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3.心ここにあらず

 李侑生は目の前を歩く敬愛する上司を注視している。


 その上司――枢密使・楊玄徳と朝議のための室に向かうのはいつものこと、ただし上司から漂う気配はやはりいつもとは異なっていた。


 最近、何かがおかしい。


 例えていうなら、普段、玄徳の背から感じられる気には赤と白、この二色しかない。朝議に向かう玄徳の意気込みがこれから予測される議題に応じて二色に映るのだ。一つは清廉潔白かつ誠実な白、もう一つは怒涛の追及、攻撃を秘めた燃えるような赤。


 それがここ数日は違った。青や緑、灰色、まれに黒。つまり気分にむらがあるうえ、何かしら気に病むことがあるということだ。


 だが、侑生は気になりながらも、自身の心が落ち着きを取り戻すまでに珍しく時間を要したこともあって、これまでなかなか正面きって問うことができずにいた。それでも何度か「体調がよろしくないのでは?」と遠回しに訊ねている。しかしその都度、眉を下げて困ったように微笑まれて終わってしまっていた。


 玄徳が何も言わずにそういう表情をするときは、決まって『何も言えない』場合で、侑生にすれば『何も訊くな』という命令と同義だった。であれば引き下がる他、ない。


 ただ、この日、とうとう事情が変わった。


 朝議において、皇帝までもが玄徳と同じようなふるまいを見せたのだ。


 臣下からの提案、意見に対して「もう一度話せ」と二度訊き返したところまではよかった。問われた臣下のほうは、


「わたくしの説明が至らず申し訳ございません」


そう平服し、より具体的かつ冗長に語り直すだけだからだ。


 しかしそれが三度となると、周囲もおや? と思う。


(もしかして、心ここにあらず……?)


 そう疑問に思う顔がいくつか見られ出したその時、中書令・柳公蘭が開口した。


「陛下。残るは中書省からの議題のみ、そして全て小さきことばかり。私と各尚書とでさらに話し合っておくことにいたしましょうか。その結果は翰林学士に託しますゆえ、あとは陛下のほうで用いるか否かだけを決断していただければ」


 聞けば、確かに取るに足らないような議題ばかりであった。


 この湖国、十国時代以前の政治と大きく異なる点として、皇帝に権力を集約したことが挙げられる。官吏が必要以上に重い権限を持つことができなくなり、その結果、収賄等の犯罪や権力争いが激減した。だが、これにはいちいち皇帝自ら政を行わなくてはいけないという欠点もあった。


 どこからどこまで皇帝による采配が必要で、どこからどこまでは臣下に一任してよいか。その微妙なさじ加減は、三代皇帝の御世になってもいまだ決めかねられている。一度臣下に委ねた権限を再び皇帝の手に戻すのは容易なことではないからだ。


 それは現皇帝・趙英龍も分かっているから、即位から今年で十年、今まで無理をしてでも自身の頭で考え決断するようにしてきた。よって、この国には宰相はいない。過去には中書令が実質の宰相であったが、湖国が興ってからは中書令には文政をまとめる長以上の権限はなくなり、軍政を担う枢密使とともに、皇帝の決議を伺う一段低い立場となっている。


 なので、公蘭の提案はこの場では渡りに船ではあったとしても、まだ受諾する時期とは言えなかった。一度決壊した川の水は容易にせき止めることはできない。些細な案件から権利の渡譲が始まったと思ったら、あれよあれよと大きな案件にまで悪心の牙が向くことになるやもしれない。それはこの国にとって非常に危険なこととなる。


 こういった重要な指針こそ、皇帝が冴えたその時に改革すべきことだ。


 英龍の脇に立つ趙龍崇が階下の公蘭をぎりりと睨みつけた。


「柳中書令。そのようなことはそなたには申しでる権利すらないぞ」


 公蘭は皇帝の異母弟に対してもその余裕を崩さない。


「いえいえ。私の申しましたことは忠臣としての言でしかございません」

「臣下の分際でそのようなことを口に出してよいものとこの場で示したことこそ、不忠極まりないであろう!」


 龍崇が異母兄を貶めるような言動に対して過剰に怒りを見せるのは、実はよくあることだった。演技ではないかと疑うこともできないほど、異母兄を想う心が真摯なのである。


(ほんに黒太子は異母兄思いだこと。……さて、それでは彼の人はこの国のことをどれほど想ってくださっているのか)


 公蘭がその思考を口に出せば、その指摘の確かさと命を顧みないほどの率直さに、居並ぶ官吏は真っ青になり慌てふためき、当の黒太子は烈火のごとく怒り腰の剣を抜いていただろう。



 公蘭が口を開きかけ、聡い官吏の数人が息を飲んだ――その時。

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