6.武芸が好きなの
体中の血の流れが止まったかのように、うすら寒さに体が震えだす。皮膚の上を這うような、ねっとりとした何かを空気中に感じる。粘着質なその流れは珪己の体温をさらに奪おうとするかのようにじわじわと包み込んできた。
大蛇に全身を絞められているかのような恐ろしい錯覚だ。何の意志もなさそうなその瞳には、ただ一つ、殺意だけが浮かんでいるのではないだろうか。
殺される?
――殺される?
闘うということは命を懸けるということ。ここで自分の命が尽きることすら覚悟して向き合う行為だということ。
そう、武芸とは楽しむためのものではない。心の平穏を得るためのものでもない。心を、体を強くするためのものでもない。ただひたすら、闘いにおいて勝つための手段でしかないのだ。
分かっていなかった。
何も分かっていなかった。
八年前のあの日、母の命を奪った人物もまた武芸者であったというのに――。
『何言ってるんですか』
つい最近そう得意気に言った自分の台詞が頭の中に響き渡る。
『私は武芸が大好きなんです! 何があったって、やめることなんかありません!』
(……そうだ。私はやめないと決めたんだ)
珪己は唇を噛み、きつく眉をひそめた。
「その簪をください」
仁威に向かって挑むがごとく手を伸ばす。その顔色は青白いながらも、眼差しには常とは異なる気迫を宿している。
(今ここで負けるわけにはいかない。絶対に……!)
宿敵を睨むかのような視線に仁威は動じなかった。ただ黙って簪を珪己に渡した。仁威にも珪己の心の葛藤は手に取るように分かっていたからだ。
(そうだ。闘え。闘うんだ)
(今ここで負ければお前は武芸者ではいられなくなる)
(過ぎさった悪意になんて負けるんじゃない)
(ただ好きで武芸をやってきたわけではないということに気づくんだ……!)
珪己は簪を受け取るとぎゅっと強く握りしめた。そうすると仁威の思惑通り、拳の中に何が収まっているか、外見からは全く見当がつかなくなった。何も持っていないようにも見える。
「お前の小さな手のひらでも十分隠れる長さの物を選んだ。それであれば敵と戦う際に有利となるだろう」
幼女のための簪を武器にすると事もなげに言う。
聞く者によっては仁威の声のかすかな震えに気づくことができたかもしれない。しかし珪己は気づかず、ただ淡々と説明されたようにしか聞こえなかった。
(そうだ。これは武器なんだ)
――これはもはや簪ではないのだ。
そう自覚した途端、過去が、様々な思考が珪己に襲い掛かってきた。濁流のように取り留めもなく――。
(あの黄真珠の簪も、髪を飾ったのはほんのひと時だった。あんなに美しかったのに……)
(王美人は皇帝陛下のために美しい装いをされていた。でも皇帝陛下に会えたのは、死ぬ間際のほんのひと時だけだった……)
(何のために美しさはあったの……?)
(この簪は誰かを傷つけるために作られたの……?)
震えるその手をそっと開くと、簪の先端の尖った部分が差し込む陽光に反射して小さく光った。
(私の目を狙ったあの簪も、あの夜、こうやって小さく輝いていた……)
足が震え、珪己がその場に崩れ落ちた。
(私はあの時……!)
まだ起きてから何も食べていない胃から液体だけがせり上がってくる。珪己は我慢できずにそれを吐き出した。一度吐き出すと、もう止まらなかった。出すものはない、そう頭では分かっていても珪己は吐き出さずにはいられなかった。
出せ、出せ、全て出せ。
今までの愚かだった自分を。
何も分かっていなかった自分を――!
座り込み、えずき、涙を流し、うめきながらも……それでも握りしめたその手から簪が取り落とされることはなかった。
*
この日の朝稽古は取りやめられた。仁威は何も言わず道場の床をぬぐい清め、それから放心状態で座り込む珪己の腕をつかみ立たせると隣の楊家へと連れ帰った。
まだ日も昇ったばかりの時間、玄徳は起き抜けに娘の変わり果てた姿を見ることになり久方ぶりに本心から驚いた。
しかし、珪己の内へ内へと潜るかのような、現実ではなくどこかを見るような鬼気迫った表情と、傍に立つ仁威の隠し切れない苦しげな顔に……玄徳はもう何も言えなかった。
玄徳は着衣が汚れるのもかまわずに珪己をそっと抱きしめた。珪己は固くなった体を小さく震わせ、それから玄徳に子供のように強くしがみついた。
「……父様」
「うん」
つうっと、閉じられた珪己の目から涙が零れ落ちた。
「やっぱり私、武芸が好きなの。辛くて苦しいけど……でも好きなの」
「うん」
「だって武芸は私を強くしてくれるから。武芸だけが私を強くしてくれるから……」
ぎゅっと、父を抱きしめる珪己の腕に力が込められた。
「……私、強くなりたい」
それはまごうことなきたった一つの願いだった。
「やっぱり強くなりたい。じゃないと私、どうしていいか分からなくなる。何をしていいか分からなくなる。だって私から武芸をとったら……何にもなくなるから……」
「そんなことはないよ。珪己は生きているだけで、それだけでいいんだ」
「分かってる、父様がそう言ってくれるってことは。でも私はそれだけじゃ嫌なの。私は父様の可愛い娘でいるだけでは嫌なのよ。もう二度と何もできずに後悔するような弱い自分にはなりたくないのよ……!」
珪己は声をあげて泣いた。
わあわあと、まるで幼子に戻ったかのようにいつまでも泣いた。
そんな娘の頭をなでながら、玄徳はそれ以上何も訊かず、言わず、ただ黙って娘を抱きしめ続けた。いつの間にか仁威は姿を消していた。
娘は大きくなっている。
こうして抱きしめていると、玄徳はそのことに改めて気づいた。
大きくなった。妻に似てきた。それに――心を痛めてもなお闘おうとする強さを身に着けている。
ちょっと前まではお菓子を食べられないというだけで泣いていたような子供であったはずなのに、今はこうやって己自身と闘っている。逃げたくないと闘っている。
(がんばれ、がんばれ……!)
決して口には出せないから、玄徳は心の中で娘を応援し続けたのだった。
いよいよ、次話から最終章に入ります。




