪気に笑う珪己を古亥は少し目を開いて見やり、そしていつものごとくにやりと笑った。


「まあな。今日はわし自ら弟子らに稽古をつけてやってたしな」

「またまたあ、嘘ばっかり。師匠が稽古をつけてくれるわけがないですよね」


 指摘され、古亥は滑稽そうにぺちんと自分の頭をたたいた。


「はっはっは。嬢にはお見通しだな。実はさっきまでここで昼寝してたのさ。寝転んでたら、気づいたら本格的に寝てしまっていたらしい。最近は日も伸びたし陽気もいいからなあ」

「もう、そんなのんきなことを言って」

「嬢は今夜も道場を使うのかい?」


 なんてことのないように発せられた古亥の言に、さっと仁威の視線が珪己に降りた。それを察し、珪己はちらりと仁威を見てとりつくろうように笑ってみせた。


「……では隊長、また明日」


 追及するような視線を振り切り、珪己はそそくさと足早に楊家の門へと入っていった。


 珪己が去り、その姿が見えなくなったのを確認したのち、古亥が小さくため息をついた。


「仁威。あまり急くでないぞ」


 その顔はもう珪己の見知った師匠の顔ではなかった。だらしなく頼りない老人ではなく、武芸者そのもの、そして何かしらを心に負う者の顔となっていた。


「嬢はあのとおり毎夜一人で稽古しているが、あれではいつ倒れるか分かったものではない。あの目の下のくまに気づいてないのか?」


 古亥には珪己が今置かれている状況が手に取るように分かっていた。いや、分からない方がおかしい。古亥は近衛軍将軍を拝したことのある武芸者であるし、珪己を一から武芸者に育てた師でもあるのだから。


 珪己がこの春、宮城でどのような事件に巻き込まれたのか、おおよそは玄徳からも聞いている。であれば当然、今のような状況に至るのは道理だ。


 対する仁威は、過去の上司の前であるというのに毅然としていた。


「武芸者であれば当然通る道です。それはあいつであっても例外ではありません」


 まっとうな正論に古亥の口元が歪んだ。


「そんなの分かっとるわ。だがなあ」

「……本当に分かっているのですか?」


 切り返した仁威の口調がやけに鋭く響いた。

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